第二章 六ペンスの歌をうたおう 3 卵集めの日々
3 卵集めの日々
鳥の卵は自分の手でさわって確かめられるものだったが、何年かたった後になっても、いくつかは種類を推定することしかできなかった。マーメイド街の男子校では、春になると時として卵のコレクションを教室に飾ってもよいと言われることがあった。低学年の小さな子たちは、靴の箱におがくずを敷いていた。もっと上の学年になると、木の平箱に綿を敷いたものを使った。春の到来を告げるのは、コップやつぼなどの雑多な容器に飾られた最初のキンポウゲでもあった。季節が夏へと進むにつれて、飾られる花はサクラソウ、セイヨウトチノキのねばねばするつぼみ、キツネノボタン、ヒナギク、ドッグローズと移り変わって行く。長い夏休みが過ぎるころには、卵はしまいこまれ、忘れられた。そして教室の飾りものはホップの束やハシバミの実、とげだらけの莢に入ったトチノキの実などにかわる。やがてカエデやオーク、カバなどの葉が黄色くなり、私たちの古めかしい町にはたいへん多かった古びた家々のくずれた壁は、ツタの燃えるような真紅の葉であでやかに彩られるのだった。玉石じたての街路は「丘を駆け上がり、駆け下りて」いた。
歌をうたうのは少しもお金がかからず、自分で作り出す大切な楽しみだ。家族が好んで歌うのは「昔ながらの町」で、祖父母やライの町をぴったりと表現していた。小さな円錐形の丘の上にひしめく赤い屋根の家々。ライは古きイングランドの典型だった。昔ながらのあらゆるライの住民は、そのことと町の歴史を誇りにしていて、自治都市の境界の外側で生まれた人々はじっさい「よそ者」と呼ばれた。毎年、私たちは町長といっしょにこの境界線を誇らしげに巡回してまわったものだ。
新しく町にやってきた人々の中には、画家や作家も多くいて、この古い「五港」の町に住む特権的な価値をよく知っていた。もともとのライの住民より、町の美点を保つために、ずっと注意を払っていたものだ。二度にわたる世界大戦の間の時期には、家の修理やペンキの塗り直し、前庭の花などにお金をかける余裕など、とてもなかった。
町で、私が住んでいたあたりの男の子ぜんぶーアラン・ビルスビー、ジム・ジャックホール、スティンキー・マシューズ、フランク・マシェット、ジョニー・スミス、サム・ウェラー、そして私―は卵コレクションをしていた。ライの町なかやまわりにある巣で、私たちが見つけていないものはほとんどなかった。みんなまだ体が小さかったことはたいへん有利な条件で、生け垣にもぐりこみ、葉の少ないやぶの中の枝にのぼって巣を探したり、体重が軽いため、もろい枝を伝って木にのぼることができた。私たちは、仲間うちの誰かがコレクションに必要としている時、ひとつの巣から卵をひとつだけとるというのをきまりにして守っていた。しかし、町の中でもライバルの地域の子が先に来ていたりすると問題が起こる。地面に残る足跡や、折れた小枝などの痕跡でそれと知れたものだ。私たちのなわばりにライバルの子が入り込み、帽子の前をゆるめて卵でふくらませているところを見つけようものなら、私たちは頭に一発くらわせて、卵の黄身が顔にたらたら流れるようにしてやるのだった。
卵ひとつ、というきまりは、バン、オオバン、マガモなどには適用しなかった。週末のキャンプで食べるため、ひと腹の卵をぜんぶとり、時には各種とりまぜて百個以上もの卵を集めたこともある。卵は何日もかけて産卵されるので、半分くらいには胚の「目」ができていることも多かった。有精卵であり、発生が始まっている最初のしるしだ。毎年のように私たちの略奪に会う場所に、わざわざ水鳥が巣を作るとは考えにくいのだが、それでも鳥たちは毎年同じ場所に巣を作った。たいていは、繁殖期のもっと後になって、私たちがスポーツに夢中になっているころに、産卵をやりなおしていた。
グリム兄弟は、「卵集めの商売は、子供時代の無垢な楽しみに最も近いものだ」と言ったのではなかったか。私たちも、できる時には卵集めを商売にした。春早く産卵されるタゲリの卵をとって、ランドゲイトの青物屋に一つ一ペンス半で売る。すると、店の人は卵をそのままかごに入れてウィンドウに飾り、「千鳥の卵、一つ四ペンス」と札をつけた。暴利だが、私たちはこの取引で納得していた。自分たちで卵を売ろうとして失敗していたからだ。知っているかぎりのおとなたちは、タゲリの卵だからといって、バンやオオバンの卵と大差がないのをよく知っていた。見栄をはってむだな散財をする人もいるという勉強にはなったが、身のまわりにはそうした人はいなかった。
卵あさりをよくやった場所のひとつはボウ・ウッドだった。イースト・ガルデフォードへ向かう線路が下ってきたところで、線路のために盛り土をしたあとの穴に水がたまった場所だ。縁どりの柳やアシは、何世代にもわたって小さな少年たちに弓や矢の材料を提供していた。へりの近くに生えたラッシュのしげみの中にある巣は、長い竿の先に結わえつけたお玉で卵をとることができる。しかし、これでは届かないところの卵―「お次の方どうぞ」と呼んでいたーをとるためには、着ているものを脱いでシャツ一枚になり、水の中をこいで行かなくてはならない。
無防備な裸でいることで、こんなにこわい思いをしたことはない。一ダースのバンの卵をゆりかごよろしくシャツの前にくるんで捧げ持ち、もものところまで来る水の中で泥に足をとられていた時、草へびが鎌首をきゅっと持ち上げたのを見かけた。へびはなんと、私の大事なところをめがけて、まっすぐに泳いでくるではないか。岸にいた少年たちはみんな金切り声を上げた。
私と二人の親友は、八歳の時にブレイドンのセント・ミカエル教会の聖歌隊に入った。ライ・ヒルをこえてすぐのところで、ピースマーシュへ向かう道にあった。春、おつとめや練習時間(一回につき一ペンス半だった)、時には結婚式やお葬式(一回につき一シリングだったが構うことはない。だって私たちがもらうのだから)が終わるやいなや、私たちは大急ぎで白い法衣を脱ぎ、白い硬いカラーやスナップでとめるネクタイを外した。たった今まで甘く澄んだ声で神様をたたえる賛美歌を歌っていた、天使のような三人のこどもたちは、墓石のまわりをこそこそと隠れて歩き、まるで墓どろぼうよろしく声をひそめてささやきながら、教区牧師さんに見つからないように、鳥の巣をさがしていた。教会のすみや割れ目はアマツバメやコクマルガラスの営巣場所になったし、共同墓地や牧師館の庭には年を経た木々があって、フクロウやチョウゲンボウ、ホシムクドリ、時には珍しいアリスイやシロビタイジョウビタキまでが木のうろに巣を作っていることがあった。こうした場所や、イチイなどの灌木の藪にみのる実はツグミ類の大好物で、鳥を見るには最上の環境だった。これらの何千か所もの教会は、現在ではそれぞれが愛すべき小さなサンクチュアリとなっている。今ではもう聖歌隊の少年たちが卵を集めなくなったため・・・・というわけではないだろうけれど。
卵のコレクションはよくないことだと少年たちに言う人はいなかった。女の子たちは決して巣荒らしには出かけなかった。私はおよそ七〇種類にのぼる鳥の卵を一個ずつ持っていた。そして卵コレクションによって、巣が隠されている場所、鳥の巣がどんな材料でできているか、卵がふ化するまでにどのくらいの日数がかかるか、赤裸でふ化したヒナは巣に何日くらいとどまっているか、卵殻から出るまでに長い時間がかかるが、ふ化して体が乾いたとたんに走って逃げることができるのはどの種類か、などというおびただしい知識を身につけていた。年がたつにつれて、双眼鏡も図鑑もないままに、私たちは鳥が生息する環境や、どのような生活をしているかを学んだ。こうした知識にはプライドや競争心もあった。特に飛んだところをちらっと見ただけで(識別点―ジズというスラングー行動や見た目の特徴をとらえて)、種類を見分けるような場合である。
春という季節は、一年で最もわくわくする時期だった。春はもちろんすばらしい季節だが、なんといっても鳥の巣さがしの楽しみがあったためだ。空っぽではありませんように、と願いながら、頭上の巣の中にそっと手を入れる時のうずくような感触。ただすべすべして滑らかというだけではない卵の表面の質感は、指先からひじへと電撃のように走るのだった。しかし、私にとってはたとえムネアカヒワの巣が空っぽであっても、ふちが糞の跡でだいぶ汚れていて、ヒナが無事に巣立ったことがわかれば、同じようにうれしかった。
夏の時間の大半はクリケットに費やされた。この世界で最も偉大なゲームを大いに楽しんだものだ。小さな町の小さな世界しか知らない少年たちではあったが、意識しないうちに大きな世界のスポーツマンシップのルールを身のうちにとりこんでいた。私たちはクリケット・ソルツで試合をした。わが家の庭の下にあるグランドでは、管理者のアルバート・ローズがやっているのと同じようにきっちりと、羊たちが草を刈りこんでいた。アルバートは見たところ、羊の黒いおとしものをレーキでかき集めるのに仕事時間のほとんどを費やしているようだった。かき集めたものは、木造のクラブハウスのすぐそばに、におい高い堆積にして積んであった。私はこの滋養になりそうなこやしを気前よくやりすぎて、戸外で作ったトマトをだめにしてしまった。知識を身につけるのは楽なことではない。
ある年、各州の代表チームによる大きな試合がライで行われたことがある。私たちはわれらのヒーローたる名選手のサインをたくさん集めた。テイト、デューリプスィンズィ、ラングリッジ、敵州のケントから来たウーリー、また遠いサリー州のジャック・ホッブズのものもあった。ホッブズはいつもにこやかで、まわりに群がる小さな少年たちにしんぼう強く接してくれた。ホッブズは国家のヒーローになる特権を得ても、早すぎるということは決してなかっただろう。大好きなスポーツにインスピレーションを与えてくれるような人だった。
伝説的な名選手である偉大な医師、W・G・グレイスのことは、一九一五年に心臓発作で亡くなったことを読んで知っているだけである。ツェッペリンの急襲があった年だ。私は自分の幸運を思い、母を誇りに思った。飛行船がライを爆撃した時、母は私たちをしっかりと守ってくれたのだった。
一年を通じて、学校のスポーツは最高のクラス担任兼チームマネージャーだったシドニー・オールナットによって運営されていた。先生の情熱にこたえて、私たちはホーヴで行われた州の決勝戦に一度ならず勝利をおさめた。ベックリーにゼロ敗を喫させたこともある。冬にはフットボールの試合でウェストフィールドを二〇対ゼロで打ち負かし、新聞にも何度も名がのることになった。
ラザー川のそばで暮らしていると、川の水温が上がるのなどとても待ってはいられない。最初の飛び込みをやるのは、たいてい四月のなかばだった。町からの排水を干潮時に流し出す排水管よりもいつも上手で泳ぐようにしていた。五歳か六歳の小さい子は、水泳の手ほどきのため、いやがるのも構わず手足を持ってぶら下げられ、勢いをつけて川に放り込まれる。ばちゃばちゃ水をはねかし、時には泣き出しながら、どうにかして犬かきで岸にたどりつくのだった。私はこうやって泳げるようになった。
私が見た二人目の死人はー父が一人目だったに違いないがー橋の下で溺れた少年のうちのひとりで、ひっかけかぎでわきの下をひっかけて、水から引き上げられた。
生と死について最初に教えてくれたのは、医者にかかったことのない私の四匹の猫たちである。私は母猫の妊娠を見、子猫たちの誕生を見守った。そして生まれた子猫を袋に入れ、母のアイロンを重石にして、バケツにつけて溺れさせるのは私の役目だった。こんな簡単なことに獣医の手を借りるわけには行かないのだ。
「母さん猫のために、二、三日は待ってやらないとね」母は言った。父親のいない家庭の家事について、実際的な責任は、ただ一人の男手である息子に早くからかかっていたのだ。
ある日、私はオールド・トムが庭のくぐり戸の下にのろのろとはいこむのを見てぞっとした。あと足が二本ともめちゃめちゃになり、胴体からほとんど切断されているではないか。隣人の鶏の放し飼い場にしかけられた罠のあぎとから、無理やり抜け出してきたのだ。私のほうに体をひきずってくると、小道の土ぼこりに血が染みたみぞのあとがついた。
小さな少年として、私は猫たちを愛し、優雅な軽やかさや身の処し方を讃えていた。犬はごきげんとりで、顔をなめたり、熱っぽい目つきで見つめたりして、いつでもそうぞうしく家族の仲間入りを待ち望んでいる。人間の愚かしい愛情をたやすくかちとる生きものだ。道を渡ったところには二頭の年取った荷馬車馬がいて、ライの駅へと羊毛の荷をひいていた。馬たちは物言わぬ奴隷として働き、威厳にみちたしんぼう強いジャイアントだった。しかし、かしこく、こっそり歩く猫は自分たちだけの楽しみを持っている。オールド・トムはなんでつかまるようなへまをしてしまったのだろうか。私の最高の友だち。私はトムを悲惨な状況から救ってやらなくてはならなかった。それも今、すぐに。ひとつしか方法はなかった。
細められたトムの黄緑色の目には、私の涙に対する感謝の色が見えたような気がする。私は頭をそむけ、斧をふりおろした。一撃で首を切り落とせるほど、私は強くなかった。恐怖に逆上した力をふりしぼり、私はまた斧をふるった。二度、三度、四度。
黒と褐色のレトリーバーがいたことがある。いつも笑っているような口もとをしていて、大きな前足を私の肩にかけるのが大好きだった。彼はモーターバイクが嫌いで、バイクがくると追いかけた。そこで、公平じゃない、という私の抗議もむなしく、永久に黙らせられることになった。
心が張り裂けそうになるこういう時、満足してのどをごろごろ鳴らしている猫たちのところに慰めを求めに行ったものだ。成長するにつれて、唇をかんでこらえなくてはならないことも出てくる。いったい誰のために悲しんでいるの、自己憐憫はみっともない、と言われた。
こうした経験のすべてが、同情をともなった実際主義という性格を育てた。何年も後になって、イギリス鳥類保護協会の保護区で、捕食者と獲物とのくずれたバランスを正すため、私は何度となく生きものを殺す必要にせまられた。こんな時、あらかじめ条件づけができていたことを、むしろありがたく思ったものだ。