第五回~狂人~
太陽に代わり、月明かりが照らす山中の村。サヤカはたたずんでいた。
自宅のキッチン。いつもなら、母が夕食後の洗い物をしている時間帯。電気も点けず、わずかに月の光が入るだけの場所に一人、立っていた。
みんな、いなくなった。人狼の言い伝えのあるこの村で。よそ者が村に来てから今日まで。たった三日間で、みんな消えた。
誰がやったのか。もうわかっている。誰も残っていないのだから、そうに決まっている。
ルミの遺体が消えたことや、大勢が一度に消えたこと。説明のつかないものも多いが、理屈なんて知らない。知ったことではない。
サヤカが手を伸ばす。真っ暗でも、そこにそれがあることはわかっている。母がこの場所で料理しているのは何度も見た。手伝うことも何度もあった。昔ここで手を切って、絆創膏を貼ってもらった。
「人狼……」
焦点の合わない目で、見つめる。月の光に照らされて光るそれを。
「私が……」
夜の帳は下りた。人狼が動き出す。
「私がやるしか……ない」
火蓋は、切って落とされた。
街灯もなく、月の光しかない夜。サヤカは力なく肩を揺らしながら歩いていた。
いつもならこの時間でも、家の明かりで多少は明るい。
いつもならこの時間でも、家の笑い声で多少は賑やか。
そんないつも通りが消えた。この村には、もう何もない。何も残っていない。人狼の手によって、消えてなくなった。
「人狼は、必ず現れる……」
ぼうっとした目と頭で、うわごとのようにサヤカはつぶやく。その声も、足音すらも、虫の音にかき消されるほどに小さい。
「人狼は、嘘つき……」
もう彼女は、そのことしか考えられない。人狼のこと。人狼をどうするのかということ。
「よそ者……」
家を出て間もなく。
サヤカの双眸は、その姿を捉えた。ぴたりと足を止め、向き合う。
「……こんな夜更けにお散歩ですか? サヤカさん」
まるで待ち構えていたかのように、キョーコが立っていた。サヤカの家の近く、何の目印もない場所に。こんな夜でも作業着姿で。
サヤカは直感した。彼女は、自分を殺しに来たのだと。だからこんな場所にいるのだと。
「あなたが人狼……ですよね。キョーコさん」
「はい。デリバリー労働サービス『人狼』です」
首を傾け、満面の笑みを浮かべる。明らかに煽ってきている彼女の態度に、サヤカはもう腹を立てることはなかった。それどころか、薄ら笑いで受け流す。
「いいですよ、そんなおふざけは。……あなたしかいないんですから。あなたが、殺した。ルミも、マキトも、みんなも」
やはり、村に人狼などいなかった。幻想だった。よそ者のキョーコこそが、人狼。人殺しだ。
「いやー、どうでしょうね? ワンチャン……あるんじゃないですか? サヤカさん人狼」
ふざけた物言いで更に煽るキョーコ。が、サヤカは動じない。ともすれば、動じる心まで失っているように見える。
「ふふ……もう、いいんですってば。もう……」
サヤカの体がかすかに揺れた。
「もう――あなたが死ねば、終わりなんですから!!」
サヤカが手に持った包丁を振りかぶり、キョーコに襲いかかる。
「…………」
キョーコは身構えることもなく、待ち受ける。余裕のある表情は、まったく崩れない。
包丁での突きがキョーコに向かう。普通の女子高生の力とは思えない速度で繰り出される。今のサヤカは理性というリミッターが外れ、力が本来の自分の限界を超えている。
「残念ですけれど……」
キョーコはその突きを簡単にかわす。猪のように突進してくるだけのサヤカの腕を掴んで引っ張り、耳元でささやく。
「もう、終わってるんですよ」
「――ぐふうっ!?」
大振りの隙で無防備になったサヤカの腹部に、固いものが叩きつけられた。
「あ……かはっ……!」
電撃のような強烈な衝撃。重くのしかかってくるような痛み。包丁を手から落とす。サヤカの体は力を失い、崩れ落ちた。
「ダメじゃないですか、そんな危ないものを振り回しちゃ。素人に刃物は難しいですよ? どの部位でどこを殴っても的確なダメージが通る鈍器こそ、タイマンの華です」
大きなスパナを手で弄びながら、うずくまるサヤカを見下ろす。スパナでサヤカを殴打した。準備するまでもなく、キョーコはサヤカと戦うための武器を所持していたのだ。
「く……あ……」
サヤカは痛みで動けず、まともに呼吸もできていない。サヤカの手の近くに落ちた包丁を蹴飛ばし、キョーコはふっと息を吐いた。
「さて、どうしましょうね。命令に従うなら、私は人を殺めてはいけないのですが……包丁で刺そうとしてくる人を放っておくわけにもいきませんし」
キョーコの声は、動けないサヤカの耳にも聞こえていた。意識が飛びそうになる中、気になるワードが降ってくる。
「めい、れい……? あ、あなたが……やった……ことでしょ……?」
村にキョーコしか残っていない。誰か黒幕がいるのか。だとしても、人を殺めてはいけないというのが矛盾する。キョーコはこれまで、ルミをはじめ多くの人間を殺したはずだ。
「いいえ、私は何も。誰一人、命を奪ってなんていませんよ」
「嘘よ……! あなたが、全部……!」
力を振り絞って反論するサヤカ。対するキョーコは、冷め切った表情でいる。対峙したときのいやらしい笑みが消えている。
「確かに、人狼は嘘つきですね。でもサヤカさん、覚えてます? こないだ、お教えしましたよね。人狼以外にも、嘘つきがいることを」
人狼は嘘つき。自分をただの村人だと思わせるために嘘をつく。だが人狼ゲームにおいて、嘘をつくのは人狼だけではない。人狼の正体を隠すため、嘘をつく者がいる。
「人狼という存在がファンタジーであることは、サヤカさんもわかっていることと思います。人の姿に化けて騙す狼なんて、現実にはいません。それを踏まえた上で、あえて言いましょう」
サヤカから少し離れていくようにゆっくりと歩き、キョーコはそこで一呼吸置いた。月を見上げていた体をサヤカへと向き直らせる。
「私は、狂人です。ゲームで言うところのね」
逆光を受けた黒い影が、妖しく笑った。
「狂人……?」
カミングアウト。役職を自ら名乗ることを人狼ゲームではそう呼ぶ。自分は狂人であると、キョーコは言った。自分から、人狼の味方であると打ち明けた。
しかし、問題がある。キョーコが狂人だというのなら、人狼は別にいる。『命令』や『人を殺してはいない』という発言は、そういうことのはず。狂人ではあるが、人狼ではない。主犯ではないと言っているのだ。
「ここでクエスチョン。私キョーコは、人狼ではありません。狂人です。では、人狼は誰でしょうか?」
人差し指を立て、なぞなぞで遊ぶかのような語り口。この質問で、サヤカはいよいよもって強い違和感を抱く。
キョーコが本当に人狼――人殺しなら、ここでためらいなくサヤカを殺す。すでに多くの人を手にかけているのだから、今更『殺めてはいけない』などと言い出す道理はない。自分を狂人と例えたのは嘘ではない。ならばクエスチョンの通り、人狼は誰なのか?
「ヒントを出しましょうか。この村の人間は、ほぼほぼ消えました。しかし実際に消えたかどうか、サヤカさんは見ていないはずです」
このクイズはともかく、内容に関してはその通りだった。サヤカは自分の両親すら、消えたかどうか確認をしていない。いないのは間違いないが、何が起こったのかは知らない。
「では逆に、消えたのは誰でしょうか? この三日の騒動で、確実に消えた人がいます。その人が人狼です」
村人は全員消えた。確実に消えた、とはどういうことか。
「――まさか……!」
一瞬、サヤカは考えた。本当に一瞬だった。頭の中で弾けるような閃き。
「気づいたようですねえ。そう……あなたの生まれ育った村をこんなにしたのは――」
「私ですよ、サヤカさん」
誰もいないはずの村に、声がまた一つ。驚きのあまり殴られた痛みを忘れ、サヤカは顔を上げる。
「うふふ……驚いておられますね。いい表情です」
月明かりに照らされた妖艶な笑みが、サヤカの目にもはっきりと映る。心なしかいつものつり目より緩くなった目元が、美しくも恐ろしい気配を放つ。
「ルミ……? 生き……て……?」
あの日。キョーコがやってきた最初の夜。血だまりの上に倒れていたルミが、サヤカの目の前に立っている。
「ええ、生きていますよ」
サヤカの知っているルミからは想像もつかない笑顔でルミは言う。表情だけでなく口調も艶やかで、まるで別人だ。
「ご主人様、ちょうどいいところに。ご主人様の命があるから、殺せなくて困ってたんですよ」
ご主人様。キョーコは確かにそう言った。ルミのことを。
「命令……一切手を出すな、だったはずですが?」
「そりゃないですよ。これは正当防衛じゃないですか」
二人は親しげに会話している。サヤカと同じくルミも、キョーコとはあの日初めて会ったはずなのに。
「まあ、いいでしょう。彼女が最後ですし、誰に見られるわけでもありません」
最後。その意味はサヤカにも容易に想像できる。人狼だと思っていたキョーコは狂人で、ルミがそのご主人様……人狼。最後とはもちろん、サヤカのこと。『村人』最後の生き残り。
「どういう……こと……? 倒れてて……消えたのは……?」
ルミが人狼だというのは、信じがたいが理解はできた。だがサヤカの頭の中はすでに真っ白で、整理ができていない。
「人狼は嘘つき。あなたもよくご存じでしょう?」
嘘つき。死んだことは嘘。消えたことも嘘。ルミはこの事件の黒幕であり、村の人たちを消した……否、殺したのだ。自分が死んだと思わせて身を隠し、見えないところで村人を殺していた。
「事を始めるため、私が死んだことにする。ついでに死体が消えるという非現実的なパフォーマンスをすれば、異常事態という意識が増すでしょう? あなたはまんまと罠にかかった。それどころか、人狼という空想の存在まで信じ始めた」
死んだ人間が消える。怪奇現象にも思えたあれは、サヤカの心を揺さぶるには十分すぎた。
「滑稽でしたよ。急に、人狼が存在するのかなんて言い出して……おかげでこちらは手間が省けましたけれど」
「あー、あの話ですね。人狼の仕業だと嘘をつくはずが、サヤカさんが勝手に信じちゃったっていう」
わざとらしく説明口調で言うキョーコ。サヤカが人狼の話を信じたのは事実。今思えば馬鹿馬鹿しい話だ。結果、こうなってしまったのだから。
「ええ。大根芝居をせずに済みました。キョーコはともかく、マキトがまともに演技などできるはずがありませんから。そう考えると、私が死を偽れたのもサヤカのおかげかもしれませんね」
「マキト……? マキトが……どうしたの……?」
マキト。サヤカとルミの幼馴染。彼も今朝から姿が見えなくなっている。そのマキトが演技、とはどういう意味か。
「おや? まさか、まだお気づきでない? 鈍いですねえ……そりゃ、人狼のことも信じちゃいますよねえ」
馬鹿にするようにクスクスとキョーコは笑うが、嘲りに反発する余裕が今のサヤカにはない。ルミが黒幕というだけで思考がいっぱいいっぱいなのに、マキトの名前まで出てきた。馬鹿にされていることはわかるが、何について馬鹿にされているのかがさっぱりわからない。
「しようのない方ですね。教えてさしあげましょう。その前に、確認しておきましょうか。私が死んだというのを目にしたのは、いつでしたか?」
ルミからサヤカに質問が飛ぶ。またしてもクイズ形式で。
「昨日の、明け方……」
相変わらず頭は真っ白だが、呼吸が落ち着いてきた。唖然としながらもサヤカは答える。
「そうですね。その後、私は消えました。では最初に発見した時、なぜ私が死んでいるとわかったのです?」
「えっ……?」
なぜ。確かにあの時、サヤカはルミの死を直接確認したわけではない。現場を見てそう思っただけで。確認したのは――
「あっ――!?」
気づいた。キョーコに鈍いと言われたサヤカも、ここで。
「さすがに理解しましたか。そう、あなたが今感じた通り……」
あの時。サヤカの中では、ルミは確実に死んでいたのだ。思い込みで。では、なぜ死んだと思ったのか? 確定させてしまったのか? あの時のことを思い出してみれば、答えは明白。
『マキト……まさか、ルミは……!』
『……死んでる』
『――っ……そん……な……!?』
マキトだ。マキトが確認した。ルミの死を。
人狼は嘘つき。あれが演技……嘘だったとしたら?
人狼は一人とは限らない。キョーコは狂人。ルミが人狼。人狼がまだいるとしたら?
「まさか、マキト……!」
「そういうこったな」
サヤカが気づき、思わず声を上げた。その声に答え、マキトがサヤカの前に現れた。
「マキト!」
サヤカが叫ぶ。誰よりもよく知っている、幼馴染の名を。人狼であるルミに協力した、もう一人の人狼の名を。
「マキト……本当に……!?」
「人狼の曰くつきの村で、リアル人狼ゲーム。なかなか洒落たイベントだったろ?」
イベント。惨劇をそのように表現するマキトは、控えめに言ってもふざけているようにしか見えなかった。
「何を……何を言って……」
理解できなかった。認めたくなかった。ルミだけじゃなく、マキトまで。生まれた時から同じ村で暮らしていた二人が、村を全滅させた。人殺しとなった。この村に必ず現れるという人狼は、サヤカと同い年の二人だった。
「騙してたの……? ずっと……」
「そうではありません。マキトの名誉のために言いますが、彼は私の計画に賛同してくれただけです。あなたを含めた村の者を騙していたのは、私だけです」
主犯はルミということで間違いない。しかしマキトも、許されないことをしたのは事実。殺しをしているのならなおさらだ。
「どういうこと……? ルミ、あなたはいったい……」
予想外のことだらけで、サヤカの頭は混乱してきていた。ルミが計画したのなら、キョーコというのは何者なのか。
「まさか……みんなを殺すことを、キョーコさんに依頼して……?」
「いやいや。私は狂人だと言ったじゃないですか。狂人は、村人を殺す能力を持っていませんよ」
未だにゲームの話をしてくる。こんな惨劇が起こっているのに。ルミやマキトよりも、キョーコのほうがよっぽど殺人鬼に見える。
「もう誰もいませんし、種明かしでもしましょうか。最後まで残ったのに、何も知らぬまま死んでいくというのも気の毒です」
物騒なワードが飛び出したが、ルミは大真面目に言っている。死にゆく者に冥土の土産として真相を教えようとしている。
「いいですねえ。推理モノとか刑事ドラマみたいです。では、サヤカさんが一番気になっているであろう、私のことから話しましょうか。順序としても、私の登場が始まりですしね」
キョーコは何やら嬉しそうに言い、さっそうと一歩前に出た。飄々とした態度が、暗く静かな夜で不気味に映える。
「まず、私の仕事。デリバリー労働サービス人狼は、実在するものです。私は普段からこれを名乗り、便利屋としてアルバイトしています。今回も、この村にお仕事に来ました。ただし私を雇ったのは村長ではなく、ご主人様……ルミさんです」
「ルミが、キョーコさんを……?」
なんでも屋を呼んだのはルミ。キョーコが家にやってきたあの時、ルミは初対面ではなかった。
「俺がキョーコさんと会ったのはお前と同じで、一昨日の昼が初めてだ。でも、ルミは知ってたんだよな?」
「ええ。最初から、このために雇いましたから。事前に打ち合わせはしていました」
キョーコはただの農作業の手伝いではなく、最初から村の全滅のために雇われた。ルミはこの計画のために、以前からキョーコとコンタクトを取っていた。
「お仕事の内容は主に死体の始末。及び、計画の協力。そして、私が殺人犯として疑われる立場になること。これが最も重要でした。よそ者ゆえ、疑われるのは自然なことですれどね」
農作業は本当の目的を隠すためのついで。村に潜入し、ルミの計画の手伝いをすることがキョーコの仕事だった。
「初日……キョーコが村に来た日の夜に、何人か始末していました。これにより翌朝、村から数人が消えるという異変が生まれました。私は死を偽装して身を隠し、キョーコが疑われている間、夜に村人を減らしていくと。……ああ、ちなみに。私が倒れていた部屋の血のことですが。床と同じ色の布に血のりをつけて敷いただけです。布を回収すれば、綺麗な床に戻ります。あの一時だけでは、判別できないのも当然ですね」
あの夜からすべてが始まった。ルミが死んだことをサヤカが誤解する前から、殺戮が行われていた。隣で寝ていると思っていた二人はあの夜、抜け出していたのだ。
「最初にかなり荒らせたからな。警察のこともあったし、二日目で終わらせようってことになった」
「いやはや、大仕事でしたよ。小さな村とはいえ、たった二晩で全滅させようってんですから。死体の処理ってものすごく大変なんですよ?」
死体処理すらできてしまうなんでも屋。罪の意識などまるでなさそうな態度。頼まれた仕事はなんでもするのか、それとも元々人間性が狂っているのか。
「上出来でしたよ。マキトも、よくやってくれました」
「小さい村じゃないと、こんなことできねえよな。多少の物音は周りに聞こえないから、殺すのは思い切ってやれた。全員が顔見知りだから、疑われることもなかったし」
この村の人間はみんな、まさかルミやマキトに殺されるだなんて思わない。二人とも、そんなことをする人間ではないからだ。それにしても、大人を何人も殺すのは並大抵のことではないが。
「じゃあ……私の、お母さんとお父さんも……」
「ああ……それは、私です。マキトにやらせるのは酷ですからね。マキトの両親も、私が」
「なっ……!?」
ルミが、殺した。両親を。惨劇の首謀者がルミである以上、それは当然だった。サヤカの両親を殺したのはルミかマキトのどちらかしかありえない。
わかってはいた。が、本人の口から聞いた途端、サヤカの体に熱いものがこみ上げてきた。その熱さは頭にまで上り、痛みを忘れた体を突き動かす。
「ルミ……っ!」
サヤカが立ち上がる。その目に映っているのはもはや、友人や同級生ではない。両親の仇であり、殺人犯だ。
「よくも……よくもおぉぉっ!!」
武器はもうない。だが関係ない。ただ、目の前の仇敵を殴る。サヤカはそれしか考えていなかった。……が。
「ダメですよ。おとなしくしててください」
キョーコが両者の間に割って入る。サヤカがその存在に気づく頃にはすでに、キョーコの手がサヤカの喉を捉えていた。すさまじい力で、サヤカの体が後ろの方向に倒されていく。足までもが地面から離れ、わずかな時間ながら体が宙に浮く。そのまま、喉を掴む手の力でサヤカの体は真下に叩きつけられた。
「かはっ――!?」
背中を地面で強打し、息が止まる。
「かっ……くぁ……!」
再び地面に転がったサヤカが、呼吸を求めてのたうつ。うつ伏せになり、えづく。
「……サヤカ、あなたのお気持ちはよくわかります。ですが、無理はしないことです。わざわざ苦しんで死ぬこともないでしょう」
そう言ってサヤカを見下ろすルミの表情は、ひどく冷たいものだった。先ほどまでの笑みから一転、逆らいがたい威圧感を放つ。
「くっ……ルミ……! ……けほっ……どうして……あなたは村長の孫で……この村を……」
苦し気に喋るサヤカがルミに言い放った言葉。煽りではなく本心から出たその一言が、場の空気を変えることになった。キョーコがまずいことになったとばかりに口を開け、ルミの目がきつく細まる。
次の瞬間。
「あうっ!?」
サヤカが悲鳴を上げる。
「……どうして? まさしく、それですよ。あなたが今、言った通りです」
「うあ……あ……あァッ……!」
振り下ろされた足がサヤカの背を強く地面に押し付ける。自らの憎しみを乗せたようなすさまじい力で、ルミはサヤカの背を踏みにじる。
「村長の孫……村長の孫! 偶然その家に生まれたなどというくだらない理由で、こんな沈みゆく船に最後まで残れと言われる! 幼い頃から自由を奪われ、この先も……更なる苦しみが待っていると知りながら、居座らなければならない! 姿をくらませたあの二人がのうのうと生き、ただ真面目に生きているだけの私は地獄行きの運命! まともな人間が損をし、苦しむ! その一方で、能無しの阿呆や卑怯者は好き放題……もう、うんざりなんですよ……!」
一度も聞いたことのない、激昂したルミの声。ルミが取り乱すこと自体、サヤカは初めて見る。その原因は、村長の孫という自分の立場。生まれながらに決められた運命。親を選べない子供の悲痛な叫び。
「他者を見下し弱者をいたぶるは、いつの時代も無能の輩……ならば私も、それに甘んじます。まともな生き方が無駄な死につながるのなら、無能で結構。目障りなこの場所を消し、残った卑怯者の親二人を始末すれば、私の復讐は終わります。犯罪者として未来を失うか、あるいは復讐を終えて死ぬのもいいでしょうか」
狂っていた。すでに。この惨劇は、村を全滅させて犯行を隠すためのものではない。すべてを失っていい覚悟がルミにはあったのだ。失敗を恐れない。この計画が失敗したとしても、少年院でも刑務所でも地獄でも落ちる覚悟をルミは持っている。
「サヤカ、あなたにも感謝はしています。いつもいつも、村を出たいと口癖のように……あなたのその態度は、私に勇気をくれました。私も自分の好きにしよう、とね」
ルミが笑う。その笑みは実に純粋。爽やかにすら思える笑顔だった。
「だから、って……こんな……どうして……」
ほかにも方法はあったはず。村長の孫という責任から逃げ出してもよかった。生まれ故郷だからといって、自分を捨ててまで家柄に従う必要はなかった。サヤカはそれに理解を示していた。
「さあ……どうしてでしょうね。やりたいことをやっただけです」
やりたいこと。村を全滅させること。自分を苦しめてきた存在を、一人残らず消すこと。
「人狼の話も、いい材料ではありました。人を騙し、村を破壊する……ちょうどいいシナリオでした。せっかくなので、やってみようかと。この村に、本当に人狼を招こうと思ったのです」
「そんなわけで、呼ばれました。デリバリー人狼です。実際の役割は狂人ですけれど」
キョーコが敬礼して言う。人狼を騙る狂人といったところか。
「キョーコは面白い人です。最初は本来の便利屋相応の仕事を頼んで様子を見ていたのですが、長く付き合ううちに個性的な内面が明らかになりましてね。自らいかがわしい名前を名乗るだけのことはあります」
「いかがわしいて。妙な言い方をしないでくださいよ。カッコイイじゃないですか、人狼」
初対面でないどころか、キョーコに仕事の依頼を以前からしていた。キョーコの内面にまで踏み込んでいるあたり、そこそこ堅固な関係性ではあったようだ。
「あれ? ルミお前、前から仕事の依頼とかしてたの?」
一方、マキトはそれは知らなかった。彼はルミとはもちろん交流があったが、キョーコとはまだ出会って三日だ。
「ええ。簡単な仕事を。うちはお金だけは生意気にありますから。ネット上で済ませられる程度の仕事などを頼んでいました。彼女に目を付けたのはもちろん、社名からです」
人狼。そんな名前で商売をやっているせいで、ルミの目に留まった。人狼の言い伝えのある生まれ故郷への復讐に燃えるルミに目を付けられら。
「いやあ、大成功でしたね。悪目立ちを狙ってこの名前にしたら、見事に大仕事が舞い込んできました。お小遣いおいしいです」
この依頼にあたって、ルミもそれなりの大金は用意している。こんな無茶は報酬以前の問題だろうが、それでもキョーコは乗ってきた。
「厳守する条件は一つ。自らの手で殺人をしないこと。無事、クリアできましたね」
「傷害は二件ほど犯したようですけれど?」
「だからぁ、それは正当防衛ですって。しかも二件目に関しては、ご主人様を守るためじゃないですか」
手出ししてしまったことを地味に責めるご主人様に。キョーコは口を尖らせる。確かに、傷害はしている。最後の最後で。気を取り直し、キョーコは目線を下に戻す。
「マキトさんも言いましたが、人狼の村でのリアル人狼。こんな面白いことはないと思いまして。サヤカさんもさっくり逝ければよかったでしょうけど、残念でしたね。同級生なだけで利用されることになってしまって」
ルミはマキトと通じていた。マキトはサヤカと非常に親しかったため、マキトを仲介役として利用された。
「面白かったですよ、サヤカ。人狼に怯えるあなたは。あれはさすがに予想外でした」
人狼として活動を始める前から、サヤカは人狼を恐れていた。あの夜、夢を見てしまったばかりに。そのためにルミの初動が変わったが、計画そのものの変更や結果に変化はなかった。
「最後にここで、サヤカさんが死ねば依頼は完了ですかね?」
キョーコに視線を送られたルミは、目を伏せて静かに笑う。
「そうですね。キョーコ、何かいいものを持っていませんか?」
「ありますよぉ~もちろん」
嬉しそうに笑い、キョーコは背中から何かを取り出した。キョーコが手にした何か。サヤカの目には細いシルエットだけが見えている。
「古今東西、鈍器の王者! バールのようなものこと、バールです!」
バール。扱いやすく、リーチがあり、殴られると痛い。殺傷能力もある。ルミはその万能武器をキョーコから受け取り、軽く振りかぶってサヤカを見下ろす。
「う……ぐっ! ルミ……っ!」
サヤカは必死に抵抗するが、ルミに踏みつけられているため動けない。
「さようなら、サヤカ。恨むのでしたら存分に、私を恨んでください」
「ううっ……!」
サヤカは涙に濡れた顔でルミを見上げる。恐怖と悲しみが、大波となってサヤカの胸に襲い来る。
恐ろしくて声が出ない。それでも。
死にたくない。そう、強く思った。