剣術立ち合い
剣術を修めた者同士の立合いは畢竟、呼吸の読み合いに集約される。
機先を制し先の先を取るか、対手の起こりを許さず先を取るか、誘いをかけて後の先を取るか──。
幾つかの勝機は存在するが、それは対手との読み合いに勝った者だけが手にすることが出来るものだ。
従って多くの場合、心得のある者同士の立合いは相手の出方を伺うことから始まる。例に漏れず太郎も見に回った。己の武に対する自負と、対手に優越しているという確信がそうさせた。構えは切っ先を右斜め下に無防備に垂れ下げた構えざる構え──無構えである。
対する次郎は切っ先を真っ直ぐ天へと向けた八相の構え。防御を切り捨てた攻撃の型であった。技で太郎に劣ることを承知している次郎は、己の死を賭した捨て身の構えを取ることに寄って、心を高めることを企図した。
武人の武の位階は心技体の総合で定まる。
これはどれが欠けても弱みを持つことになる事を意味するが、同時にいずれかが突き抜けた段階にあればその他の不利を覆し得る事をも意味している。
心と技が未熟であっても突き抜けた体を有していれば、生半な武では通用しまい。また心が極まっていれば、己の全てと引き換えに対手の命に届き得る。そして技が研ぎ澄まされていれば、対手を己が意のままに制する事が叶うだろう。
果たして、この二人はどうか──。
見に回る太郎はじっと動かず、遠山の目付けで相手を捉え、ただ次郎の動きの起こりをつぶさに観察している。
翻って次郎は、足趾をもってじりじりと間合いを詰めていた。一足一刀の間合いまではもう僅か。
その手前。次郎は数瞬間を置く。太郎の呼吸を読む。否、読もうとした。しかしわからぬ。そして次郎は、少なくない犠牲を払う腹を決めた。
裂帛の気合。猿叫とも呼べる大音声を発して、次郎は死線を踏み越える。
既に刃の届き得る間合い。
気合もそのままに、次郎は冗談に構えた剣を、太郎の左肩目掛けて振り下ろした。狙いは袈裟である。
疾い、と太郎は思った。動きの起こりを消し切る程の巧みさはなかったが、良い気合と迷いの無さであった。次郎の剣は我が命に届き得るものだと認めた。
そんな思考を他所に、次郎の起こりを捉えた太郎の肉体は、次郎の懐に潜り込むように前方へと落下した。
地面を蹴るのではなく、膝を抜く事で重心を前方へ崩し移動する技法。起こりを見せぬ妙技である。
同時に、太郎の剣も動き出していた。右下に垂れ下がっていた切先は、奔り出した途端、獰猛に獲物を求める。刃を返し、僅かな弧を描いて、自身の右下から左上へ。腰は僅かに右方へ切る。動き出した次の瞬間、コマ落としの映像かのように、太郎の剣は次郎の右小手へと達した。
次郎は痛苦も忘れ、ただその業前に感嘆した。どれほどの鍛錬、どれほどの修練の果てに至った極地か。同じ頂を目指すもの同士、その艱難は痛いほどよく分かった。
──だが。勝利を譲るつもりは、毛頭ない。
一瞬の停滞。太郎は勝利を確信する。それが致命的な隙だった。
ぎらりと、次郎は凄絶な眼光を放った。
肉を斬らせて骨を断つ。否、骨を断たせて命を断つ。
太郎の剣はなるほど、見事に次郎の小手を斬り抜いている。
だがそれを覚悟していた次郎は、先行させた右腕が断たれたのを見届けた後、残された左腕で斬り下ろした。
片腕ではあるが、絞りは万全、肩甲骨は完全に駆動し、体軸との連動も申し分なく、膝の抜き、重心の移動も完璧だった。
もう一度やれと言われても不可能な一太刀。あらゆる犠牲と引き換えに、生涯を剣に捧げてきた男が、二度と剣を振れぬ事をも覚悟して放つ絶技であった。
次郎の剣は太郎の左肩から右脇腹をするりと抜けていき、そのまま地へと吸い込まれる。大地には夥しい量の血がぶち撒けられ、その中心に、太郎の上体と次郎の右腕が落ちた。
太郎は勝利を確信したまま、その意識を二度と浮かばぬ闇の底へと沈めたのだった。
初太刀を読み切った太郎。そして初太刀を読み切られた事を悟った上で、二の太刀に全てを賭けた次郎。
剣術試合では太郎の勝ちだろう。小手に決められた時点で勝敗は決している。太郎は完全に、次郎の呼吸を読み切っていた。
しかしこれは死合い。剣術の範疇を超えた命のやり取りである。
呼吸の読みではなく、展開の読みの深さが二人の明暗を分けたのだった。