二
二
目を閉じれば、物語の世界が広がる。
手を伸ばせば届くところにさくらがいてくれているような、そんな気になる。
現実の私は、電車に揺られて青空の隣にいる。
うたた寝をしていたのか、空想の世界に浸っていたのかよくわからないけれど、とにかく顔を上げるとそこは電車の中で、車窓の向こうにはどこまでも続くのではと思われるほどの田園風景。
「寝てた?」
「んー、うん。微妙に……」寝ていたのとは違うのだろうけれど、説明も面倒だったのでそういうことにしておいた。というか、説明できる気がしなかった。
こちらを覗き込んで尋ねる青空の笑みは、これからの予定に期待をはせるたおやかな笑み。
現実に引き戻された私も、ありのままに笑みを浮かべた。
今日のこれからを、楽しみに思うことができていた。
夏のある日、私たちは電車を乗り継いで市を跨いだ先の海に行くことになっていた。
いい加減、一週間以上家から一歩も出ないというのはよろしくないということで、私の希望の場所でいいからと、青空がお出かけを提案してくれた。
少し考えを巡らせて、しかし結局行き着く先はどう頑張っても変わらない。
さくらと、さくらの小説に関する場所だ。
「海、かな。さくらのプロットに、次のシーン海だって書いてあったから。私、海って行ったことないし。あ、あるのかな。……わかんないけど、覚えて、ないから」と、いうと、なるほどという顔をして青空は、快諾した。
「さくらも、海は行ったことなかったと思うよ。プールの授業も全力でサボってたし、水、苦手なんじゃない。……でも、いいね海。行こうよ一緒に」
水が苦手とはさくら、いよいよ人外じみているぞ。
元々人から離れている部分はあったけれど、さらにさくらが遠くなったように感じる。
こうやって、目の前の現実に没頭しているとそうだ。
さくらを感じるのであれば、現実から離れて、創作や夢の世界に沈んだ方が賢明だ。
その方がより、さくらを感じ取ることができる。
さくらに、近づくことができる。──最後の一歩でさくらに触れられない現実を、私に突きつけてくる。
「大丈夫? 今回はなんか無理にあたしが誘っちゃった感じだし、しんどかったら言ってね。休憩しつつ、さくの行きたいとこまわろ」
適度な揺れが眠気を誘発する。
あくびをかみ殺しながら電車に揺られていると、心配そうに青空がこちらを覗き込んでいた。
慌てて表情を取り繕い対応する。
「大丈夫だよ。最近は大体毎日寝落ちするまで小説書いてるもんだから、まぁさすがに、寝不足ではあるけど。不思議と、しんどくはないんだけどね」
「相変わらず、さくらはさくらだなぁ」
相変わらず、私は私らしい。
果てしなく広がる、だけどどこかで必ず終わりの来る目の前の情景を前に、私は思う。
私は、どこまでが私だろう。どこからが私だろう。
深い思慮にはまって、抜け出せなくなる。さくらは、他人と関わることで自分が失われると考えていた。
だけど私は、誰かと話して触れ合って自分を獲得しなければならない。
そうしなければ私は、空っぽだから。
冷房のよく効いた車両を降りると、八月の熱気が途端に私たちを包んだ。
だけど不快な湿度はそれほどでもなくて、からっとした暑さがどこか心地よかった。
「ん──こっちか」
車両を降りて私の右隣を歩いていた青空が、何事かを呟いて奇妙な動きをした。
ぱっと私の前に出て、身を翻す。
右側から左側に、立ち位置を変えた。
「ん?」
「うん、やっぱりこっちの方がいいかもだね」
そう言って青空は、私の手を取る。
どうやら手をつなぐためには右側よりも左側の方が都合がよかったらしい。
だって、ないから、右腕。
青空は別に、こういうわかりやすい形の触れ合いとかつながりを求めているわけではない。
ただ単純に、私が危なっかしいからこうして手を引いて──手綱を引いてくれているのだ。
重心を傾けて歩けば壁に左側をぶつける。
頭もぶつける。
意識の八割方は創作の世界に向かっているので、ちょっとした段差に気づけなくてけつまずく。
基本的に方向音痴で、大きなショッピングモールを歩いているだけで青空とはぐれて、迷子になる。
どうしようもない私の手を、青空は引いてくれているのだ。
「あっついねぇ、もう、夏だ」
「夏だねぇ。さくは、夏、好き?」
手をつないで歩くのにはいささか不適当な気候だったけれど、二人はそのまま駅を出た。
閑散とした駅前の道は、両脇を背の高い木に挟まれて日陰になっていた。
田園の開けた先にこの道はあって、地図によると、その先に海があるらしい。
「ん、むしむししてないときは好きかな。湿気があるとちょっとなぁって。なんか、調子悪くなっちゃうし」
「あぁ、昔からそうだったよ。梅雨とか、雨の時期は頭痛くなるみたい。低気圧とかの影響だと思うけど」
ふむ、なるほど。そこらへんは記憶の関与しない身体的な領域になるから、私とさくらの間で相違はない。
ふふ、と、単純に私は嬉しくなる。
「海、楽しみだね。そういえば最近は、家族とかでも行ってなかった気がする」
首肯しながら、実は私も楽しみだった。
海は、未知の領域だ。
さくらに関係のない、さくらと関わりのなかったものに心を弾ませるなんて、自分でも意外だった。
でも考えれば、目覚めたばかりの私はさくらのことなんてすべて忘れてしまって、それ以外で自分を構成するしかなかった。
たとえば、目覚めてから出会ったホズミさんとの会話とか。
それなのに気づけば、私はさくらだらけ。
さくらを想って、小説を書いて、さくらを想う。
最初の頃と比べて、まるで別人だ。
「あ、あそこ。あそこ抜けられるのかな」
そうしてしばらく歩いていると、背の高い防波堤が見えてきた。
人の背丈を優に超えるものだったが、青空の示す先にトンネルがあって、反対側に抜けられるようになっていた。
指さす青空の頬が、見るからに綻んでいる。
「行こ行こー」と、私。
「ゴーゴー」こちらは青空。
平生から温度の低い二人にしては珍しく、テンションが高かった。
数メートルの路を行けばその先には、まったく別の世界につながっているかのような明るい光。
異世界からの白光が、手招きしていた。
そして開けた青色に二人、そろって心を弾ませる。
「うあぁ」
「おおぉぉ」
トンネルをくぐった私たちは、別世界に飛ばされてしまったのだった。
見渡す限りの白い砂浜。右を見て、左を見ても果てしなく続いている。
その先にはまた、これこそ本当に終わりのない青色の海が。見上げた空も、汚れのないクリアな水色だった。
美しい光景を前にして、純粋にその様子に胸を打たれる。
だけどそれだけではない、また別の気配が私の胸懐を満たしていた。
横で手を握り続けてくれている青空の顔を盗み見て、再確認する。
青空にも、海にも向いているわけではない自分の感情に、申し訳なくなる。
心の中には、乱れなく生きる少女の偶像。
すべてを決めてしまっているみたいなまっすぐな女の子。
真っ白に駆け抜け続けた、さくら。
こんな景色をさくらと見られたらなんて思ったのは、ほんの出来心。
なにをしていても、なにを考えていても、結局──。
私は、さくらに恋をしているのだった。
遊泳禁止の区域だったので、砂浜は私と青空の貸し切りだった。
海辺を意味もなく、ひいては寄せる波沿いに歩いていた。
強い波が来たら靴が濡れてしまうくらいのぎりぎりを、私は歩いていた。
青空は私の左手を解放してくれて、少し離れたところを歩いている。
海壁を背景に、こちらを見ている。
その親友を、綺麗だと思う。
記憶をなくして途方もない私の手を取ってくれたのが、青空でよかった。
でもやっぱり、私の内側はさくらでいっぱいだった。
どうしようもなくさくらと──さくらに対する好きで、埋まってしまっていた。
青空の方を見ると、青空はどこか、心配そうに私を見ていた。
どうしてそんな表情をするのだろうと、考えれば、なんとなくわかる気がした。
全然、わからない気もした。
青空と私は多くの会話を必要とする間柄ではなかったけれど、だからといって勝手に青空の気持ちを想像してかみ砕いて、理解した気になるのは不誠実というものだ。
ただ一つ、共感というか、なんとなく自分と重ね合わせて理解できる気になっていることがあった。
それは主に、さくらに関することだ。私も、青空も、さくらを想っているという広い意味では同じだから、さくらについて想うところは結構、共鳴するところがあった。
青空はたぶん、私が──さくらがどこか遠くにいってしまいそうで不安だったのだと想う。
私が青空をわかったような気になるのと同じで、青空も私を、わかってくれている。
特に私は、単純でわかりやすいから。
私も、青空も、方向性の違いこそあれどさくらを愛しているという一点で共通している。
だから結構簡単に、心通い合ってしまうのだ。
「大丈夫だよ」
潮が満ちてきたので、海から離れて砂浜を青空の方へと向かって歩いた。
青空の、夜空みたいに黒い瞳がまっすぐこちらを見据えている。
「私は、どこにもいかないから」
さくらを取り戻せても、取り戻せなくても。
それによって私が消えてしまったとしても、さくらはいる。
青空はきっと、さくらと一緒に歩き続けることができる。
どんな形であるにせよ。絶対。
大丈夫だよ。
さくらもずっと、あなたのことを想っていたから。
これからもきっと、あなたを想い続けるから。
「うん、わかってる。ずっと──一緒だ」
ふと視線を沖へと這わせれば、低く伸びる離島が霞のかかった水平線上に望むことができた。
岸を洗う静かな波が、さくらの好きなホワイトノイズを鼓膜に届けていた。
傾き始めた日差しを浴びて、海よりもなによりも、青空が綺麗だった。
帰りに、行きの道すがら見つけた小さな喫茶店に入った。
雰囲気のいい店内で、フルーツの香りのする不思議なアイスコーヒーを飲んだ。
喫茶店の中以外のほとんどずっと、私たちは手をつないでいた。
家に帰ってリビングを通ったとき、テレビを見ていた母が「おかえり」と言って振り返った。
ただいま、と呟くように言って、所在なくテレビに視線を向けた。
関東全土を覆いかねない巨大な台風が近づいていると、ニュースが報道していた。