黒い事件
「うっそー。朝倉君って、本当に日本人やったんや」
「そうやけど…」
俺は、自分の容姿が嫌いだ。外国人みたいとからかわれる顔立ちも、日本人らしくない茶色いくせ毛も、どれだけ外に出てもほとんど焼けない白い肌も何もかもが。外国人みたいだと言われ続けてきたことは、俺にとっては苦痛でしかなかった。
俺が嫌っているこの容姿は、おとんと全く同じものだった。そのこともあり、俺はおとんのことが嫌いだ。だからと言って、おかんにそっくにな容姿に生まれたかったわけではない。しかし、そうだったら少しは不満が少なかったと思う。
せめて髪の毛が黒くなったら、日本人らしくなるし、染めていると疑われなくなるかもしれない。そう期待した俺は、あることを思いついたことがあった。
小学校3年生が終了する直前、俺たちは学校に置いていた教材やら荷物やらを家に持って帰る必要があった。その荷物は小分けにして持って帰っても重くなって、下校するときは普段より疲れてしまう。
「毎年の事やけど、面倒くさいしえらい(疲れる)な」
一緒に下校している貴雄もそう嘆いていた。
「そうやな」
俺もそう同調したが、
「あれ?晴男、そう言う割に何か嬉しそうな顔してへん?」
と貴雄に指摘されてしまった。
「そうか?」
俺はそうとぼけたが、貴雄は独り言のように
「習字セットなんて重たいもんやのに、嫌な顔せずに持って帰るなんて、晴男は変わっとんな」
と不思議がっていた。
さすがにこの気の許せる幼馴染み相手でも、本当にこの習字セットを持ち帰ることを楽しみにしてきて、今の俺はこの上なくテンションが上がっているとは言えない。
ばれたところで貴雄に何かされると疑ってはいないが、今の俺には誰にも言えない計画があるから。
帰宅した俺は、真っ先に自分の部屋に入り、持ち帰った習字セットを開けた。そして、墨汁を硯に注いで筆に染み込ませた。そして俺は、それを紙ではなく自分の髪に付け始めた。
そう、俺は墨汁を使って髪を黒くしようと考えたのだ。そして、万が一墨汁が付いても目立たないように、今日は黒い服を着ている。
しかし、髪に墨汁を付けることは思っていた以上に難しかった。その上、驚くほど墨汁が減ってしまった。元々墨汁が大量に残っていたわけではないが、髪全体を黒くする前に空になってしまった。
どうしよう、まだ半分も塗れていないのに。俺はそう動揺したが、家に絵の具を持って帰っていたことを思い出した。両親が帰ってくる前に、全部仕上げてしまわないと。そう思った俺は、水を使うために急いで洗面所へ向かった。そして、頻繁に洗面所に行かなくて済むように、台所にあった空き瓶に水を入れた。
水を入れてから確認したが、ちゃんと黒の絵の具があったのでほっとした。絵の具も黒は頻繁に使うが、それ故に切らさないように買い足していたのだった。
アクリル絵の具だから、落ちにくいはずだ。これを使えば、残っている髪も黒くできるはずだ。憧れの黒髪まであともう少しだ。俺はそう思い、夢中で髪に絵の具を付けていった。
しかし、思っていた以上に作業に時間がかかっていたらしく、誰かが家に帰ってくる物音がした。おとんだろうか?それともおかんだろうか?
「ただいま」
部屋からでも聞こえるその声はおとんのものだった。おとんは、俺が出てこないことに違和感を覚えるだろうか。
しかし、もし何か言われても、無視して髪を黒くする作業を続けようと思った。どうせ黒くなった髪を見られることは同じなのだから。でも、そろそろ仕上げたほうがいいな。そう思っていた時だった。
「ただいま」
おかんも家に帰ってきた。
「あれ、晴男は?」
そう言うおかんの声が聞こえた。
「部屋にいるんでねが?」
おとんがそう言っている声も聞こえた。
「もうこの時間なのにずっと部屋にいるってどうゆうことよ!怪しいから部屋に行ってくる!」
おかんがそう言っていたので、俺はまずいと思った。
「晴男、居るんでしょ?入るわよ」
身構える暇もなく、おかんが俺の部屋をノックしてきた。
「ちょっ、待てっ!」
俺がそう言っても時すでに遅し。おかんは俺の部屋に入ってきた。
「あんた、何やってるのよ!」
おかんはそう叫び、俺と目が合った瞬間に思い切り平手打ちをしてきた。それが想像以上に痛かったので、俺は思わず打たれた場所に手を当てた。
「何があったんだ」
おかんの声を聞きつけたおとんも、そう言って俺の部屋に来た。そして、俺の顔を打って取り乱しているおかんを見て、即座におかんを羽交い締めした。
「ごしゃぐ(怒る)のは仕方ねげど、手どご出してはいげね」
おとんはそう言っておかんをなだめたが、おかんは
「何でこんなことするのよ!今すぐ髪を洗ってきなさい。それから、墨汁と絵の具、預かってるあんたのお年玉で買うからね!」
と叫んでいた。
もう少しで憧れの黒髪になれると思っていたのに、結局元の茶髪に戻ってしまった。俺はそう落胆しながら、浴室で髪を洗った。墨汁やアクリル絵の具を使ったせいか、普段より髪は洗いにくくなっていた。
髪を洗い終わって浴室を出ても、髪には少し黒色が残っている箇所があった。俺の洗い方が雑だったのだろうか。そして結局この髪は、黒髪にしたいと考えた原因の変態美容師に切られるのだった。
「あんた、何かあってもお父さんが髪を切って何とかしてくれるって甘えがあるからあんな真似をしたんでしょ」
その後の夕食の時に、おかんにそう言われた。俺の部屋に入った時ほど取り乱していないとはいえ、まだ怒っている。
「そんなわけあるか。俺は一生黒髪でいたかったんや」
おかんにああ言われて、俺もいらついた。
「おらもそう思ったごどがあっがら、わがらねぐもねげどな」
おとんはそう言っていた。そうか、おとんも同じように思っていたことがあったのか。
「おめの髪も伸びでぎだがら、今度切ってやろうか?」
おとんは、おかんに対してそう言っていた。
「そうね、お願いしようかしら」
おとんは俺だけでなく、おかんやおとん自身の髪も切ってきたのだ。
そしてこの話のおかげで、俺はこれ以上おかんにがみがみ言われずに済んだ。お年玉が新しい墨汁と絵の具になることは避けられないだろうけど。
「おはよう晴男。髪短なった?」
翌朝、登校するときに貴雄にそう言われた。
「ああ。実は−」
隣の家に住む貴雄に隠し事はしないほうがいい。おかんの絶叫が聞こえていた可能性もあるし。そう思った俺は、昨日あったことを全て話した。
「そうやったんや。実は昨日、お前の家から叫び声が聞こえたから何があったんやろって気になっとったんや」
案の定、貴雄にそう言われた。やっぱり、誤解されないためにも全て話しておいて良かった。
「大丈夫。このことは誰にも言わへんから」
貴雄がそう続けたので、俺はほっとした。
「さすがに懲りた。もうせえへん」
俺はそう呟いた。
「まあ、そうやろな。でも、これから野球を始めるんやから、髪が短い方がええかもしれへんな」
貴雄がそう言っていたので、俺は少し気分が軽くなった。でも結局、俺はこの茶髪で生きていくしかないのだよな。そんな諦めもついたのだった。