幽霊
ある晩のこと。
一人の男が頬に伝わるひんやりとした冷たさを感じて目を覚ました。周囲は暗く、見渡す限りを闇が支配している。
しばらくじっと闇を見つめていた男だったが、次第に目が闇に慣れたのかだんだんと周りの景色がひらけてきた。
男のいた場所は外だった。夜空に浮かぶ月明かりに照らされて、広々とした世界がぼんやりと広がっている。
辺りは静けさに包まれ、周囲の草むらから虫たちの涼やかな鳴き声が響いてくる。遠くからは微かにどんよりとしたなんの種類かも分からぬような鳥の鳴き声が薄気味悪く聞こえてきていた。
「なんだぁ? つぶれちまってたのかぁ」
ポツリ呟く男の声が闇に吸われているかのように霞んで聞こえた。覇気のない、呂律の回っていない声。
また、男の声が霞んで聞こえたのにはもう一つ、理由があった。
目覚めたとき、男が倒れていたのはコンクリートの上だった。夜になり、コンクリートが冷えていたためひんやりとした感覚を感じたのだろう。男はそう思った。
そんな男のいるコンクリートは少し先に行くとふつと途切れていた。それより先は舗装されていない細い田舎道がずっと向こうの闇まで続いている。
コンクリートで舗装されている区間。そこはあまり大きくない橋だった。その下には轟々とまではいかないけれど、荒々しく流れる川がいくつも沈んだ大きな岩に何度もぶつかり、けたたましい水音をたてて勢いよく流れていた。
その音が男の声を霞ませた原因の一つでもあった。
一週間ほど続いた豪雨。雨は前日のうちに上がったのだが、そのせいで川の流れは依然荒々しかった。しかしコンクリートで作られた橋は頑丈でこの程度の激流ではビクともしない様子だった。
起き上がり、虚ろな目で周りをキョロキョロしていた男だったがやがて家に帰らねばと思い立ち、ふらふらと歩き出した。しかし足元はおぼつかず、あっちに行ったりこっちに行ったりと千鳥足。かなり酔っているようだった。
男の名は勘兵衛。小さな村に住んでいて、一人暮らし。これまた小さな古民家を持ち、ひっそりと暮らしている男だった。
職業は写真家。売れているかどうかはこんな田舎の村、小さな古民家に住んでいる現状を見れば容易に想像がつくだろう。
ただ、彼の撮る写真は一般的な風景や人物といったものではなかった。
「ったく。散々待たされていざ行ってみりゃあ何にもでやしねぇ。かなりの噂の屋敷だったんだがなぁ。やれやれ。いつになったら拝めるのやら……」
ブツブツと呟きながら歩く男の声が静かな夜道に寂しげにこだましているようだった。都会と違い住宅が密集しているわけでもない、森を切り拓いて作られた集落は夜分遅くということもあり、人っ子一人いない孤独に包まれている。
そんな夜道を一人、街灯もない月明かりがうっすらと辺りを照らしているだけの中を歩いていれば、おのずと不気味さを感じたり遠くで聞こえる薄気味悪い鳥の声に首をすくめたりするだろう。だが、この勘兵衛にはそういった得体の知れない怯えや恐怖といったものは、およそ知り得ぬものだった。
勘兵衛の仕事は写真を撮ってそれを売ること。しかし彼が撮るものは、幽霊やその類の不可解なものが映り込む、いわゆる心霊写真だった。
とはいえ実際に幽霊を見たことはなく、写真もオーブや人の顔に見える模様の壁などばかり。
しかし、それらも結局は自然現象や錯覚と片付けられるもの。オーブに関してはホコリや水蒸気にカメラのフラッシュが反射したものとも言えるし、人の顔に見える模様も言ってしまえば錯覚の一つでただそう見える模様なだけと、幽霊などの非現実的な存在の証明にはならないものだった。
そんな写真ばかり撮っていることも、勘兵衛がこんな田舎にひっそりと暮らしている理由の一つだということは察するに余りあることだろう。だが、彼が未だにこんな仕事をしているのにはわけがあった。
いつの頃だろうか、と勘兵衛は自身の記憶をたどっていく。
大学は浪人を繰り返す末、諦めてしまった。高校は卒業したけれど、ほとんど趣味に走り、青春らしい青春というものを経験していない。それは中学の時も同じで、小学生の頃に至っては周囲と馴染めずよくからかわれたりいじめられたりしていた。
そんな人生だったからだろう。根暗で引っ込み思案だった彼がこの道にのめり込んでいったのは、当然といえば当然だった。
小学生の頃の一つの記憶の前で、勘兵衛の旅が静かに終わりを迎える。
懐かしい記憶。遠く離れた記憶の土地。
それは記憶という列車の軌跡をたどる終点であり、今の彼の生き方において人生という単線の出発地点でもあった。
他愛のない記憶。思い出とも呼べない日常の中に紛れてしまいそうな些細な出来事。
子供の頃、布団の中にもぐりこんで寝付くまでの間、勘兵衛はよくうっすら暗い部屋の天井を見上げていた。
どこにでもあるような白い、わずかに凹凸のある天井。そこに一つ、落書きかキズなのかわからない小さな黒い筋が付いていた。それは何本かに枝分かれし、遠目に見れば棒人間のようにも見えた。
それを勘兵衛はじっと見つめる。ただ見つめるだけでは何の変哲も無い黒い筋。十秒もすれば大概の人は飽きて目をそらしてしまうようなものだろう。だが、勘兵衛はちょっとした工夫をしてこれを見つめていた。
黒い筋。まずはこれを人の形としてみるように考えた。
これはそれほど難しくなかった。もともと棒人間のような形であったし、一度そう思って仕舞えば人は案外錯覚に陥りやすく、勘兵衛もまた、そんな人間の一人だった。
ぼーっとそれを見上げる中、勘兵衛は自身に暗示をかけるように何度も同じことを考え続ける。
(動け……動け……動け……)
するとどうだろう。彼の見つめる天井の黒い筋が、息を吹き込まれたかのようにもぞもぞと動き出して見えた。棒人間はその手足を乱雑に動かし、ぐにゃぐにゃ暴れもがいている。
もちろん、それは目の錯覚。薄暗く視界の悪い中で見た、ただの思い込みや妄想でしかない。
それでもよかった。彼にとって現実にそれが起きているかどうかなどは関係ない。自分の目で見て、自身が納得できるのであれば、それはもう本物と変わりのないことだった。
天井でもがく黒い筋は、その時たしかに存在した。それだけが、彼にとっての事実だった。
この時からだろうか。勘兵衛が非現実的なものに魅せられるようになったのは。
現実ではあり得ないような出来事や物に、彼は興味を持つようになった。その感情は次第に強くなり、未知への探求心はやがて非科学的なもの、すなわち幽霊やお化けなどの心霊現象へと向かっていった。
小学校の頃は天井の黒い筋のこともあってお化けは居ると触れ回り、同級生たちにはよくそれでからかわれたりいじめられたりもした。唯一の救いは大人たちには幼い子供のたわごとと温かい目で見られる程度だったこと。
中学、高校はずっとオカルト研究会や心霊写真同好会などに入っていた。周囲から変な目で見られることはあれど、小学校の頃のように自身から狂言を吐くことはしなくなったため、あまり目立たず過ごすことができた。そのせいで、恋愛や学校行事と言った青春らしい青春を経験することはなかったのだが。
それでも勘兵衛は自身の胸に芽生えた好奇心を押し殺すことも、諦めることもしなかった。
むしろ大人になってなお一向に目にすることのできない幽霊やお化けに、一度でいいからこの目で見てみたいというさらなる欲求が溢れていた。
それが今、彼がこうして未だに心霊写真家などという売れない仕事を続けている理由の一つだった。
そして一昨日、長く続いた豪雨がやっと上がり、前々から仕入れていた情報を元にとある廃屋敷へと勘兵衛は期待を胸に向かった。
結果は大はずれ。
幽霊なんて居ないどころかオーブすら写りはしない。完全なデマ情報だった。
かなりの噂があった屋敷だったが、所詮は噂。恐怖に駆られた人々が見た幻や錯覚だったのだろう。
そんなこんなでまたしても幽霊を見ることのできなかった勘兵衛は一週間待たされた上に何の収穫もなかったことに腹を立て、昨日は一日中ヤケ酒を飲んでいたというわけだった。
そして現在に至る。
なんども言うが勘兵衛は幽霊を見たことがない。
歳も三十を過ぎて四十代も目前に迫っている。
実家には両親ともに健在で、今でも時折生活が苦しい時は仕送りをしてもらっているが、二人とももういい歳だ。いつまでも親の脛をかじっているわけにはいかない。
二人が居なくなってしまったら。そんな不安がふと頭をかすめるが、勘兵衛はすぐに頭を振る。考えてしまったら、本当になりそうで怖くなる。
人生のターニングポイントに近づいたからだろうか。近頃不安に思うことも増えたし、いつまでもこんな生活、こんな人生でいいのだろうかと思うことも増えてきた。
だからだろう。早く幽霊をこの目で見なくてはという焦燥感に駆られ、最近は焦りからイライラしてばかりだった。ヤケ酒もしたくなるものである。
そんな酒がいい酒のわけもなく、すっかり悪酔いしてしまっていた勘兵衛は酔いが回って気分の悪い頭の中、とりとめのないことばかりを考えながらも家に帰らなくてはという日々の習慣を元にえっちらおっちらと歩いていた。
暗闇の中で視界が悪いせいなのか酔いで歪んだ視界のせいなのか、辺りがまともに見えない中、勘兵衛は何度も体をいたるところにぶつけた気がした。幸いなことに、これまた酔いが回っていたおかげか痛みはほとんど感じなかったのだが。
やがてふと気がつくと、勘兵衛は一軒の家の前に立っていることに気付いた。
こじんまりとした、家というよりも半分小屋のような建物。ここが勘兵衛の今住んでいる古民家だった。
「んだあ? いつのまにか家に着いてらぁ。習慣ってのは怖いねぇ」
怖い、なんて台詞が一番似合わない男がぶつくさと呟きながら家の中にのそのそと入っていく。夜もとうに更け、辺りは完全な静寂に包まれていた。
どれほど時間が経っただろうか。
ふと違和感を覚えた勘兵衛はパチっと目を覚ました。寝ていたためか、勘兵衛は体を横にして天井を見上げている。
天井に吊り下げられている電球に明かりは灯されていない。
酔いはだいぶ抜けたのか、意識はさっきより随分とはっきりしている。悪い酒は、酔いが覚めるのも速いらしい。そんな愚痴が口からついて出そうになった勘兵衛だったが、とっさに口をキュッと結んだ。
得体の知れぬ違和感。
言葉には言い表せない緊張。
冷や汗が額に滲み、鼓動が早くなったかのように感じる。
今の彼が感じている感覚を一言で表すとすれば、それは恐怖だろう。
久しく忘れていた感覚。怖いとは、こういうものだったのかと感じるより早く、彼の耳に聞きなれない音が聞こえてきた。
「しくしく……しくしく……」
それは女性の泣き声のようだった。かすれて微かに聞こえる程度のもの。
だが、一人暮らしの勘兵衛の家にそんな音が聞こえるはずもなかった。テレビやラジオといった音声を流す機器もない。
しかもすすり泣く声はすぐそばから聞こえてくる。
恐怖を抑え、勘兵衛はおそるおそる声の方へと顔を向ける。
「しくしく……しくしく……」
そこにはたしかに何かが居た。
狭い部屋の中。
六畳もない畳の居間に、年老いた女性が座り込み、顔を両手で覆いながら静かにすすり泣いている。
勘兵衛はそのままじっとしばらく動けずにいた。目は驚いたかのように見開き、息を止めているかのようにじっと物音を立てずに女を見続ける。
驚きとともに勘兵衛は恐怖を感じていた。得体の知れない女がすぐそばにいるのだ。自分の家に居るはずのない他人が居るだけでもおかしな状況なのに、その女が何も言わずただこちらに向かってすすり泣いている。流石の勘兵衛でも恐怖を感じていた。
黙ったままの勘兵衛とすすり泣く老女。二人の謎の沈黙がしばらく続いた。
「しくしく……しくしく……」
しばらく身動きの取れなかった勘兵衛だったが、そんな状態がいつまでも続くわけもなく、いつまで経っても何もしてこない女に少しだけ勘兵衛は冷静を取り戻しつつあった。
そんな時、すすり泣く女の声を改めて冷静に聞いた勘兵衛はふとあることに気がついた。微かに聞こえる女の声。その声に、聞き覚えがあった。
「あ……お、お袋……?」
おそるおそる声をかけてみる。
まだ恐怖は絶えていなかったが、勘兵衛は確信していた。今そばで泣いているのは母親だと。
もう何年も直接会ってはいなかったが、彼が生まれてから十数年も一緒にいたのだ。母親を間違えるわけがない。
冷静になってみると、姿も母親そのものだった。
「な、なんだよ……おどかすなよお袋……」
ホッと胸をなでおろし、ようやく緊張が解ける勘兵衛。
母親なら、ここにいてもおかしくない。
こんな夜更けにこっそりやってきて寝ているそばで泣いているのはいささか異様ではあったが、幽霊好きの勘兵衛のために一役買ってくれたのかもしれない。なんとでも言いようはあった。
とにかくなんとか辻褄を合わせ、現状を自分なりに理解した勘兵衛は安心したのも束の間、考えてみればすすり泣く女といえば幽霊という初歩的な考えに至らなかった自分自身に落胆の感情が湧いてきた。
「なんだ、お袋がせっかく驚かせてくれたのに全然幽霊だと思わなかったよ。こりゃあ幽霊に出逢えないのは俺自身にも問題があるのかもねぇ」
今までも幽霊はすぐそばにいたのかもしれない。だが、それに勘兵衛自身が気づかなかったのかと思えてきた。
それほどまでに自分は鈍感だったのかと、勘兵衛はひどく落ち込んだ。
「しくしく……しくしく……」
肩を落とす勘兵衛をよそに母親は依然、か細く泣いている。
「おいお袋、もう泣くフリはしなくていいよ。もう十分驚いた。わざわざ手のこんだことをしてくれたのに幽霊だと思わなくて悪かったよ。それで一体なんの用で来たんだ?」
「しくしく……しくしく……」
勘兵衛の問いかけに母親は答えようとはせず、変わらず顔を両手で覆って泣いている。
「おい! なんで無視するんだよ。どうしてここに居るんだ? なんとか言ってくれよ!」
何を言っても反応のない母親にしびれを切らした勘兵衛は母親の肩をゆすろうと手を伸ばす。
その瞬間、勘兵衛の動きが再びピタッと止まり、石になったかのように微動だにしなくなった。
自分でも何が起こったのかはわからない。ただ、理解できない出来事が目の前で起こり、勘兵衛の頭では処理しきれなくなったようだった。
勘兵衛の見つめる先にあるのは母親に向けて伸ばした自身の手。
それは母親の肩をすり抜け、背中まで突き抜けてしまっていた。なにかに触れているという感触はない。
「しくしく……しくしく……」
ありえない現状に勘兵衛はしばらく呆然としていたが、母親の泣き声でハッとなった。
全身の細胞が拒否反応を起こし、死滅していくかのように震え始める。
そして確信した。今、何が起こっているのかを。
「えっ、あ……お、お袋……まさか……」
頭が冷えた氷のようにどんどんと冴えていく。よくわからない感情が勘兵衛の全身に広がって行く。
「ゆ、幽霊なのか……?」
そんな疑問に彼女が答えるはずもなく、彼の幽かな声は目の前ですすり泣く母親の泣き声にかき消されてしまった。
だが、勘兵衛は確信していた。なぜこんな夜更けに母親が自分の耳元ですすり泣いているのかも、どうして彼女に触れることができないのかも。
母親が幽霊ならば、全ての辻褄が合う。
きっと実家で何かあったのだろう。しばらく連絡を取っていなかったから何が起こっているのかはわからない。だがおそらく、母親が何かの病に伏せていたのだろう。
そこまで考えると、勘兵衛はふと言い知れぬ感情が溢れてきた。どちらかというと、先ほどまで感じていた感覚の一部が大きくなったと言える。
ここにお袋の幽霊がいるということは。と、勘兵衛は考える。
それはすなわち、母親が亡くなったということ。常日頃から考えないようにしていた最悪が、起きてしまったということだった。
ただ、不安よりも先に勘兵衛の中に芽生えたのは悲しみだった。
勘兵衛が生まれ出でた時から愛情込めて育ててくれた母親。
子供の頃、学校でいじめられて泣いて帰ってきた時にやさしく慰めてくれたおかあさん。
浪人を繰り返し、父親にひどく叱られた時に父をなだめてやさしく叱ってくれた母さん。
趣味に走り、半ば逃げるように家を出たのにそんな勘兵衛の趣味を認めてくれ、未だに仕送りをしてくれるお袋。
そんな彼女はもうこの世に居ない。そう思えば思うほど、勘兵衛は悲しくてたまらなかった。
「しくしく……しくしく……」
そばで母親がすすり泣く。
そうか、と勘兵衛は気づく。
きっと母親は最後に自分の夢を叶えてくれたのだと。
亡くなってなお、幽霊となって勘兵衛の前に現れ、幽霊という存在の証明をしてくれたのだと。
そしてそれは同時に勘兵衛に、これからは仕送りをしてやれないからいつまでも趣味ばかりに走っていてはダメだと示唆しているかのようだった。
「お袋……俺、これから頑張るよ。もっとちゃんとした仕事に就いて、逆に親父に仕送りしてやれるくらいになってみせるよ。だからもう大丈夫だ。安らかに眠ってくれ、母さん……」
それは別れの言葉。数十年世話になった母親へ向けた、弔いの言葉だった。
しばらく沈黙が続いた。
勘兵衛の母親はというと、依然、勘兵衛のそばですすり泣いていた。
おかしいな、と勘兵衛は首をかしげる。
母親への別れも言った。今後の抱負についても語った。なのになぜ彼女は居なくならないのだろう。
さては。と、勘兵衛は勘付く。
母親のおかげで幽霊が現実にいるということを知ることができた。やっと追い求めてきたものを目にすることができた。もう他人に何を言われようと、否定されようと関係ない。
見て仕舞えばこっちのもの。たとえ誰にも信じてもらえなかったとしても、自分だけがそれを知っている。
そう納得するだけでよかった。それこそが、事実だった。
だがきっと、長年幽霊は居ると信じてきた自分に母親はチャンスをくれようとしているのだと勘兵衛は考える。
なにかしら幽霊が居ると証明できるものがあれば今まで勘兵衛をバカにしていた人々にひと泡ふかせられるし、何より証拠があれば幽霊という存在に今後勘兵衛自身が居ないかもしれないと疑問を持つことがなくなる。
ならば善は急げと、勘兵衛は辺りを見回す。
いつも肌身離さず持ち歩いているカメラがある。一応これでも写真家を名乗っているのだ。勘兵衛だってそこそこいいカメラを持って、常日頃から心霊写真が撮れるようにしていた。
そのカメラがあれば母親の幽霊の写真が撮れる。映るかどうかはわからないが、母親がこうして待っている以上、映るような気がしてならない。
けれど、どういうわけかそのカメラが見当たらない。
手元にはないし、いつものように首から掛けているわけでもない。また、部屋の中をぐるっと一周見渡しても見える範囲にカメラらしき物はなかった。常に身の回りにあった物だ。どこかに仕舞った、とは考えにくい。
となると考えうる可能性は一つ。
外でなくしてしまったのだろう。
記憶が曖昧なせいかあまり覚えていなかったが、よく体をぶつけた気がするし、それ以前に酒を飲んでいた店に忘れてきてしまったのかもしれない。どちらにせよ、今から探しに行くには夜が更け過ぎている。
無理に探しに行って見つけたとしても、帰ってきた頃には母親の幽霊が居なくなってしまうかもしれない。出来れば最後まで母親を見届けてあげたいと、勘兵衛は考えていた。
さてどうしたものかと、勘兵衛は首をかしげる。
せっかく母親がチャンスをくれようとしているのだ。どうにかしてここに母親の幽霊が居ることを証明できる方法はないだろうか。
その時ふと、すすり泣く母親の後ろに固定電話が見えた。その瞬間、勘兵衛は一つの名案を思いつく。
今から実家に電話をかけよう。母親の死で慌ただしいかもしれないが、誰かしら出てくれるだろう。
そして母親に何かあったのかと聞く。きっと向こうはさぞ驚くだろう。まだ母親の死を知らせていない勘兵衛から予知のような連絡。
そこでこう言う。母親の幽霊が今ここに居ると。
我ながらいい考えだと、勘兵衛は頷く。
これならきっと父親なら信じてくれるに違いない。父親が証人なら申し分ない。
また、いつかこのことを忘れた頃に父親と今度はまともな酒を交わしながら、そんなこともあったなあと思い出して語り合うこともできるだろう。
さっそく行動に移すべく、勘兵衛は立ち上がり電話の方へ歩んで行く。
母親が亡くなってしまっているのなら、遅かれ早かれ勘兵衛の下にも連絡が来る。その前にこちらから電話をかけなければ意味がない。
一歩、また一歩。母親の横を通り過ぎ、受話器に向けて手を伸ばす。
その時、先程までずっとすすり泣いていた母親の泣き声が一瞬止んだ。母親の初めての変化に、勘兵衛はとっさに振り向く。
伸ばした手をそのまま握るが、その手は静かに空を切る。
「うう……なんであの子がこんなことに……酔った勢いで川に落ちるだなんて……ああ、幽霊が見たい、幽霊が見たいだなんてあの子はよく言っていたけど、今こそ幽霊でもいいから私の前に現れておくれ、勘兵衛……」
夜も更け、虫や鳥たちの鳴き声すらもしなくなった静寂に、呼出音が鳴り響くことはなかった。