9話
霧の中をしばらく歩き回り、あるビルの廃墟へと入った。その頃にはヒカルは疲れてしまったようで、寝息が聞こえてくる。崩れかけた階段を上って、出来るだけ上の階へ上がった。和哉は壁にもたれて座り、ヒカルを隣へおろした。
あの少女を助けない限り、多分ヒカルは許してくれないだろうな、と思う。霧のせいか気温が低く感じ、思わずヒカルの体を引き寄せた。起きたら一人でも助けに行こうとするだろう。俺は何をすべきなんだろう、と和哉は考えた。
あのまま逃げなかったらどうなったんだろうか、と思う。そもそも世界を超えるというのはどういうことなんだろう。多分俺が真琴を通して、元の世界と繋がっているのは確かなんだろう。どうやって世界を超えるというのだろうか。俺も真琴も無事ですむはずはないな、と和哉は思った。
情報が足りないな、ヒカルが知っていればいいけど、と思ったが、とりあえず今は寝よう、と和哉は目を閉じた。
またこの夕方の教室に来た。真琴を見て、大人になっている、と和哉は思った。この間はお婆さんだったが、今の真琴は何歳だろうか、20代後半のようにも見える。
「久しぶりだね。和哉」
「俺が和哉って分かるんだな」
真琴の言葉にそう返すと、真琴は笑った。
「前回より若いね。そういえば伝言があるよ。あなたからの」
「俺からの?」
「あなたから聞いたよ。歳をとった私とか、小さい頃の私に会ったんでしょ?私もね、昔からあなたの夢を見てたんだ」
どういうことだ、と和哉は混乱した。
「ああ、そういえば時間の出口が違うんだったね。今のあなたは殆ど知らないんだよね」
どこかで聞いた話だな、と記憶のすみにそんな言葉があるのを和哉は思い出した。
「私が分かるまで何度も教えてくれたんだよ、和哉は。その和哉は今の和哉よりも格好よかったよ。今も格好いいけど」
真琴を見ながら、結構変わったな、と思った。前回より長く話せているのは、右手に結晶を埋め込んだからだろうか、と推理する。ガスマスクが確か龍一の威力がすごいとか言ってた気がするし、結構容量が大きいのだろう。
「説明してほしい。今は何でもいいから情報が欲しい」
分かった、と真琴はうなずいて、話を始めた。
「おじいさんに聞いたって言ってたけど、そっちの世界の時間の出口が違うっていうのは知ってるよね?」
真琴は、和哉が頷くのを確認して話を続ける。
「逆にそっちからこっちに来るときも、同じようなことが起こるんだ。ただちょっとここは難しいから分かんなくても良いんだけど、厳密には同じじゃないんだ。元の世界からそっちへ行く時は、そっちのあらゆる時代に出られるんだけど、そっちからはそれを辿ってしかこっちの世界へ戻ってこれないんだって」
どういうこだ、と和哉は思った。こいつはこんなに頭がいいやつだったか、と少し悔しく思った。
「例えるならね、じょうろを想像してみて。じょうろが元の世界、水が落ちていくところがそっちの世界。じょうろからはどこへでも水は落ちることが出来るけど、じょうろに戻るには落ちていく水を辿るしかないよね?だからそっちからは特定の時間帯にしか行けないんだって。和哉の場合はね、私が生まれてから死ぬまでの期間」
いまいち話が飲み込めなかった和哉だが、そういうものだと思うことにした。
「昔は私が勉強教えてもらってたのにね」
そう言って笑う真琴に、和哉は少し腹が立った。
「だから、私が生きている間に、和哉はランダムに来れるんだ。それで、そっちも未来の和哉に、昔ね話を聞いたの」
ややこしいよね、と真琴は言った。
「何を話せばいいか分かんないから質問してよ。その方が無駄なこと話すこともないし」
和哉はじゃあ、と言って質問した。
「あいつらは何をするつもりなんだ?」
「言うな、って言われてることは言わないけどね。元々世界に捨てられた人達だからかな、復讐してやろうとか思ってるらしいんだ。力を持っちゃったっていうのあるし、自分が全く必要とされてないっていう絶望感とか」
そっちの世界からは出られないはずなんだけど、と一息入れて、真琴は続けた。
「他の世界と繋がってる人が見つかったせいで、帰れる可能性が出てきてね。繋がっている最中に膨大なエネルギーで、世界に穴を開けてしまおう、っていう計画らしいよ。ただ、皆が皆私たちと同じ世界出身じゃないだろうから、参加しない人たちもいたらしいけど」
「なんとなく話が見えてきた。その入り口が俺か」
そう、と真琴が頷いたとき、視界にノイズが走った。
「時間が無さそうだから、手短に話すね。彼らが使おうとしているエネルギーは、そっちの空に大量に漂っているもので、元々他の世界から漏れ出たものなの」
和哉は徐々に視界が狭くなるのを感じ、途切れることを悟った。
「あのおじいさんについて調べてみて」
視界が暗闇に飲まれた。
目が覚めると、何故か頬が腫れていた。ヒカルは少し離れた場所に座っているが、和哉と目を合わせようともしなかった。外は雨が降っているようで、ビルの壁を雨が打つ音が聞こえてくる。
「なあ、昨日のことは悪いと思ってるけど、大事な話があるんだ」
ヒカルは相変わらずこちらを見ないが、少なくとも話を聞いてはくれそうだった。
「俺が鍵だってあいつらは言ってただろ?どうやらそれは本当らしいんだ」
ヒカルはこちらを振り返り、忘れてた、と呟いた。
「説明すると長くなるし、ややこしいから省くけど、元いた世界の人に話を聞いた。あいつらの狙いも分かった」
ヒカルは相変わらず黙ったままだった。
「元の世界に戻って復讐しようとしているらしい。鍵を通して空のエネルギーで世界に穴を開けるらしい」
ヒカルは和哉を睨みつけた。
「それを信じろって?お前はずっと寝てたんだぞ?」
「俺はこういうとき嘘をつく人間じゃないって分かるだろ?俺の過去の思い出の大半を暴露したんだ。俺の人間性は知ってるだろ」
ヒカルは鼻で笑った。
「お前の人間性を信じろって方が無理だろ。お前はただの劣等感の塊じゃねーか」
「は?」
和哉は思わず低い声で返した。
「お前の話聞いてるとさ、ただ自分を大きく見せたいだけにしか聞こえないんだよ。俺だけは違う、みたいにさ。そんなんだからこの世界に来たんだよ」
「黙れよ」
「どうせ自分の劣等感を刺激するもの全部を、否定して来たんだろ?真琴が好きだって気持ちすら、自分で否定してたんじゃねーのか?他の男に負けたって認めたくないから!」
右腕が熱くなるのを感じた。
「お前みたいな人間は一生人を好きになれねーし、やりたいこともねーんだ。一生このゴミ溜めでくらせよ。いっそあいつらの生贄になったほうが役に立てていいんじゃねーか?」
気付くと右腕から青白く光る剣が伸びていた。ヒカルを強引に力で押し倒して、腕を封じた。
「そうすれば俺が泣いて許しを請うとでも思ったのか?首でも切り落とせよ。最後の瞬間までお前を馬鹿にして死んでやる」
そう言われ、和哉の動きが止まった。こいつは死んでも殺せないと悟った。そう思うと、急に気持ちが冷めてきた。
「悪かった」
そう言って和哉はヒカルを開放した。
「頭冷やしてくる」
和哉は壊れた階段を伝って屋上に上がった。雨がコンクリートを打ち付けている。今は濡れてしまっても構わないと和哉は思った。
言われたことが全部正しいような気がして、死にたいと和哉は思った。死ねば楽だな、と思うが、多分これは現実逃避なのだろうと和哉は気付いていた。
自身の劣等感について気付いてはいた。気付いていながら見ないようにしていた。今までの自分の人生の薄っぺらさに気付き、和哉は泣いた。
龍一の言った、この世界で生きていきたいか、という質問の意図がなんとなく分かったような気がした。そもそもこの世界にくる人間は、元の世界で生きていなかったんだ、と思った。
雨はしばらく止まなかった。