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第三章 ポケットにライを 1 標識調査の冒険

   第三章 ポケットにライを


1 標識調査の冒険


 イギリス郵政省で働くようになり、やがてライの小さな町から「シティ」にある郵政省本部に出たことは、公益への奉仕という誇りにつながった。この誇りは長く続くもので、バードウォッチャーに奉仕するという私の第二の職にも影響を与えている。

 一九三〇年代には、イギリスの郵政事業は信頼のおける、必要にして欠くべからざる事業として、三百年間にわたる歴史にどっしりと錨を下ろし、技術の新機軸を開いて世界をリードしていた。当時は一ペンス半の料金で、はるか遠くまで手を広げたわが大英帝国のいかなる隅々であっても、航空便による「すべての」サービスが受けられた。大型の旧式なヘンジスト機、ホルサ機といったイギリス郵便の複葉機が、クロイドン空港から飛び立ち、世界をめざしてブルブルとライの上空を通過して海へ出てゆく光景を見るのは、ぞくぞくするようなことだった。サザンプトンでは水上飛行機を見たが、これは一週間にわたる長い飛行を経て、ケープタウンに向かうものだった。

 想像力豊かな十代の時期だったにもかかわらず、飛行機が行くはるかに遠い場所を自分の目でじっさいに見る日がくるなどとは、夢にも思っていなかった。たとえば一九六九年に出かけたアルバート湖で、停泊地として利用されているコンクリートの小屋と埠頭などである。レジ―・グレンフェルが、東アフリカのバードマンとして第一人者であるジョン・ウィリアムズといっしょに、私をウガンダとケニヤへの旅行に連れて行ってくれたのだ。

 ライの町で私をのぞく唯一のバードウォッチャーであったロナルド(ロン)・ウィリアムズは、郵便局の同僚でもあった。いっしょに学んできた草の根鳥学が、こうした旅行、そしてもっと遠い地域を含めた数多くの場所へ行くときの私の資格証明書になろうなどとは、夢にも思っていなかった。そしてまた、郵便局の窓口のおとくいの一人と恋におち、金婚式の記念に、サマルカンドの黄金の道へのバードウォッチングに出かけることになるとも、むろん、夢にも思わなかった。当時の私たちのささやかな世界では、野外で、人にわずらわされず情熱をもって鳥を学ぶ時間を持つことができるだけで、十分に満足だった。

 ロンは自己流で技術を身につけたリンガー(標識調査者)で、私が十四歳の時から標識調査のやり方を教えてくれた。春から夏のはじめにかけては、リングをつけるのにちょうどよいヒナが育つ時期で、成長した鳥を罠で捕るよりもはるかに楽にリングつけができるので、一年でいちばんいそがしい時期だった。二人の協力、また餌運びを見つけたらさいご、どんな鳥であっても巣を発見せずにはおかないという根性で、私たちは一年に一〇〇〇羽に達する鳥にリングをつけることができた。これは当時としてはたいへん多い数で、その時イギリスのリンガーで達成できたのは、他には四人しかいない。

 大規模な標識調査ははじまったばかりで、データも乏しく、あらゆる種類に可能な限り数多くのリングをつけるのは大切なことだった。普通種の回収例が多くなりすぎて、イギリス鳥学会の標識調査本部がホシムクドリやその他の庭にくる鳥たちにかってに標識をつけるのを止めるようになるのは、まだまだ先のことである。一九二〇年代と一九三〇年代には科学はまだ新鮮で、リンガーもわずかしかおらず、捕獲技術も進歩していなかった。鳥の渡り、形態、寿命に関する知見をふやすため、あらゆる回収報告や、鳥を実際に手にもってみることは、たいへん重要だった。

 有益な目的のために巣を見つけたり、わなを作ったりすることは、私やロンのような田園育ちの友人どうしにとっては、まさに完璧な楽しみだった。それでも私たちは標識調査をたいへんまじめなものとして受け止めており、買ったり工夫したりして、おびただしい発明品をこしらえた。落とし戸つきのポッター・トラップ、ひもをひく仕掛け罠などを庭におき、半月型のバネ付き網、無双網、コウモリおとしなどを町のゴミ捨て場や穀類を積んだ山といった餌のある場所にしかけた。生け垣や畑にはたくさん鳥がいたし、今にくらべると、刈り株が残る畑ややぶが茂った生け垣もずっと多かったので、鳥をつかまえるチャンスには恵まれていた。

 九月の農場で、高く煙突を突き出した蒸気牽引エンジンが地面を振動させ、蒸気と煙を吐き出しながら、大きな古い脱穀機へと作物をベルトに乗せて送り込んでいるようなところは、穀類を食べる鳥にとってはすばらしい場所だ。イエスズメにまじって、ズアオアトリやキアオジ、スズメ、オオジュリンなどがたくさん来ていた。この鳥たちを捕ろうとしてあの手この手と工夫するのを、農場の人たちは面白がっていた。

 標識調査に対するアドバイスはまるで得られなかったし、リンガーが心得ているべき常識についても、私たちの経験した範囲はごく狭いものだった。そこで、私たちは鳥を捕るのにとりもちを使ってみた。ただ一回の苦い経験で、完璧にこりた。とりもちを塗った枝から一羽のズアオアトリをひきはがし、ねばねばしたもちをきれいにしようとしてうまく行かず、べたつく致命的なとりもちで、鳥をまるで漫画のようなありさまにしてしまったのだ。この恥を忘れることはできなかった。とりもちは一九二五年以来使用が禁止されていたにもかかわらず、戦後まで買うことができた。

 巣にいるヒナの正しいとらえ方も、経験によって学ばなくてはならなかった。小型の晩成性の小鳥のヒナは、ふ化後十二日ほど巣にとどまっている。巣立ち近くになると、巣に異変があった時、ヒナは巣からまるで「爆発」したように逃げ出す傾向がある。丈夫そうなヒナでいっぱいになった巣に、うずうずしたリンガーの指を伸ばすのは、実に誘惑的な瞬間である。しかし、最初の一羽にさわったとたん、ヒナたちは全部巣から飛び出して四散してしまい、イバラやイラクサ、丈の高い草の間からヒナを見つけ出すのはおそろしくむずかしいことになる。ヒナをうまくつかまえたとしても、巣に戻すのはもっとたいへんだ。いったいどうやって、このちっぽけな巣の中に、六羽ものムネアカヒワの子をきっちりおしこめばよいのだろうか。私たちは、いくつかの不慮の事故による犠牲者を出してしまった。こうした危険については、ブリティッシュ・バーズ誌が何回も警告を掲載している。自分たちのしでかした失敗から、私たちはすみやかに学んだ。

 

 ある日、ヒナのうちでも最大級のものから逆襲されたことがある。大木の梢の枝の間という高いところで、アオサギのヒナにリングをつけるというのは、私の知る限り、これまでの探検の中でももっとも神経をゆさぶられ、膝ががくがくするような経験である。ロンにとってはなんでもないことだったらしい。年長でもあったし、恐怖心というものをどこかに置き忘れて生まれてきたに違いない。私たちが軍隊に入る前のことだが、その時まで、私も自分では木登りができるものと信じていた。しかし、まるで悪魔にでもとりつかれたようなロンの卓越した技術には、とうてい釣り合うものではなかった。

 この時のささやかな遠出では、アオサギのコロニーはライの北西の丘陵地帯に何キロか入ったブロード・オーク村の下手、ブリード・バレーの中の丈高いオークの私有林にあった。到着すると、猟場番人に見つからないよう、まず自転車を隠した。そして、いちばん巣が多い木を選び、サイズ四のリングを通したひもを首にかけて、最初のしっかりした枝に届くまではお互いに助け合った。それから、めいめい高い樹冠をめざして上りはじめた。

 アオサギは、どう見ても不可能としか思えないようなあぶなっかしい場所に、さしわたし一・二メートルもある巣をかけている。巣の下にたどりつくと、おそるべきオーバーハングが待っているわけで、揺れるのでよけいにたいへんだ。ヒナが大きい時には、骨と皮のような姿をしてちっともかわいくない連中が巣のふちから見下ろし、骨折って近づいてくる人間の姿をおびえた黄色い目で見つめている。一羽をひっつかもうとしたまさにその時、ヒナは長くて巨大な嘴を開けた。そして私という敵の攻撃をかわすため、最後にもらった食事をげえっと吐き戻した。

 何が起こるかわかっていたので、私はひょいと頭を下げて前に進み、暖かくてねばねばした吐出物をシャツのカラーの下と、首の後ろの下方に浴びせられただけですんだ。しかし、背骨にこたえる衝撃で、不安定な足場から足指を踏みはずし、たっぷり二階分の小枝を折って、強い枝がうまく落下を食い止めてくれるまで滑り落ち、地面にころげ落ちた。

 ロンはいくぶんゆっくりと降りてきた。何が起きたか言おうにも、私は息もできないありさまだったが、シャツをぬいだ時に草の上に落ちた半分消化しかけのウナギやその他、神のみぞ知るようなわけのわからないものの残骸をロンは見た。そこで、二人とも大声を上げて笑いころげたので、アオサギのコロニーに隣り合っているミヤマガラスのコロニーから、ごうごうたる非難の声が巻き起こった。キジが何羽も森からロケットのように飛び立ち、けたたましく鳴いた。大急ぎで出発しなくてはならない。ここの猟場番人はいたって昔気質の人だったからだ。

 ベックリー・ファーニスをすぎて、ディングルズ・デン(小渓谷の穴)、スターヴクロウ(飢えたカラス)、エッグス・ホール(卵穴)、バーズ・キッチン(鳥の台所)―今ではなんと魔術的に見える地名だろうーなどを通り過ぎ、木陰が多い細道をたどる遠回りのルートをとってペダルを踏んだ。道は茂ったカウ・パセリ(Anthricus sylvestris)で狭められ、キンポウゲの花で輝くばかりだった。私たちはピース・マーシュ・プレイスの道路わきの池にたどりつき、草の中にばったり倒れこんだ。

「さて、わが息子よ、とびこみな」ロンはそう言うと、むぞうさにパイプに火をつけた。年長であることを意識して、ちょっとした危機に瀕した時など、ことさらにぶっきらぼうな言い方をするのが好きだった。私は服をかなぐり捨てて、汚れを落としてくれる泥と水の中にすべりこんだ。鴨たちが横柄な態度で泳ぎ去った。ロンは池のへりに生えていたラッシュをひとつかみとって、私の背中のほうをきれいにしてくれた。

 舗装されていない道の向こう側のニレの下で、陰になっているところに、岩の堆積を背にして大柄な男が座っていた。私たちは彼に気づかないでいたが、よく見慣れた人だった。年取ったクローチさんで、六〇センチほど離れたところに、ハーミテイジの石切り場からセルムズの蒸気牽引車で運ばれた花崗岩の塊が積んであった。左のももの皮の当てものの上に切り割りハンマーをのせて、ひと休みしているところだ。彼は頭をふりふり、道具袋から出したタバコに火をつけた。

「若い河童みてえなもんが、古いアヒル池で背中を洗っとるなあんてとこに出くわすとはなあ、なんたる驚きじゃ」彼はひとりごとを言った。この演説で彼は咳き込んで,痰を吐いた。この当時は、医者の忠告によれば、世間でよく知られてもいるように、喫煙は胸から痰を出すのによいと言われていたものだ。クローチさんは再び他の石を砕く骨折り仕事に戻った。翌日になると蒸気ローラーがやってきて、古びたいなか道の穴ぼこに石をつめて転圧し、プレイス・ハウスの車や、農夫の馬でひく荷車が通りやすくするはずだ。

 

 鳥に標識をつける私たちの活動には、ほとんどの場合、なにがしかの冒険がからんでいた。トム・ソーヤーならきっとリンガーになりたがったに違いない。かつて高名な鳥類画家のジョン・ジェイムズ・オーデュボンのために少年たちがやったように、鳥を捕らえて殺すことは地獄に落ちるべき所業である。オーデュボンはその鳥たちを描いたわけだが、「私たちの」鳥は放してやるのだから、実によい気分だ。

 ウィンチェルシーの上にそびえるストランド・ゲイトのがけ下の運河のアシ原には、ホシムクドリの大きな冬のねぐらがあった。このホシムクドリを捕獲しようとして、私たちは杖と漁網を使ったしかけを考案した。食用に雀をとるのに長いこと使われていた、昔ながらの「コウモリおとし」を改良したものだ。網で巨大な長方形の箱をこしらえ、端は底引き網のように「タラの尾」型に細くした。二本の棒をとりつけて、頭上に上げて支えるようになっている。最初に試してみるのは暗い夜のほうが都合がよいので、マーメイド街のロンの家で、月がほとんど沈むまで待機してから出発した。ストランド街まで玉石舗装の道をくだり、チリンガムの橋を渡ってガタガタと自転車を走らせた。しかし、ライの街路で真夜中の静寂をかき乱すのは合法的な行為ではなかった。ここはいまだに密輸業者の町であったのだ。

「あー、お若いウィリアムズ君とお若いアクセル君、夜のこんな時間に、わけのわからんしろものを持って、どこへ行こうというんだね」

 私たちは既に警察署での評判を落としていた。前の年の春、ライ・ヒルのスプリングフィールドのミヤマガラスのコロニーで、数が減っているというのに、ヒナに餌を運んでいる親鳥を撃ってコロニーを全滅させてしまうべきではないと訴えたからだ。当然のことながら、この慣習は農場主たちにたいへん好まれているもので、私たちの主張は賛成してはもらえなかった。

 おまわりさんとの遭遇の後、運河に到着した時には、夜は終わりに近づいていた。漆黒の闇の中、網を持って、最初の前進が始まった。ざわざわしているホシムクドリのねぐらの風上側をめざして、私はアシの中に手探りで方向をとった。ロンは反対の端を進み、水の中をこぎ歩いて鳥たちを驚かせた。鳥は微風にのって、アシ原すれすれに私の方へ動き出すはずだった。キャンバー・フィールドをくだったところのスティング・ボトルのアシ原で、小さいねぐらに踏み込んだことがあるので、鳥がどんな行動をとるかはわかっていた。この時は期待した半分もとれなかった

 パニックにおちいった何千羽ものホシムクドリが、暗闇の中から自分に向かって飛んでくるというのは、まさに悪夢そのものだ。殺到する空気のうねりが轟音となり、動揺した鳥たちの体が顔にぶつかった。鳥たちの翼には弱弱しさなどみじんもなく、嘴も爪も鋭く尖っているのだ。おまけに、両手は網を高く支えるためにふさがっている。たくさんの鳥が網に飛び込み、大収穫は確実と期待された。鳥たちが悲鳴を上げはじめた。絶望したホシムクドリの叫び声は、血を凝らせるようなぞっとするものだ。頭上や背後で罠に入った鳥が多くなり、網が急に重くなってきた。どんどん重さが増して、やがて耐えきれなくなり、とうとうアシと水の中に後ろにひっくり返ってしまった。泥は体をやわらかく受け止めてくれた。

 私たちはあくまでも科学に貢献していたのだ。それとも、あらかたは少年らしい冒険心のためだったのだろうか。

 バンもうまく捕ることができた。ロムニー・マーシュやキャンバー城のまわりにある数多くの掘割では、澄んだ水路が細長く伸びて、両岸は家畜が草を食べるので刈り込んだようになっていた。ラッシュのしげみから鳥を追い立てると、水に潜って泳ぎ去る時、掘割のへりに沿って泡が描く線をたどることができる。疲れきってしまい、それでもすぐ上の岸に人間がいるのを知っていると、バンは潜水したまま、嘴を水の上に出し、鼻孔が空気に届いて呼吸できるようにしている。ところがバンの嘴は鮮やかな赤で先端が黄色なので、すぐに所在がわかってしまう。こうしているバンをつり上げるのは簡単で、元気を回復する前にリングをつけることができた。気をとりなおしたバンはいきなり長い指をした足でひっかき、嘴でつつきまくるので、放す時にはほっとする。

 バンを食べる人は少なかったが、沼沢地で獲物を捕る人たちはよく食べた。ライの肉屋や沼地の村などで、このほっそりとした胸元の鳥が吊り下げられているのを見ることがあった。スープには最高だった。


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