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神を錬成する3つの条件

作者: 鈴木美脳

 古代都市アレクサンドリアに暮らす科学者Xは、古文書に伝わる『神々を作る方法』を再現しようと、長年に渡って苦心していた。

 しかしここで言う「神々」は、全知全能の力のようなものではなく、弱々しい精霊達のようなものだった。

 Xは、次の3つの条件を兼ね備えることで神が作り出せるとの結論に至った。



(1)自己と他者とを区別しない。

(2)争わずどこまでも弱々しい。

(3)憎しみと殺意に染まってく。




(1)自己と他者とを区別しない。


 人間という生き物の心は、悪意の泉のようなものだ。

 なぜなら、悪意をまったく備えない者は、自然淘汰されてしまうからだ。

 そのため、人間の心には、自己と他者とを区別する器官が備わっている。


 人間は、どんな対象を認知したときにも、相手を自己か他者かに分別する。

 つまり、喜怒哀楽を共有する相手か、あるいは、憐れみをかけない相手へと分類する。

 その判断は、利己的な打算を基礎として行われる。


 生き物が生きていくためには、他の植物や動物を食べなければならない。

 そのとき、食べる相手の心身の痛みに親身になっていては、食べられない。

 生き物が生き物を食べる現実が、自己と他者を区別する器官の歴史的な由来だ。


 人間はさらに、社会的な動物へと成長した。

 よって、人生の幸福は、自らの社会的なステータスのレベルと直接に関係がある。

 よって、それぞれの相手が自分に利益をもたらすか考え、自己か他者かに区分する。

 敗者をないがしろにする発想が、格差社会において、より弱い者の立場を消費することを正当化する。

 よって、裕福な人々は貧しい人々を、心からは憐れまない。

 また、貧しい人々は余裕がないから、裕福な人々を憐れまないし、貧しい人々を憐れまない。

 自分が生きていく、ということのために、その割り切りは正当化され、やがて正当化が当然になる。


 そしてそこには、非対称性が存在する。

 つまり、相手が同情してくれたから自分も同じだけは同情しようというルールは、人間の心にはない。

 むしろ、知的格差があるから、弱い者を利用する技術が発達している。

 言葉の上では仲間と感じ同情しているかのような態度をとり、実際は打算的に扱うその差分で利益を得る。

 その意味での嘘やごまかしは、人間の社会では常態化している。

 地位を持つ者は、それを正当化するために自らの知力を過大評価するから、うまく騙せているつもりですべて露見していることもしばしばだ。


 つまり、人間という生き物は、他者からの同情心を打算的に消費しようとする性質を備えている。

 社会全体のためにはそれは不合理だが、しょせんそれぞれは社会の一部として生きていく存在だからだ。

 すなわち、どの人間にも、社会性を構成する因子としての性質と同時に、社会への寄生虫としての因子がある。

 そのため、相手から自らへの同情や礼儀があったとして、対称的に応じる必要はないのだという基本的発想がある。

 すなわち、腹の底では、他人の気持ちというものを完全に馬鹿にしている。

 それらを一言で言えば、「悪意」と呼べる。


 しかし、幼児の多くは、自己と他者を区別する性質が弱い。

 人間という生き物の子供は、親や家族や社会に守り育てられるものだと、生物学的に決まっているからだ。

 だから例えば、虐待に近いことをする親にさえ、子供は愛着を感じるようになっている。

 しかし、加齢によって性は分化し、人を分別してないがしろにする発想も身につけていく。


 つまりもし、上のものを「悪意」と呼び、それが存在しない精神を仮想するなら。

 人間の心には常に悪意しかないとは、絶望することはできない。

 悪意を持たない心を、もしも「神」と呼ぶならば。

 幼少に人々の内にあった童心は、神たる属性を確かに備えていると言わねばならない。

 Xはそう考えた。



(2)争わずどこまでも弱々しい。


 人間は、長年の適者生存が作り出した結晶だ。

 そのため、遺伝子には様々に詳細な形で生存本能が組み込まれている。

 例えば、社会的に馬鹿にされるかどうかが、幸福の程度に直接に影響する。

 それら本能は、総じて言えば、個体あるいは種としての、生存そして繁殖のためのものだ。


 生存と繁殖のための生涯とは、不満と満足との間を行き交う運動である。

 それを、欲求と無欲との間を行き交う運動だとも言うことができる。

 あるいは、苦しみと喜びを行き交うと言い直すこともできる。


 欲求とは、精神的なエネルギーそのものだ。

 強い欲求には、強い精神的エネルギーが備わっている。

 しかし、それぞれの課題が解決して満足することで、そのエネルギーはとりあえず失われてしまう。

 世俗的に満足してしまうから、それ以上の何かへ向かうことがない。


 ゆえに、権力者は神にはなれない。

 なぜなら、世俗的な力の味を、覚えてしまっているからだ。

 世俗的な力とそれによる喜びの味を一度でも覚えれば、現実社会へのいくらかの肯定と満足が生まれてしまう。

 世俗的な安寧に遠い者ほど、超越的なものに向かうエネルギーを備えている。

 そこには必ず、飢えや悲しみが伴っている。


 ゆえに、地上において力強く笑っているような者は、適性に欠く。

 男性的な戦士の力強さは、神を作るためには好ましくない。

 女性もまた女性としての利己的な強さがあるから、必ずしも好ましくない。

 どちらかと言えば、性ホルモンが未発達な童貞や処女の血こそが、神を生むには好ましい。


 飢えは、満たされるべきではない。

 鞭打たれつづけ、涙する者の魂こそ好ましい。

 世界の矛盾と理不尽によって、生涯の全域が染まっているのが望ましい。


 しかしその理不尽にあって、正義などのために立ち上がってしまえば、滅ぼされて終わる。

 争わず、どこまでも弱々しいことが、適性としては求められる。

 Xはそう考えた。



(3)憎しみと殺意に染まってく。


 それらは、自然と、憎悪をもたらす。

 憎まず、小さな暮らしに満足していくのは好ましくない。

 憎まないならば、精神のエネルギーは小さくなってしまうからだ。


 もしも自己と他者との区別を希薄に生きたならば。

 憐れみ深く生きて、山ほどの悪意を注がれることになる。

 様々な形の、有形無形の苦しみや痛みをたくさん味わうことになる。

 その痛みの記憶が、ただちに憎しみの量である。


 深い苦労も、理性的に止揚すれば、愛情に転じうる。

 しかし、その愛もまた報われないならば、止揚した理性の裏には、確かな憎しみの量が蓄積されつづけるはずである。

 蓄積された憎しみは、蓄積された殺意へと育っていく。


 憎しみや殺意が多く蓄積された者は、人間社会の一員ではなくなる。

 社会から深く裏切られつづけた者は、社会全体を他者と見なすようになる。

 すなわち、本心には動物や植物に至る同情があって、しかし人間存在の可能性は深く諦観することになる。


 そうであるとき、世俗と現世のすべての価値が、ゼロに収束する。

 草木を愛でるように人間への愛情は残るが、自身はもう人の世の一員ではない。

 そうして、世俗の理を越えた存在、つまり神が生まれる。

 Xはそう考えた。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 Xは、闇商人に声をかけ、十数人の孤児達に目をつけた。

 そして、粘土で小さな小さな人形を作り、地球儀の各地にそれを置いて、子供達を写像した。

 どの一人も上の3条件を満たすよう、手間をかけ厳密に調節したのは、もちろんである。

 あとは水の重みで、地球儀は自動的に回転をつづける。

 早ければ1か月後には、結果が出はじめることだろう。



 もしも成功裏に神が作れたとして。

 この弱々しい精霊が、現世的な価値や力を生む期待は難しいだろう。

 しかし彼や彼女は、何をどんな風に見て、何をどんな風に考えるのだろうか?

 そこは、Xにとって、科学の心躍るフロンティアだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 興味深い考察でした。 真偽がどうあれ、 おもしろいテーマです。
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