零
たったひとつの幸せ。
それさえあれば、他にはなにもいらない。
それだけあれば、幸せ。
心の奥底からそう叫べるもの。
それを、探している。
それを、見つけた。
わたしが紡いだその物語は、要するにそういう物語だ。
夕暮れ時、予報外れの雨が降っていた。
わたしは、雨と二人一つの傘を共有して歩いていた。
雨が持っていた折り畳み傘では、二人で大雨の中を進むのは心許なかった。
やはり駅前のコンビニなどで傘を買った方がよかったのではと思ったけど、それを言い出せずにもう数分が経過していた。
二人の間に会話は、ない。
今日は、雨に誘われて少し遠出していた。
以前わたしが興味を持っていた美術館のチケットを手に入れたという話で承諾したのだが、断ればよかった。
美術館の中では極力会話をする必要もなかったが、その道中や軽く食事を取った際のわたしたちの空気は最悪だった。
元々わたしたちは、盛り上がって会話するタイプの恋人同士ではなかった。
わたしが自分の中の思考や空想──小説のアイディア──を言語化して話すことはあっても、雨から盛り上がって話を切り出すことは少ない。
ぼそっと、興味を持ったものについて発言したり、そのときわたしが書いている小説について彼が質問してわたしが答えたりする。
口数で言えば、圧倒的にわたしの方が多かった。
だけどわたしたちは三ヶ月前に別れて、今は他人同士でしかない。
こうして特別に二人で会うことだって本当はおかしい。
確かに別れる前に比べ格段に会う日数は減ったけど、それでもなお雨は、わたしを誘い続けていた。
見たがってた映画の券が手に入ったんだ。
美味しいパンケーキの店見つけたんだ。
さくら、好きだっただろ?
断り続けることも面倒で今日この日があるのだが、正直、はっきりいって──うんざりだった。
会話も少なくなるというものだ。
雨脚が一際強まる。土砂降りといっても差し支えない状況に、いよいよ胸懐の蟠りは濃くなった。
どす黒く、重々しく、まさしく水分を多分に含んだ衣のように、わたしにのしかかる。
ジーンズの裾が、跳ねた雨滴でぐしょぐしょだった。
元々ぴたっとしていたスキニージーンズが、さらに窮屈に感じられた。
居心地の悪さも、そろそろ限界だった。
「酷い雨だな。やっぱり、どこかで雨宿りしてくか?」
そうは言っても、家までの道すがらコンビニ以外に雨宿りできそうな店舗はない。
雨の言葉に、ゆるりと首を振って否定を示した。
前を向くと、まっすぐ進む道の先が、霧のかかったみたくなっていた。
足を止めると、わたしだけが雨空の下に身をさらされた。
数歩進んで雨が、足を止める。
息が詰まりそうな想いを抱えたまま、指先が、痺れるように感じた。
「ねぇ」
怒気のような、わたしにしては珍しく感情のこもった声だった。
慌てて自分を諌めてついで出た言葉は、今度は酷く乾いた冷淡なものに変わった。
「わたしたち、別れてるんだよね」
ぐしゃっと、雨の心の内が、丸めた紙のようになるのがわかった。
いつもは感情を表に出さないのに、そんな顔もするんだね、君。
そんなことも、わたしは知らなかった。
わたしたちはお互いわかり合えたようで、なにひとつわかってなんていなかったんだ。
「……俺は──恋人でいられないなら、せめて、友だちなら、って」
振り絞られるような声。
今にも泣き出しそうな顔をして、もしかするともう既に、泣いていたのかもしれない。
雨も雨で降りしきる雨水に濡れていて、なんだかもう、よくわからなかった。
文章自体がややこしくて、よくわからない。
「俺、は……さくら以外には、興味ないから。だから、友だちに戻れるなら、いいって。また一緒に、遊べるならって」
ぴくっ。と、顔の端が跳ねて歪んだ表情が浮かぶ。
心を落ち着けようとしても、どうしても収まりどころを見つけられない。
いつものわたしとどこか違う。
考えるよりも早く、口が動く。
「わたし言ったよね。小説と自分に、集中したいって」
雨がどんどんとわたしを染めていく。
水でシャツを重くして、まるでわたしをその場に縛りつけるようだった。
「でも、これじゃあ……友だち以下だよ」
悲痛な声を上げる雨にわたしは、どこまでも冷淡な眼差しを向けていた。
自分で自分がわかるくらい、どこか冷めていて俯瞰的な自分がいた。
「そう思うならそういうことだよ。呼び方が気に入らないなら、名前を変えようか。別の名前……友だち以下って、名前にしようか」
ぱしゃっと、氷水を浴びせられたような心境だった。
こちら側がどうしてかそんな心境だったのだから、彼の方こそよっぽどわたしより衝撃だっただろう。
雨の表情から読み取った共感が、わたしの心の深層にあったものが、わたしを染め上げていく。
感情の抜け落ちた顔というものを、初めて見た。
こぼれ落ちる、という表現が適切だろうか。
雨の顔から、元々少なかった感情がさらに削り取られるようにして失われた。
空っぽになった雨の顔は、母親に怒られた子どものよう。
信じていたものに裏切られて所在を失った者のそれだった。
ついで数秒後、雨の表情がぐちゃっと歪む。
彼の心までも握りつぶしてしまったようで、気持ちの悪い感触だけが残った。
砂を噛んだような不快感に、浸食される。
「たったひとつの幸せ。俺にとっては、さくらがそうだったんだ」
そこで、わたしの小説を持ち出すのか。
もやもやと、ぐずぐずと、むしろ統一感すらある見上げた曇天よりもよっぽど、わたしの心様は荒れていた。
はぁ、と、息を吸ったのか吐いたのか、わからなかった。
息が苦しい。
心臓が締めつけられるように痛む──つきあっていた頃の胸の締めつけとは、打って変わったそれ──。
視界の端の方が光を失って、視野が狭まった。
あぁ、そうか。人を傷つけるって、こういうことか。
「違う。あなたのそれは、違う。わたしの言いたいことはもっと、すべてを投げ出せること。腕をもがれても、足の先から削られても、これさえあればいい。そう思えるたったひとつの幸せのこと。あなたは、わたしに認められたいって、わたしに好かれたいって、思ってる。想いが、他のいろんなものと混じって、ごちゃごちゃしてる。それはわたしの求めてる『光』とは違うよ。例えば、珈琲の黒はクリアで、牛乳の白もクリアだよ。でも、二つが混ざりあったらクリアじゃない。双方のよさが歪んじゃって、それは本当の姿じゃない。各々の素晴らしさを尊重するなら、それぞれ別々に置くべきだ。わたしが言いたいことは、そういうこと。承認欲求や自己顕示欲が悪いって言ってるわけじゃないよ。それも、人類が長い長い時間を生きて辿り着いた一つの解だから。それを否定する気はない。でも、それが、好きって感情に混じったらいけない。ほんとうにあなたがわたしのことを好きなら、自分の欲求を介在させちゃだめだよ。『光』は、すべての色の合わさった白。そして、なにも介在しない真っ白。あなたがそれを好きだと、恋だと愛だと呼ぶなら好きにすればいい。でも、わたしはそれを求めてない。求めない。わたしが探してるのは、そんな曖昧なものじゃないんだ。もっと絶対的で、なににも汚されない白なの。──小説にも書いたよね。荒野に咲く花。泥の中でも誰に踏みにじられても、決して汚れないの。壊れた純白。染められるという機能を放棄した壊れた白だよ。それが、わたしの求める絶対なんだ。悪いけどあなたの気持ちには、それがなかった。少なくともわたしには感じられなかった。あなたから……完全なクリアを見つけることはできなかった。……──雨の想いが、苦痛だったわけじゃない。雨に好きって言われることが、辛かったわけでも苦しかったわけでもないんだ。あなたとたくさんの時間を過ごして……確かにわたしは楽しかったから。過去の、ちょっと前までのわたしはね。だけど今のわたしは、あなたを必要としていない。あなただけじゃない。今はね、自分以外のすべてが疎ましく感じるの。呼吸すらも、邪魔。わたし以外のすべて、全部。邪魔なものを全部取り除いて、その先にある景色を見たいんだ。──だから、ごめん。こういうのは、もう最後にするね。もう終わり。わたしとあなたは、もう二度と二人で会わない。ごめんね、自分勝手で。でもやっぱり、最初からわたしはこういう人間だったんだ。雨が一番、わかってるでしょ? 雨が一番、わかってると思うの、わたしのこと。……ごめんね、嫌いになれなくて。お互い嫌いになれたら、わたしたちはきっと、もっともっと楽に別れられたよね。好きなまま別れたらお互い辛いばっかりだって、本当はわかってたのにね。ありがとう。楽しかったよ、あなたとの一年間──ちょうど、三百六十日くらいかな。わたしの人生で、一番人間らしい一年だった。たぶんもう二度と手に入れられないくらいの、僥倖だった。雨がいたから、あなたとだったから、そういう時間を過ごすことができたんだよ。ありがとう。……でもさよなら。わたしたちはここで終わり。ごめんね、最後までわがままで」
言葉にした想いよりも言外に留めた思考の方が多いのが、わたしにとって常々のことだった。
わたしはいつだって、言葉にするよりも長ったらしく文章にする方がむしろ手っ取り早い。
急がば回れとは、よくいったものだ。
要するにつまり、このときのわたしは考え得る限り最大限にわたしらしくなかった。
文字に紡ぐよりも早くすべてを吐露して、呟いて、口に出していた。
やっぱり、誰かといることでわたしはわたしじゃなくなる。
気持ち悪い。
異物感が拭えない。
自分が自分でなくなる。
早くわたしは、わたしを取り戻さなければ。
もう全部、わたし自身に起きたことは忘れてしまったって構わない。
わたしはわたしの世界を創りだす。
そこに、引きこもる。
閉じこもる。
引きこもって、扉を閉めて、鍵をしよう。
わたし以外誰にも、それを開けることはできない。
雨の中、身を濡らしたまま横断歩道を渡る。
もう彼の方は振り返らず、まっすぐ進んだ。
眩い光と耳をつんざく大きな音が、迫っていた。