一
私は、事故に遭った。らしい。
目が覚めると木目調のおしゃれな天井が見えて、目が痛くならないくらいの強さの光が、私の網膜を刺激した。
とにもかくにも状況を確認しようと、体を起こしてみる。
どうやら私は、ベッドに眠っているようだった。
なにやら柔らかい物に全身を包まれている。
左腕をぽてぽて動かしてみると、なにか堅いものに触れた。
びくっとなる。
なんだろうと懐疑に頭を支配されるもすぐに、それが、ベッドの縁であると思い至った。
そうしてその、真っ白な布団から身を離そうとして、気づく。私は──私には、右腕がなかった。
あるべきその部位が、欠損している。
いつも通り手をついて体を起こそうとして、その事実に気がつく。
思考が停止したみたいに、私の体を止める。──もう一つの、どうしようもなく頭を真っ白にさせる現実とともに。
私は、私が誰か知らなかった。
自分の名前、年齢、どこに住んでいて、どんな日常を過ごしていたのか。
先ほどいつも通りといったが、その「いつも通り」すら私の頭の中にはない。
どのように私は、右腕を使っていたのだろう。
そもそも私は、これまで右腕のある人生を送っていたのだろうか。
わからない。
どうして私はここにいるのだろう。
ここは一体どこだろう。
そんな疑問を抱くことも不自然な、やってはいけないことである気がした。
そんなこと、あるはずないのに。
でも、じゃあ、そんなことあるはずがないと、どうしていえるのか。
その根拠はなんだろう。
わからない。
わからない。
わからなかった。
ぐぐっと、額の間にしわが寄る。
自分が何をしようとしているのか、それもすぐにわからなくなった。
一つひとつ、感覚をつなぎ直すように思考を巡らす。
やみくもに進んでみて、たまたま手が触れたものを握りしめる。
それが、見覚えのあるものだとわかるけれど、どこで見たのかはわからない。
いつ見たのか。
今がいつなのか、今という概念とかいつという概念とかにも、違和感がある。
その感覚はあまりにもしっかりと私に馴染むのに、どうして馴染むのかはわからない。
自分とその周りとを取り巻く感覚の気持ち悪さに吐き気を覚えて、少しえずいた。
私という存在すらにも、何かが違うという感覚を抱いている。
何故違うのかなんて、わかるわけがない。
腕があって、手があって、指。
その一連の見てくれが妙に異質なものに思えた。
視線を下ろした先の脚部が、どんなものなのかもわからないそれは、私にとって必要なものだっただろうか。
体を支えるだけであれば、二本のぼうっきれなど着けなくても、腰とかそういうものがあればこと足りるのでは──?
必要性の根拠となる記憶がない私は、そんなことを思ってしまう。
からっぽの、空白の、最初から何もなかったことが正解であるような右腕が、いやに私に馴染んでしまう。
実在ばかりで根拠のない雑多なものたちよりも、存在しない右腕の方がずっと、優しかった。
一
私の名前は、秋光さくらという。
ひらがなでさくら、と、書く──らしい。
十七歳。
高校生。
学校の夏休みが始まる少し前に事故に遭って、入院した。
そんなことを告げられても、ちっともぴんとこない。
自分に関する情報を不躾に押しつけられている間、ずっとなにもない空間を、右腕があったはずの場所を見ていた。
態度の悪い私にも、病室を訪れてくれるみんなは優しかった。
でもやっぱり、右腕の方が優しかった。
だって、なにもないから。なにも、押しつけてこないから。
私と同じ。
からっぽだから。
目を覚ました私が最初に見た人間は、看護師のホズミさんだった。
「でもよかったよねぇ。記憶ないとなんだか、ショックもついてこないでしょ?」
なんて、冗談交じりに言う人だった。
にひっ、って笑う時に音を出して、大きな口から真っ白で綺麗な歯を露出させる。
勤務中に私の個室を訪れてお菓子を食べたり雑談したりと、ちょっと看護師さんとしてそれはどうなのかと 思わなくもない勤務態度だけど、私にとってはそんな彼女との時間は心地よかった。
彼女は私を知らないから。
事故に遭って右腕を失うまでの、ここに来るまでの私を知らないから。
ちなみに、看護師という職業がどういうものなのかという知識も私は、拾い集めて思い出さなければいけなかった。
いわゆる思い出と呼ばれるものと違い私は、常識的な知識に関する事柄は記憶していた。
記録、と言い換えてもいいのだろうか。
それらの記録は私の中に蓄積されたまま消えていない。
ただ、とっかかりとなる記憶がないから引きだすのに時間がかかるのだ。
例えるなら、取ってのついていない箪笥だろうか。
頑張れば、開かないこともない。
でも時間や手間がかかる。
開かないまま、ずっと思い出せないこともある。
記録以外の、思い出。
十七歳の私を形作っていた記憶たちは、引き出しの中に残ってくれているだろうか。
消えてなくなって、二度と思い出せないなんてこと、ないだろうか。
私が目を覚ましたことが伝わったらしく、私の家族は、すぐにお見舞いに来てくれた。
私の家族……と、名乗る人だ。
私が疑い深い性格をしていなくてよかった。
過去の私がどうかはわからないけど、少なくとも今の私には、目の前にいる人の笑顔を疑ってかかるような思考回路はなかった。
でも、そうでなくとも彼らは私の──秋光さくらの家族を名乗る誰かでしかない。
「お父さん」は、眼鏡をかけたあまり喋らない人だった。
他の家族と私が喋っているときにふと何かを尋ねて、こちらの様子を尋ねてくる。
弟曰く、「さえない係長どまりって感じ」らしい。
実際は、会社で課長という役職についているという。
詳しい仕事の内容は、聞かなかった。
なるほど。
こういう見てくれ、状態、性格や物腰のことを、さえない、と表現するのか。
「お母さん」は、お父さんとは真逆の快活でよく喋る人だった。
後日一人でお見舞いに来てくれた弟に聞くと、フリーで時折新聞記事など書いているらしい。
明るくて、記憶をなくしてどうすればいいのか、そもそも何かをして許されるのかもわからない私に、優しく接してくれた。
一度、この人は私が記憶をなくしているという話をお医者さんから聞いていないのではと思って、「あの、私、あなたのこと、知りません」と、言ってしまった。
でもそれは勘違いで、母はそう言った私に、からからとした笑い声をあげて「いいのよ、今は」と言ってくれた。
数日経って徐々に感覚が戻ると、そのときの私の言葉がどれだけ残酷だったかを理解した。
そして、どれだけ母が、優しいのか。
自分の辛さを、押し隠してしまう人なのかを。
三つ年下の弟は、鏡で見た私の顔とはあまり似ていなかった。
というか、私が、両親のどちらとも似ていなかった。
弟は目元の感じとかが父に似ていて、ほっぺたのほくろが母と同じなのに、私は二人のどちらの形質も引き継いでいない。
いよいよ私は、私という存在の所在がわからなくなってしまった。
私はどこからきて、これから、どこにいけばいいのだろうか。
「大丈夫? 痛くない?」
「痛いです」
「だよね」
切り落とされてしまった右腕の切り口を消毒しながら、ホズミさんはあっけらかんとしている。
火傷もしていて見るも無残な傷に大仰に反応しないのは、看護師だからだろうか。
それとも、彼女が生得的ないしは生きていく間に得た、彼女の性格からだろうか。
事故の詳細を私は、まだ誰にも聞かされていなかった。
最初に事故のことを聞かれて、記憶がないことを告げると、それっきり。みんな、意識して会話の中からその子細を取り除いているのだと理解した。
お医者さんは、怪我や治療についてしか知らない。
知っているのかもしれないけど、私がどんな事故に遭って今ここにいるのかは、推して知るほか術がなかった。
肩の一番高い肩峰から十センチ弱。
そこから綺麗に私の右腕は切り落とされていた。
事故による断裂からさらに、施術によって綺麗な断面に切り直したらしい。
こうした方が後々義手などをはめる際都合がいいのだという。
基本的には包帯で覆われているのでわからないが、消毒の時見た限り、火傷の痕もあった。
交通事故であれば火災もあり得るのだろうが、そう考えるとかなりの大事故だ。
まぁそりゃあ、実際私は記憶を失っている。
相当の衝撃がなければ、そんなことは起きえないのだろう。
ただ、脳への異常というものは存外にも少なかったらしい。
出血や傷はなく、今のところ経過観察中ではあるが、問題はないという見通し。
全身のところどころにかすり傷や打撲痕、火の粉が飛んだような火傷はあるが、右腕以外に大きな傷はなかった。
……喪失は、「傷」と呼べるのだろうか。
失った身体の一部にないはずの痛みを感じる、幻痛というものがある。
なにかの本で読んだ。
知識ばかりで、どんな本からその情報を得たかは、どうしても思い出せない。
心が痛むという表現があり、その痛みは確かに存在する。
心に傷を負うという表現が存在する。
だから、失った右腕に痛みがあるのなら、それは幻とは呼ばない。痛みがあるならそれは、傷と呼ばれる。
ちなみに別に、私の右腕がその幻痛を催したのかというとそういう話ではない。
そんなものなどなく右腕は、今日も優しい虚無を伝えてくれる、いや、伝えないでいてくれる。
痛むのは、失われた記憶の方だった。記憶が痛むという表現もおかしいのかもしれないが、常識なんて全部忘れてしまったのだから容赦して欲しい。
とにかく記憶がないという事実は、私のことを想ってくれる人を思い出せない現実は、徐々に私に、痛みを与えだした。
静かな優しさで私を気遣ってくれる父親。
あっけらかんとしていて、心配してくれているのかもわからないけど、もちろん私の身を案じてくれているのであろう母親。そして、弟。
本気で私を想ってくれる彼らについてなにも思い出せない自分が、痛い。辛い。苦しい。
でもそれは、きっといい変化だ。
最初こそ自分の右腕にも、記憶をなくしたことにもなにも思うことなかった私が、ほんの一週間でそんな自分自身に罪悪感を覚えている。
今は罪悪感もあるし、思い出せない事実を苦しく思っている。
思い出したい、と、思っているのかもしれない。
自分自身についてわかることなんて皆無に等しいから間違いなくそうであるとは言い切れないけど、そう、思っている。
一週間で情緒を取り戻したのか、新しく育まれ直したのかはわからない。
でもその事実は確かに確かだ。
私は、私を取り戻したいと思っている。……らしい。
頭部外傷による逆行性健忘。
新しい記憶を記銘することへの障害が起こる前向性健忘と違い、逆行性の記憶障害は想起──記憶を、呼び起こすことに起きるものだ。
基本的に原因となる事故──障害以前の情報への記憶異常が基本で、障害発生から近いことほど綺麗さっぱり思い出せなくて、遠いものほど保たれる時間的勾配が認められる。
もっとも私の場合、幼少期の記憶にも靄がかかったように思い出せなくて、事故より前の出来事のほとんどすべてが、想起障害の対象となっているようだ。
そんな私だから、目覚めてから病室で過ごした時間に関する事柄は覚えている。
でも、どうしても不安に思うことをやめられない。
どうしたって、一度自分が記憶をなくしたという事実からは逃れられない。
もう二度と、忘れたくないから。
だから私は、大まかながらも病室での出来事──訪れてくれた人、その人との会話、なにを想い、なにを考えたのか──を、紙に記録することにした。
日記というほど大げさでもない。
言うならば、確認だ。
自分自身に対する確認のための、メモである。
自分がなにを忘れてなにを覚えているのかもわからないだなんて、もうそんなのは、ごめんだった。
売店で小さなノートと一本のシャーペンを買って、そこではたと、右腕のない私は文字を書くことができるのだろうかと心配になる。
食事のときだってスプーンが用意されているから、箸ほどの不便は感じられない。
だけどもし私が右利きだったのなら困るのではないだろうか。
自分の利き腕がどちらであるという記憶が思い出に入るのか記録に分別されるのかはわからないが、思い出そうとしても、思い出せない。
右腕がないから、記憶の箪笥のとっかかりにすることもできない。
そんなこんなで、そもそも片手で文字を書くということ自体難しかった。
ペンを握ってノートになにか記そうとしても、手の動きに合わせてノートがあらぬ方向にいってしまう。
だけど、慣れればどうってことなかった。
私の手は、私が思うように動いてくれた。
着替えを持ってきてくれた母が、そんな私を見ていった。
淀みなく筆を動かし続ける私を見てのことだった。
次になにを綴るか思索しながら母を見ると、にんまり、という表現が正しいのだろうか、とにかく笑いながら母は、言った。
「あぁ、やっぱり、文章なんだね」
顔を上げたまま、首を傾げる。にまにましたまま、母はそれ以上なにも言わない。
とりあえず、頭に浮かんだ文章が消えないうちにノートに綴っておいた。
「言おうかどうか、迷ってたんだけどね」
そう言って母が、持ってきた荷物の中からなにか取り出す。
一冊の、文庫本だった。
「これ、さくらが書いたんだよ」
「100万回生きた君に」──そう題された一冊の小説を、手渡された。
瞬間私の中に、なにか、言い知れない感覚が呼び起こされた。
得体の知れない感覚に、思わずえずいた。