3話
中に戻った和哉に対し、老人は、この世界で生きていきたいかと尋ねた。
「どういうことですか?」
「いや、生きていく気がないのなら、この場で死なせてあげたほうが君のためだと思ってね」
当たり前のようにそう答えた老人に、和哉は思わず距離をとった。
「いやそう身構えなくてもいいよ。ただね、さっきも言ったけどこの世界にくる人間は、基本的に元の世界で生きていたいと思っていないんだ。その証拠に君はさっきから帰れるかどうかについては一切触れていないじゃないか」
「そ、それは聞くのを忘れていたというか」
「別に変なことじゃないよ。私がそうだったからね」
老人はそういって椅子に座った。
「少し私の話をしてもいいかな。ああ、自己紹介がまだだったね。人と話す機会が全くないと、常識すら忘れてしまうから困るね」
老人はそう苦笑して、龍一だ、と名乗った。和哉は慌てて、五十嵐和哉です、と答える。
「五十嵐くんか。改めてよろしく。さっきの質問だけど、近いうちに答えをだしておいて欲しいんだ。この世界で生きていくかどうか、ということをね。しばらくの間は、この世界の常識や生きていく術を教えるけど、そこで生きていけないと思ったら、遠慮なく言って欲しい。これは君のためだから」
和哉はそこで、この年老いた人物に恐怖を感じた。この異常な環境で長年一人で過ごしてきて、この人は頭がおかしくなったんだ、と直感した。
「生きていたいです」
「ああ、そんなに焦らなくていいよ。すぐに答えは出ないものだからね。私の話を聞いてから決めてもいいし、しばらく過ごしてから決めてもいいよ。とりあえず疲れるからベッドにでも座りなさい」
和哉は勧められるままベッドに腰を下ろす。
「私がこの世界に来たのはいったい何年前だったかな。今となってはもうわからないんだ。この世界に時計はないからね。しかも、もともといた世界と時間の進み方も違えば、時空の出口といえばいいのかな、それも違うんだ」
「時空の出口ってなんですか?」
思わず和哉は質問をぶつけた。龍一は、例えば、と指を立てながら言った。
「二人の人間が同じ時刻に元の世界から外れたとしよう。同じ場所で同じ時刻にこの世界にやってくるはずだけど、実際は違う。片方がこの世界のある時間にやってきたとしたら、もう一人はそれより1億年前にやってくる、なんてこともありえるんだ」
「ちょっとよく分からないんですが」
龍一は、そうだろうな、とつぶやいた。
「この世界のどの場所に落とされるか分からないように、この世界のどの時代に落とされるか分からない、ってことなんだけど。これは理解しなくていいよ。そういうものだと思ってくれればいい」
和哉は納得出来ないまま、わかりました、と返した。
「そうそう、私がこの世界にやってきたとき、ある人たちに助けられたんだ。助けられたのは良いんだけど、ここで生きていくか選べ、って言われてね。帰れないと聞かされた時は荒れたよ。まだ30代だったじからね。それまで積み上げてきた人間関係や仕事の実績、貯金、そして何よりも努力なんかが全部無駄になってしまったんだからね」
「それは辛いですね」
そう和哉が返すと、龍一は、実はそうでもなかった、と言った。
「正直ホッとしていたんだよ。煩わしい人間関係からも、仕事の責任からも。私は所謂エリートコースだったんだな。幼いころから受験に明け暮れ、人を蹴落としてのし上がって。親に言われるままお見合いをして婚約者も出来た」
「良いじゃないですか。出世していってお金を稼いで。婚約者までいたんでしょう?」
「私もそう思っていたんだけどね。こっちの世界に来て気づいたんだよ。そもそも元の世界に帰って何かしたいことがあったか、ってことに。どうせ戻っても今までの生活が続くだけ、そこに自分のやりたいことは無かったんだよ」
和哉はそれは違うだろう、と思った。
「自分のしたいことをして生きていける人間なんて、そうそういるわけないじゃないですか。それこそほんの一握りの人間ですよ」
「違うんだ。好きなことをして生きていく、っていう話じゃなくてね。帰る必要性がなくなって、じゃあこの世界で生きていくか、ということになった時、私は何も無かったんだよ」
何も無かった、というのは、と和哉は聞く。
「親の面倒をみる必要もない、親の言う事を聞く必要もない、そんな状況で私は何のために生きていけばいいか分からなかったんだ。今までは社会の流れとして働くのが当たり前だったし、親にもそう言われてきた。私を縛っていたそういうものをとったとき、私には人生の目標というようなものは無かったんだ」
和哉は、そこでなるほど、とつぶやいた。
「なら俺は大丈夫ですよ。俺もやりたいことは無いですけど、生きていれば何か見つかると思うので。とりあえずは生きていこうかな、と思います」
龍一は若いな、と笑った。
「私も同じことを言ったよ。そこで初めて生きがいを見つけた。私を助けてくれた人たちの中には、同じ世界から来た人もいてね。そのうちの一人だった。人生で初めて人を好きになった。ああ、生きててよかったな、と後になって思ったよ。そしてそこで初めて元の世界に帰りたいと心底思った」
龍一は喋りすぎたかな、と頭をかいて立ち上がった。
「さっき君は生きていくと答えたけど、もう1日くらい真剣に考えてみるといいよ。このビルから出なければひとまず安全だから、ゆっくり考えるといい。元の世界に帰れるとしたら帰りたいか、とかね」
私は下の階にいるから、と言い残し、部屋を出て行った。和哉はベッドに倒れこんで天井を眺めた。
生きていくのは当たり前だろう、と和哉は思う。もし、元の世界に帰れるとしたら、とつぶやいてみた。実は、龍一の正直ホッとした、という言葉をきいて一瞬どきりとしていた。もう大学がどうとか、受験がどうとかということを考えなくてもいいと分かったから。もし今元の世界に帰れたとしても、俺の日常は何一つ変わらないだろうな、と和哉は思う。もし志望していた大学に合格していたら、この考え方は変わっていただろうか、と考えた。多分変わらなかっただろうと、和哉の直感が告げた。
考え続けていても答えが出そうになかったので、和哉は部屋を抜け出した。階段を下りていくと、龍一が何かを調理しているのだろうか、何か音が聞こえてきた。下の階も、和哉がいた部屋と同じ作りのようで、ヒビのはいったコンクリートの空間だった。
音のする部屋を覗いた和哉は絶句した。龍一が巨大な何かをさばいている。一瞬エビとか、カニとかを想像したが、すぐに理解してしまった。
「虫、食べるんですか?」
声が聞こえたのか、龍一は顔を上げ、体液で濡れた手を布で拭いた。
「そうだったね、元の世界では虫はあまり食べなかったんだっけ。仕方がないな、今日は塩を使ってあげるよ」
その言葉で、普段は調味料なんてものは使わないんだということを、和哉は悟ってしまった。そしてそういう問題じゃない、と叫びたかった。
「この世界で生きていくとかどうとかっていうのは、虫を食べて生きていけるか、っていうことだったんですか?」
思わずそう聞いた和哉に、龍一はまさか、と笑って返す。
「こんなのは慣れだよ。アレルギーなんかがない限り食べれるさ。毒もないしね」
「栄養は霧から吸収できるんじゃないんですか?別に虫を食べなくても」
「その通りだよ。からかってごめんね、これは私が食べるようなんだ」
龍一は楽しそうに言った。
「さっき、許容量以上の粒子を取り込むと灰人になるっていう話をしたよね。そのまま粒子を取り込み続けなければ、普通の力の強い頑丈な巨人、といった感じなんだけどね。それ以上体に粒子を取り入れると、体内で粒子が結晶化するんだ。結晶を持ってる灰人のことを結晶持ち、ってシンプルに呼んでるよ。私の腕にも結晶はあるけど、これは別に私が灰人だからじゃないよ」
そう言った龍一の右の手の甲が青白く光り始めた。
「灰人じゃないのに、結晶があるってどういうことなんですか?話を聞く限り灰人にならないと結晶化しないと思ったんですけど」
「例外はあるんだよ。まれに脳みそのダメージがわずかだったり、全くなかったりする場合があって、そのまま粒子を吸収すると、意識を保ったまま結晶化が起こるんだ。そういう人はナチュラルって言ってるよ。私の場合は灰人のものを移植したものだけどね」
そんなもの移植して大丈夫なのか、と和哉は思った。顔に出ていたのか、龍一は言う。
「この結晶の話はまたするけどね。大量に粒子を取り込むのがだめであって、結晶を持つことについては大丈夫らしいんだ。結晶を持っていると燃費が悪くなってね。霧だけじゃどうにもならないんだ。」
「俺は結晶はいらないです」
和哉は心からそう言った。