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第三章 ポケットにライを 2 ライの町で

2 ライの町で


 十代も後半となり、年長の相棒といっしょに過ごしていて、たとえばコアジサシのような野鳥の卵を食べるという気持ちはすっかりなくなってしまった。キャンバーのノース・ポイント・ビーチにあるコアジサシの巣を片目で見守り、ヒナがリングをつけられるような大きさに育つまではそっとしておいた。それは、同世代の少年たちもまた卵あさりをやめた時期でもあった。この大きくて古い砂利の堆積場は、戦後になるとほとんど完全に採掘され、巨大で不毛に近い状態の湖を残すのみになった。そのため、もともとごくわずかしかいなかったコアジサシの生息地は更に狭まり、まもなくこの鳥は、イギリスで繁殖する海鳥としてはもっとも稀な種類のひとつになってしまったのだ。

 ライ・ハーバーのラザー川の対岸では、一九二〇年代から一九三〇年代にかけて、繁殖地での人間の妨害をずっとまぬがれていた幸運なアジサシのコロニーがあった。ここは昔の砂利採取によって深い湖ができており、中央には不必要な材質の砂利が積まれて、いくつかの島になっていた。そこでアジサシがたいへん具合よく繁殖していた。六月初めは水が冷たいので、ボートはまだ出ていなかった。採取孔の持ち主によって、私たちが島に行くことははっきりと拒絶されていたので、リングをつけたくてたまらなかったが、私たちの手すらヒナから遠ざけられていた。こうした繁殖環境は安全だという事実は、ある夢をよびおこした。この鳥たちは、広い水面という障壁に守られて安全にすごしている。では、何ゆえにこうした場所を作ってやろうとしないのか。ただしこれは、熟達した泳ぎ手であるキツネたちが沼沢地という環境に侵入してくるよりも、はるかに以前のことだった。

 

 ツバメの標識つけはお手のものだ。たいていの農場では、納屋に入ってもよいと許しが出たし、働いている人たちは面白がって、けっこう大目に見てくれた。ただし、特別な注意が必要だった。誰でもツバメが好きだったし、壁につけられた泥の巣は落ちやすいから、落としでもしたらたいへんだ。次の季節になると、農場の誰かがリングのついたツバメが電線や屋根に止まっているのを見つける。その鳥が冬の間、九〇〇〇キロも離れた喜望峰のそばですごし、生まれた場所にまちがえずに戻ってきたと私たちは言うことができた。こうしたことがそれほどの離れ業だとは、もう思わなくなっていた。

 ツバメの標識つけに最良の場所はグリーン羊毛店だった。べドフォード・プレイスの私の家から道を渡ったところだ。羊の刈り込みの時期には、グリーンさんが毎週水曜ごとにカンタベリーからやってきて、羊毛を受け取っては手早く処理していた。グリーンさんは、高い倉庫の下の雨どいにつくられた巣に届くよう、はしごを使ってよいと言ってくれた。小さい子供のころからずっと、私たちはこの親切なおじさんと知り合いで、ラノリンでねばつくウールの大きなきっちりとした梱包の山の中で遊ばせてもらっていた。鉄道の駅まで荷馬車で運ばれるのを待つ梱包だ。

「きみ、鳥の卵と同じに切手も集めてるんじゃなかったかな」ある日、グリーンさんに聞かれた。「実は二階の物置のうしろにドアがあるのを見つけてな。小さい事務室になっていて、古い手紙の山があったんだよ。どれも、たいてい切手が貼ってある。茶色の、青いの、黒いのやなんかだ。来て見てみたくはないかい」

 そこには何百通もの手紙の束があった。色あせたピンクのリボンでくくられ、大半は紙を折りたたんだだけで、小さな赤い封緘紙でとめられていた。グリーンさんは窓をがっちりふさいでいた袋を引き裂いて、小さな窓から光が入るようにした。私たちはたくさんの束をひろげて、ほこりだらけの棚の上に封紙や封筒を積み上げた。日付を見たところ、一八三〇年から一八六五年に及んでいた。

 あらゆる切手収集家にとって、まるで夢のような光景だった。私はスタンリー・ギボンズのカタログを持っており、切手が最初に発行されたのは一八四〇年五月六日であることを知っていた。こうした切手の価値については若干の知識があり、おまけに純真な子供らしく、いたって正直でもあった。

「くーっ、あれは三〇シリングの値打ちがある!この青いのは一枚一ポンド!見て!(一ペニー黒切手)と(二ペンス青切手)がいっしょにあるじゃないの!」

 グリーンさんは、ほこりだらけになってしまった、と指摘し、アシュフォード行きの汽車に乗る前にきれいにしなければならないと言った。このたくさんの切手の分類は、来週やろうということになった。同じことを言わないような人が世の中にいるものだろうか。

 次にグリーンさんに会えるまで、長い長い三週間が過ぎた。彼は、事務室に上がって自分で切手を探してよいと言ってくれた。部屋に入ってひと目見た時に味わった失望は、あの黒切手と青切手が封筒から切り抜かれ、あとにあざ笑うような穴が残されていなければ、もう少し小さくて済んだかもしれない。切手収集家にとっては、こうしたすばらしい紙片は傷めずにそのまま、そっくりとっておくべきものだ、とグリーンさんに言う必要があるなどとは、考える元気すらなくなっていた。それでもグリーンさんは、一八四〇年発行の切手をいくつか、切手が使われる前の送達用カバー、孔線のないたくさんの一ペニー赤切手、そしてもっと後に発行された切手を何点もとっておいてくれた。小さな男の子に対するものとしては、並々ならぬ親切と言えるだろう。

 

 ライで育ち、フィールドでも職場でも親友のロンと一緒に過ごせて、これぞ単純明快、すばらしい、完全なる生活というものだった。鳥に興味を持っていたのが私たち二人だけだったことも、いっそう絆を強めたのだろう。ものを書く時間が持てたこともよい刺激になった。ほとんどは、窓口業務の間の静かな時間に郵便局の用紙の裏に書き留めておき、家に帰ってからタイプしたものだ。タイプライターはキイの頭がドラムのような形で、指ざわりが重たい旧式のブリッケンズダーファーだった。十八歳の時から始めたことだが、私は郵便局の歴史、鳥、サイクリング、ロマンスなどの記事を書いては、一千語につき一ギニーという原稿料をもらっていた。

 ライ在住の高名な文学者が身近に暮らしていたことも、インスピレーションのもとだった。ヘンリー・ジェイムズはかつてラム・ハウスに住んでいた。玉石舗装の教会通りからおそろしく高い塀で隠され、秘密の花園を備えた愛すべき古い建物は、当時はF・ベンソンが所有していた。ライの町とそこで暮らす人々を描いたこの人は、一時町長をつとめたこともある。作品がすぐれたものであるだけでなく、一〇歳の時に卵コレクションをしていたという事実から、私の尊敬の念はいやが上にも高まったものだ。マーメイド街の私の昔の学校のそばにあるジークス・ハウスには、アメリカの詩人、コンラッド・エイキンが住んでいた。ただし、この人の詩は私の理解を越えるものだった。

 郵便局の窓口という仕事がら、この二人の作家と同じく、マーゲリータ・ラドクリフ・ホールと顔を合わす機会も多かった。彼女の「孤独の泉」は一九二八年に発表され、ライに衝撃を与えた。彼女―ジョンーは、いつも男性らしさを誇張したようなスーツに身をかため、一方愛人であるユーナーレディ・トラウブリッジは、片眼鏡をかけているにもかかわらず、たいへん女性的ないでたちだった。二人はライでくつろぐ時にはイースト・クリフに向かうハイ・ストリートに沿った「ブラック・ボーイ」に滞在していて、よく大きな封筒をたくさん持ってきては、私に重さをはからせた。

 窓口業務の私の同僚は、いつも二人の未婚婦人だった。私が悪評高いこのお得意さんたちのお相手をしている間、二人は郵便為替の仕切り板のうしろから余念なくじろじろ見つめては、ひそひそとささやき合うのだった。私はレズビアンのことを知るには若すぎた・・・・本当かな?かの「わいせつな」本を読んだことがなく、書店でも公共図書館でも見かけなかった。入手計画はおぼろげでいいかげんだったが、さして間もないうちに一冊手に入れることができた。しかし、私にはこの本は深遠すぎていっこうに興味がわかず、通俗本のデーモン・ラニアンのほうがよほど面白かった。

 ミス・ホールは一九三六年に「第六の至福」を出版した。これは熱心に待ち望まれたもので、はるかに入手しやすく、ライの人々も片隅に隠れてこそこそささやきあったりはしなかった。自分たちの貧しさ、生々しい愛すべき生活を描いた単純な物語は、実のところ「醜さに慣れきって、決してそれを意識しない」とまで酷評された住民に認められすぎたほどだと思う。二度にわたる世界大戦の間の不毛なこの時期、ライの人々の多くは確かにみすぼらしい服装をしていたし、誇り高い貧乏人は、その生き方をどこにも隠そうとはしなかった。

 ラドクリフ・ホールの最も後期の著作で、この人がわずかにせよ、バードウォッチャーの側面を持っていたことを発見したのは、うれしい驚きだった。私たちの町の小道を歩いて下りながら、鳥を見て耳を傾け、卑しい環境の中のさえずりに優雅さを見出した。想像力豊かなこの作家がバックステップロウ(彼女はクロフツ・レーンと呼んだ)の極貧の人々の生活から受けた衝撃を印象的に述べている中で、似つかわしくない環境にナイチンゲールが来て歌うくだりを読んで、好意に近いものすら感じた。

「泉からほとばしる水のように純粋に、リンゴの木の枝に小さく目立たない体をひそませ、小鳥は調べをほとばしらせた。泉からほとばしる水のように純粋に、小鳥の歌はクロフツ・レーンをはしり、あふれ、くだる。かたい玉石の間の拒否、干し物綱で揺れる洗濯物の同情」

 彼女の小説のヒロイン、ハンナ・ビューロックと、バルト海の船乗りとの間にできた私生児の一人に、ナイチンゲールの歌は惜しげもなく浴びせられる。「アーミーは興奮してスキップした。生きてきた七年間という短い間で、これが初めて聞いたナイチンゲールの声だったからだ。」ただし、これは想像力の行き過ぎというもので、バークレイ・スクエアでナイチンゲールが歌うのは不可能だった。私はそこにいたので、よくわかる。

 

 ロナルド・ウィリアムズと私がガールフレンドといっしょに歩くようになる前は、あいた時間とエネルギーのすべては鳥に関した活動に費やされていた。自転車はほとんど身体の一部になりきっていて、ライから半径五〇キロ以内の道という道、鳥という鳥を私たちは知り尽くしていた。週末にはもっと遠出をすることもしばしばあった。テントは持たず、また奇妙なプライドから、眠るための用意というものをほとんどしなかった。浮浪者のように生け垣の下に新聞を敷いて、何時間か横になるのがせいぜいだった。

 ハヤブサを見にビーチイ・ヘッドに遠出をした時などは、おたがいに片足を自転車にかけて引き止めながら眠った。この時は半分眠りながら、高さ一五〇メートルのチョークの崖の端まで出てしまったものだ。ダンジネスの北端にあるレイドの浜は、当時まだ砂利の砂漠のような場所だった。ここで短い夜の時間、石の上でふるえながら日の出を待っていたこともある。ネスのパブ「パイロット」で、シロチドリがまた見られたらしいといううわさを聞いたためだ。当時、シロチドリを見るためにそんなことをした人は誰もいなかった。

 十七歳の年の初夏、私はウェールズと中部地域にひとりで自転車旅行に出かけた。たいへん経済的なサイクリスト・ツーリング・クラブの宿で、そこの奥さんがたのお世話になっての旅行だった。ケーフィリーの炭鉱町で泊まったところは、今までに宿泊費として支払った料金の中で最低の金額で、夕食・朝食・ベッド込みでわずか二シリング六ペンス、そしてえらく感謝されたチップとしての六ペンスだけだった。ウェールズの岩の峡谷では、アカトビこそ見そこねたが、ハヤブサ、ノスリ、キセキレイ、ムナジロカワガラス、クビワツグミなど、ロムニー・マーシュやサセックス東部のなだらかな丘陵地帯ではまず見られないか、ごく稀にしかいない種類の鳥を数多く見ることができた。ロンも私も、自分のホームグランド以外でほかのバードウォッチャーに出会ったことは一度としてなかった。

 私たちの生活は本質的にDIY(自分で作り出す)で、ささやかな成果からもスリルと満足感を味わうことができた。無から有を作り出すことはできないというが、田園にはただで手に入るものがたっぷりある。幸せな青春の時間は、同時に悪しき時代のただ中でもあった。しかし記憶とは、聖職者の考えと同じく、ほんとうに奇妙に選択的なものだ。最悪の記憶を抑圧するということは、生存する上でのメカニズムの一部に違いない。一九三六年の大不況の時期、公僕であれば当然味わったはずのつらさを感じた記憶はほとんどない。公務員は国家を助けるために減給された。みな郵便局の職員組合のメンバーであったにもかかわらず、ストライキをしようという考えなどはまるでわかなかった。



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