プロローグ
その日、ただ気まぐれに右の道を選んだというそれだけの理由で、高村幸太郎の青春は黒く塗りたくられてしまった。
高村は狼狽える。意味が分からない、なんなのだあれは。通り魔に遭ってしまった、それなら理不尽だとは思うが理解は出来る。
だがあれは! 理不尽だと思う前に、そもそも理解が出来なかった。
魔物だ、魔物がいた、正真正銘の魔物だ。高村には、世界が途端に深い闇に染まったように思えた。いや、そうではない。そもそも自分は世界の表皮しか見えていなかったのだろうと高村は思い至った。世界が変わったのではない、世界がちょっとだけその裏側を自分に見せ付けたのだ。それは悦になり、全能感に浸っていた自分がどれだけちっぽけな存在かを思い知るのに十分過ぎるものであった。
逃げなければ。高村は脇目も振らずに走り出した。只その悪夢から逃れるために。
地に足が着いていないようだ、高村はそんな感覚に陥る。これまで彼は強盗や通り魔などと出くわした事は無かった。誰かに殺意を向けられた事もない。故に、こんな感覚に陥る事は初めてだった。自分という存在が覚束ない、そんな表現がぴったりだと彼は走りながら思った。それは存在の危機を脅かされているからであろう。きっと、多くの人間が普段忘れている感覚だ。
死にたくない、絶対に死にたくない! 高村はそれで一杯だった。陸上の国体に出られる事も、卒業後の進路に悩む事も、そんな事はどうでもいい。兎に角、彼は自分を押し潰そうとする圧倒的な現実から逃れたかった。
自分の吐息がやけに耳に残る。嫌な感じだと思いながらも、高村は駆け続けた。もうあの公園から何処をどう走ったか分からない。少年には、周りの景色を確認する暇もなかったのだ。
「あ」
そこはさっきの公園だった。なんて自分は間抜けな奴だと高村は自分を詰った。
背後で音がした。それは有機的なものが出す、生々しく熱を感じる音だった。
高村は振り返ろうとしたが、それは叶わなかった。
「あ、ああ」
高村は、いつの間にか自分が倒れていた事に気が付いた。
魔物の足が彼の視界に入る。それは黒く、ざらついていそうな足であった。似ている足の生き物をぼんやりと頭で考えてみたが、結局彼は何も思い付かなかった。
立ち上がらねば。高村は己の中で未だに業火の如く燃え上がる生存本能で足を動かそうとする。
直後、彼はその喪失感に気付いた。
無い。右足が。立ち上がるための足が。生きるための足が!
そんな高村の内に起きた動揺など一切構う事もなく、目の前の魔物は高村へと引導を渡そうとその鋭利でおぞましい手を振り下ろそうとしていた。
終わったな。未だに彼の内の炎は消えていないが、だが、何をどう考えようが高村はどうしようもない現実をただ受け入れるしかなかった。望む望まざるとに関わらず、それは一方的に告げられる死の宣告、その筈だった。
気が付けば、魔物の腕は地に落ちていた。黒々としたその腕にやがて火があがる。
続いて魔物の首が、どすん、と鈍い音を立てて地面に落ちた。魔物の目と高村は目が合う。未だ生気を感じるその針のような眼光に高村は戦慄するが、しかし、その首は何をするでもなく、その眼力は失せていき、やがて只の肉塊と成り果てた。
今度は何が起きたのか。やはり高村には理解が追い付かなかった。
しかし、これだけは分かった。
自分は助かったのだ。いや、助けられたのだ。
人の声が聞こえる。女の人の声だ。
でも多分、これを助けてくれる人なのだから普通の人などではないのだろう。少年はそう思いながら、自分に近付くその人影をぼんやりとした瞳で見つめていた。