2話
和哉が目をさますと、ヒビが入った天井がまず目に入ってきた。どうやらここはどこかの建物の中のようで、火がついていて少し暖かい。ここはどこだっけ、としばらくぼんやりとしていたが、ふと先ほどの出来事を思い出した。和哉はあの老人が助けてくれて運んでくれたのかな、と思った。少し硬めのベッドに横たわっていると、すぐそばから音が聞こえ、慌てて身を起こした。それと同時に咳が出て、口から血が飛び出る。体にかけられた少し黄ばんだ白い布に赤い斑点がついた。
「安心しなさい。それは体がこの世界に馴染み始めているんだよ」
隣から少ししゃがれた声が聞こえ、そちらを見ると、気を失う直前に見た老人が座っていた。歳は70を超えているように見え、背は高く痩せてはいるが、弱々しい感じはまるでない。外の植物から作ったのだろうか、白と灰色の服を身にまとっている。髪の毛も白いせいで、和哉は老人から神秘的な雰囲気を感じた。本を片手に時折こちらを見ているが、その目には敵意の色は無かった。
「あの、さっきはありがとうございました」
一応お礼を言っておかねば、と和哉は老人に頭を下げた。老人は本を傍らの机に置き、和哉に向き直った。
「いや、礼はいらないよ。君はここへは来たばかりかな?」
「はい、そうです。電車を待っていて、ホームに落ちたと思ったら、気づいたらこの変な空間にいました」
老人はやはりそうか、と呟いて立ち上がった。
「お茶は好きかな?お茶と言っても君が知るお茶ではないが」
「それなりに好きです」
老人は部屋の壁際にある灰色の棚に向かうと、白い木のコップを二つ取り出した。さらに缶から粉を入れ、古いストーブの上に置いてあるやかんを手に取った。コポコポコポ、と音がして、湯気が立ち上っているのが確認できる。
老人は和哉にコップを手渡すと、再び椅子に腰掛けた。見たこともないお茶だな、白いし、と和哉は思う。老人が普通に飲んでいるのを見て、和哉も思い切って口をつけた。よく飲むような緑茶の感じは全くせず、どちらかというとコーヒーとかそういう味に近いと感じた。しばらくの間、二人とも無言で、ただお茶をすする音と、木の燃えるパキッという音だけが響いた。
「誰が見ても、君はここへ来たばかりだと分かったと思うよ。ここで大声を出すなんて自殺行為に等しいんだ」
静寂を破って老人が話し始める。和哉は思わずお茶を飲むのをやめた。
「ここはいったいどこなんですか?全くわかんなくて。もしかしてあの世じゃないか、とか考えてたくらいなんで」
和哉がそういうと、老人はまたお茶を一口飲んだ。
「緊張のせいか喉が渇いていてね。人と話す機会なんか滅多にないから」
老人はそう笑ってお茶を置いた。この老人の喋り方が、見た目に対し若いのは、人と話すことがあまりないからじゃないか、と和哉は思った。
「そうだね、ここはあの世みたいなものかもしれないね。一応ここがどこかは分かっているんだけど説明した方がいいかな?」
和哉がもちろんだと、首を縦にふると老人は軽く笑った。
「まずなにから話そうかな、話すべきことはいくつかあるんだけど。この世界のことを最初に話そうかな」
「お願いします」
老人による解説が始まる。
「簡単にいうと、君はもともといた世界からはみ出しちゃったんだ。ある日君だけに重力が働かなくなって、遠心力で宇宙に放り出されるようにね。急に世界のルールが君に働かなくなって世界の外へ弾き飛ばされたんだ」
「どういうことですか?」
和哉はそう言いながら、自分が混乱していることに気づいた。
「そのままの意味だよ。なぜ、どうして、とかは考えてもしょうがないんだ。ここはそうした世界から外れた人や生き物、物が集まる空間なんだ。君はいったいどういう世界からやってきたのかな?」
「俺は、普通に、なんだろう、科学が発達した世界で、飛行機があって、電車があって・・・・・・そういう世界にいました。えっと、飛行機っていうのは、空を飛ぶ乗り物で」
「大丈夫、それはわかるよ。私がいたところもそんなところだった。私が元々いたところとそこまで違いはなさそうだね」
和哉は少し説明しすぎたな、と恥ずかしくなった。
「じゃあ、あの大きな蟻は俺がもといた世界とは別の世界から来たっていうことですか?」
和哉がふと思いつきそう口にすると、老人はわからない、と言った。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。あんな蟻はもといた世界にはいなかったけどね、この世界に来て大きくなった、っていうことも考えられるんだ。この世界は特殊だからね。君がさっき吐血したこととも関係あるよ」
老人は立ち上がって和哉に立てるか聞いた。和哉が大丈夫そうだ、と答えると、老人は部屋の外に出るように促した。
「大丈夫、今は夜が明けてすぐの時間だから。危険なことはほとんど無いよ」
外へ出て初めて、和哉は自分が古びたビルにいたことを知った。老人について階段を登り、屋上に出ると、霧の晴れた街が見下ろせた。いや街、と言っていいのだろうか。街の中に森が現れたようだ、と和哉は思う。思ったより明るいな、と和哉は思ったが、そこで違和感に気づいた。空をどれだけ見回せど、太陽が全く見えなかった。ただ、空全体が白く光っている。
「霧が降りている間を私たちは夜と呼ぶ」
老人が語り始め、和哉は空を見るのをやめた。
「君が思っている疑問については後で答えるよ。とりあえずここに、世界から外れた物が集まっている、ということをわかってもらいたくてね」
街を良く見て、と言われ目をこらすと、老人の言ったことが少し分かった気がした。あらゆる時代の、あらゆる文化の寄せ集めだ、と和哉は思った。少し離れた場所には、墜落したのか旅客機が、またある場所には昔あったような帆船の残骸があった。
「ある人に聞いた話だけど、ここへ来る人や物っていうのは、その本人が世界を拒絶した場合が多いらしいんだ。現状に不満があったりね、生きる気力もないような人に、起こり得ないような偶然が重なってここへ辿り着くんだ」
和哉は、確かに自分は現状に不満を持っていたな、と思った。ただそれで世界を拒絶するほど嫌だったか、と言われるとそんなことはないと思う。
「ああ、君はさっきから太陽がないことが気になっているんじゃないかい?」
「そうですね。太陽がないのに、空が明るいのはなぜですか?」
老人は、和哉に腰を下ろすように言った。
「あの空には、正体はよくわかっていないが、膨大なエネルギーを持つ粒子が漂っているんだ」
「粒子が?」
「ああ、その粒子は霧とともに周期的に下へと降りてくる。それを摂取した生物は皆ああいう白や灰色の姿になる。私の姿も普通の人に比べて幾分白いだろう?白髪なのは歳のせいもあるけどね」
老人はそう言って笑った。
「その粒子はある特性をもっているんだ。生物の体を変化させるっていう奇妙なものをね。結果的に生物が変化した、という表現が一番正しい気がするけどね」
「生物を変化させる、っていうのは、蟻を巨大化させたりとかそういう感じですか?」
「そうだね。あとは植物もそうだよ。霧がエネルギーをたくさんもっているから、それさえ吸収すれば生きていけるようになって、葉緑体を失ったんだ。よく見ればあの植物たちは枝があっても葉っぱはないだろう?必要ないから退化したんだね」
老人の言う通りであることに、和哉はたった今気づいた。
「この霧は、例えば人間であれば、肺から血液に入り全身に回る。そうしてその粒子は体の組織と結合するんだ。この粒子は保持するエネルギーによって、分子同士の結びつきを強くしたりも出来る。結果的に体は頑丈になる。食べ物を摂取しなくてもエネルギーはあふれるほどあるから、体も大きく出来る。蟻が巨大化したかもしれない、っていうのはそういうことだね。ちなみに君が吐血したのは、粒子が君の肺の毛細血管を傷つけたからだけど、すぐ馴染んでくるよ」
「その粒子っていうのは無害なんですか?」
そこが一番気になるところだったので、和哉は老人の話を遮って質問した。
「そこを話さないとね。さっき取り込んだ粒子は組織と結合する、って言ったけど、それ以上に粒子が入ってきた場合とかにはエネルギー量が多すぎて脳みそが耐えきれなくなっちゃうんだよ」
「死ぬってことですか?」
「いや、脳の記憶を司る部分や、理性を司る部分が壊れちゃうんだよ。多少はのこっているけどね。そして残るのは本能で動く化け物なんだ。彼らはこの粒子を摂取すると脳内麻薬が分泌されるらしくてね、簡単に言えば粒子依存症になっているんだ。霧からも摂取できるから霧が出ている間は彼らは大人しいけど、霧が晴れて1、2時間もすると禁断症状に襲われて、手当たり次第に植物や生き物を喰らい始める」
「植物とかからもその粒子を摂取出来るってことですか?」
老人は頷くと、街の一角を指差した。指先を目で追っていくと、2mほどある灰色の人間がいることに気が付いた。肌は白っぽく、爪は鋭い。思ったより筋肉はないように見えるな、と和哉は思った。
「見た目と力は比例しないんだ。筋肉の伸び縮みに粒子のエネルギーが上乗せされるわけだから、細くても彼らは強いんだ。彼らのことは灰人と読んでいるよ。廃人とかけたのかな?」
和哉の口から乾いた笑いが漏れた。