第二章 六ペンスの歌をうたおう 2 男たちの仕事
2 男たちの仕事
大きくなったらやらせてもらえるはずで、それがいつになるか、ぞくぞくしながら期待していることがいつでも何かしらあった。キャンバー・サンズの沖では、何人かの頑丈なライの男たちが、厚ぼったい防寒服を着て、たいていはぺしゃんこにつぶれた山高帽をかぶり、「やかん網」を仕掛けていた。九〇メートルもの長さ、高さは三・六メートルにも及ぶ漁網は、さおにつけて仕掛けられるが、サバやニシンといった魚の群れを「やかん」または「バイス」の部分に導くためのものだ。これは深みの端にしかけられた巨大な輪型の網である。潮がひくと、馬と荷車が網を立ち上げるため、そして獲物を陸揚げするために使われる。網は着々とすみやかに海底から引き上げられるが、作業の大半は背骨をいためるような重労働の網曳きである。
まだとても小さかったころから、私はこの作業を見に連れて行ってもらっていた。こうした大変な労働を見るのはものすごく興奮することだった。男たちはゴムびきの布でできたももまでくる長靴をはいていた。重たい装備は、冷たい海水をよけるためだけではなく、ミシマオコゼのとげに刺されないためでもあった。この底意地の悪い小魚の背びれとえらのまわりには毒とげがある。潮がひいてきて、網の魚がはいる部分が見えてきた時、水銀のようにかたまりあった魚群の中に、この魚が投げ矢のように突進してゆくのがよく見られた。潮が低くて私でも水に入れるような時、「やかん」の中に入って、魚がくるったように泳ぎまわっている中を歩いて行くと、「やかん」は巨大な大釜のように魚で沸き立ち、自分が巨人になったような気がしたものだ。私は息が止まりそうなほど興奮して、水が長靴をこえて、むきだしのひざまで来ているのに気づきもしなかった。
「ちゃんと見ねえな、ぼうず。毒オコジェっこがいるんだからよ」
注意されても、ぴりぴりするようなスリルが増しただけだった。まさに、みごとな魚の大やかんである。
この光景はもう過去のものになった。ライやリッドの歴史の一部で、フレイシー家、サザーデン家、タート家や他の漁師は、ダンジネスのどちらの岸でもこうした網漁をやっていた。たちの悪いミシマオコゼのとげにここで初めて刺されて、子供っぽいももを横切るミミズばれができて、おそろしく痛かったことも、長く記憶に残った。
時にはあまりにも漁獲量が多くて、ロンドンのビリングスゲイトや地方の市場でも買い上げきれないようなこともあった。めったにないことだが、余った魚が引き潮時に川に捨てられて、ひどい悪臭を放っているのを見たこともある。どこからともなくおびただしいカモメたちが集まってきて、この大盤ぶるまいに金切り声を上げて飛びまわっていた。誰の利益になるはずもないが、私には、この光景がいくらかの損害賠償になるような気がした。
魚がとれすぎると、まず手押し車に魚を乗せて、ライの町なかを売り歩く。ニシンやサバが、百尾でわずか一シリングという安さになる。しかし、いくら安くてたくさん買えたとしても、今日明日で食べきれない魚は保存しようがなかった。
ちょうどよい時期には、売れ残った魚を農夫が荷車一台分一〇シリングでひきとり、畑に運んですきこみ、こやしにすることができた。私は四〇年たってからこのことを思い出した。そして、サフォーク州北部のミンズメア保護区で、造成したシギの誘致池の泥を肥やすために、隣接するサイズウェルの原子力発電所の水冷設備の格子にひっかかった魚や海のくずものを埋めて使った。
つらい労働でようやく手にした漁獲がむだになってしまうようなこうした事態を、ライの漁師たちは哲学的に受け止めていた。何百というニシンが裏庭のちいさないぶし小屋で燻製にされ、「ハング(吊るし)」と呼ばれた。銀色に光るニシンが長い黒い木の竿に列をなして、えらのところで吊るされ、床でくすぶっている木灰の煙の中で、かりかりした金色の燻製に変わって行く様子には、目を見張った。おがくずはストランド付近の造船所からきたものだ。そこでは汗みずくになった男たちが二人ずつ組んで木挽き穴に入り、巨大なオークの幹をひいて、ゆっくりと厚板にかえていた。
祖父、エドウィン・ローズは私の英雄だった。祖父は約束を必ず守ったし、何ごとをするにも、私たちきょうだいを仲間に入れてくれた。ほおひげを生やし、風雨に鍛え抜かれた顔にいつも歓迎の微笑をたたえ、満足しきっていないことなど、決してないように見えた。祖母のサリーは優しい顔をして、くじらひげのコルセットでウェストをきゅっと締め上げた、まっすぐな心の人だった。家庭内の責任の大半は、疑いなく祖母が負っていた。そしてヴィクトリア朝の信条にしたがって、しょっちゅう小言を言っていた。エドウィンは私たちのいたずらを止めようとはしなかったし、父をなくした子供である私たちは、舌による鞭で正しくしつける必要があったからだ。
家族はみなメソジスト派だった。母はメソジスト派を創始したジョン・ウェスレーその人が十八世紀に時折説教をした場所のすぐそばのメソジスト派教会でいつも歌っていた。ウェスレーはライの市民をよき聴衆と考えていたが、一七七三年には日記にこう記している。「いつの日か、彼らがかの呪われた所業、密輸と手を切る日がくることがあるのだろうか」
質朴な外観のウェスレーの礼拝堂は、英仏海峡を見下ろす位置にあるガン・ガーデンの近く、玉石舗装の街路にある。海岸線はこの後に二・五キロも沖合に後退してしまったが、この場所と、ワッチベル街の反対側の端にある「見張り場」では、昼夜兼行の見張り番がおかれ、フランスやフランダースからの侵入に備えていた。とりわけ、スペインの無敵艦隊の全盛期は不安な時期だった。
私のふるさとの町は、この一千年間の大半にわたって、侵略による被害をこうむっている。アングロサクソン時代にイギリス南東部の「五港」のひとつに新たに加えられ、王様の船を用意するという特権を得るに値するだけのことはじゅうぶんにあった。昔ながらのライの人々の伝統は、堅固な防衛、手厳しい報復であり、独立独歩の考え方をする傾向があった。
「ああ、そりゃあ、紙に書いた上では結構なものだろうよ。でも、そうは行かんさ。できやせんよ」と、祖父はよく言ったものだ。子供らしく腕白だった私たちは、これと、「サセックスは負けやせんよ」という祖父の口ぐせをよくまねた。
ランドゲイト広場一番地の祖父の古い家の階段には、「密輸人の穴」があった。祖父は決してそのことを話そうとはしなかったが、ライ湾で二重底になったボートを出し、精出して稼ぎまくる尊敬すべき「自由貿易者」についての物語は、私たちの想像力に火をつけた。上陸すると、彼らは密輸監視官に馬や徒歩で追跡され、砂丘の間で灯火のトリックを用いるのだった。ロムニー・マーシュ産の羊毛は世界最良で、莫大な価値を持っている。この羊毛は闇にまぎれて「アウラ―(フクロウ団)」の手で運び出され、ブランディ、たばこ、絹などと交換された。「のろまの」エセルレッド王(九七八~一〇一六年)は輸入されるワインに最初に課税した王様だが、エドワード三世(一三二七~一三七七年)は国外に出る羊毛に対しても税を課して、ものごとを更に悪くした。この二人こそ、世の「自由貿易」について答えるべき義務がある。ダイムチャーチ付近における冒険物語、ドクター・シンの活躍の場面は、決して本の中の絵そらごとだけではなかったことは疑いない。
私が十分遠くまで歩けるようになると、すぐ、祖父はロムニー・マーシュの大きな水路で釣りをするのにいつも連れて行ってくれた。特別に大きなウナギがとれた時など、喜んで騒いだりすると、祖父は無口な釣りの達人らしく、厳格な顔つきで私をじっと見るのだった。時々、祖父は唇に指を当てて私を静かにさせ、見るべき方角を頭でさし示す。すると、水面に垂れている柳の枝に、これこそ第一級の漁師であるカワセミが微動もせずに止まっていた。せわしないツメナガセキレイが嘴いっぱいに水辺の昆虫をくわえていることもあった。
海の近くでラザー川に流れ込む大きな放水路、ブロードウォーターで釣りをしている時に見たものの中で、何よりみごとだったのはコアジサシだった。私たちが「白い海つばめ」とよんでいた海鳥(アジサシ類)の中ではいちばん小型の種類で、そのころは名前を知らなかったため、とびこみ蜘蛛と呼んでいた。コアジサシは掘割に沿ってすぐそばを飛びすぎ、すばやくはばたいてホバリング(空中停飛)し、ほんの数ヤード先の獲物にねらいをつけたかと思うと、水を切り裂くように垂直に飛び込み、小魚か小エビをくわえてまた水から舞い上がる。その間、私たちは敬意を表して静かに立ちつくしていた。
コアジサシの小さなコロニーは、キャンバーへ向かう「トラム」の線路が横切っている広い砂利場にあった。また、ライ・ハーバーで川を渡った対岸の砂利場でも少数が繁殖していた。当時、こうした鳥はごくありふれた種類だった。四〇年後、戦争が終わって静かになった浜辺に平和を求めて繰り出してきた人々に追われて、コアジサシはイギリスで繁殖する海鳥のうち、二番目に稀な種類になってしまったのだけれど。
私たち、ライに住む当時の少年たちも、何の自覚もないまま、この種の消滅へと手を貸していた。コアジサシの卵は巣がある場所の小石とそっくりだったので、卵を見つけるのは腕だめしのようなものだったし、フライにするにも手頃な大きさだった。私が食べた野鳥の卵としては、コアジサシも最初のもののひとつだったと思う。
母の「息子を新鮮な田園の空気にあてる」ための活動の中でも、とりわけスリルに富んだものがあった。ライ・ハーバーの砕石工場から砕いた砂利を積んで、ゆっくりと川をさかのぼり、ニューエンデンの埠頭へと運ぶ平底船がある。これに乗せてもらって、ラザー・バレーの奥へと一四キロの船旅をすることだった。私が初めて家を離れて寝たのは五歳で、こうした船に乗った時だった。巨大でまっ黒なモーターのない船で、防腐用のタールが全体に厚ぼったく塗られていた。私の寝床は船尾にある小さな整理棚だったが、耳は船壁から二〇センチと離れていなかった。風に運ばれて船体にぶちあたり、板を突き抜けて入ろうとしている波音のやかましさ。なかなか寝つけるものではない。船は古い砂岩の崖下にあるスター・ロック(堰)のところに停泊していた。二人の乗組員は上陸してパブに行ってしまった。ライっ子は一人で放っておかれても、心配はいらないと思われていたのだ。
アイデン・ロック(堰)沿いに船が滑るように進んでいる時の日中の眺めはぞくぞくするようなものだった。喫水線の低い平底船からは両岸が高く迫って見える。ここはロイヤル・ミリタリー・カナル(英国軍運河)で、ロムニー・マーシュの背後をジグザグに巡っているところだ。止水域にクリケット・ピッチ(約二二メートル)ほどの幅の水路を切り開き、堰堤をめぐらしたもので、銃器の縦射のために四五〇メートルごとに曲がり角がつけられている。一八〇四年、ナポレオンの侵略に備え、軍隊がすみやかに展開するために作られたもので、もっと昔、海岸に緊急に築かれた一連のマーテロ・タワーや、ヘンリー八世のキャンバー城といった防衛網を補強するための賢明な策だった。アシ、ラッシュ、黄色い花をつけるキショウブにふちどられた運河の北側は、何千本ものニレが境界をなして、サンザシの上に高くそびえていた。これもまた、軍隊の動きや騎馬の砲兵隊を隠すために植えられたものだった。
私の子供時代には、この運河は二〇キロもの間、攪乱されることもなく、様々な鳥たちのすばらしい生息場所になっていた。この場所ではアリスイまで記録されている。近縁で、もっと色鮮やかだが同じくトカゲのような舌をもつキツツキ類も三種類ぜんぶの記録がある。カワセミやキセキレイといった派手な色をした鳥たちも、ストーン・カム・エボニーやアプルドア、ハム・ストリートなどの橋の下をかすめて飛んだ。このあたりは、週末のキャンプで食べるため、よくバンやオオバンの卵を集めにきたところだ。また、いちばん高くて細い枝先にあるミヤマガラスの巣のところまでよじのぼって、恐怖を克服する場でもあった。
どうしてか、理由を思い出せずにいるのだが、私たちはミヤマガラスやハシボソガラス、古木の低いところのうろに巣をつくるコクマルガラスなどの卵を食べるのだけは恐れていたものだ。何故だったのだろう。
こうした楽園のような場所の自然は永久不滅のものと私たちは信じていた。大きなニレの老木は、じっさい記憶に残ってもいない大昔からのものだ。オランダニレが枯死した例など、聞いたこともない。愛すべきこの土地のロマンチックな歴史については、おぼろげにしか知らなかった。土地が隆起する前、海が肥沃なロムに―・マーシュを残して後退して行く前に、アルフレッド大王がイギリス最初の海軍をこの地で設立したのであった。現在では森はなだらかな丘陵の背景として点在しているだけだが、往時には広大にひろがり、「オークの壁」と呼ばれていた。この森で船が建造された。「大波が岸辺を洗い、低き宿りからヒバリ舞い立つところ」こそこの地である。夏、そして冬、シェリーがうたった詩の精神が、私の偉大な遊び場の根底に流れていた。
川ですごした最初の夕方、平底船は上げ潮にのってほとんど竿を使う必要もなく川をさかのぼっていた。新しい経験がぎっしりつまった旅だった。ケントのウィールドの丘陵地帯から流れてくる真水が上げ潮の海水とまじりあい、ボラがまるでサケのようにはねた。大きな魚が一匹、足もとの甲板にとびこみ、砕石のかごの中で口をパクパクさせて横たわっていた。私は魚をつかまえて川に戻してやった。「こらっ、ぼうず」船員に言われた。「今夜のおまえの晩御飯になるはずだったんだぞ」
川面を縦横に飛びめぐっている「海のつばめ」たちがいた。もっと下流の海に近い掘割で魚をとっている、小さくて嘴が黄色いのよりもずっと大きい鳥だ。先端が黒い赤い嘴をしていて、同じように人をこわがらず、停空飛翔し、ダイビングをしていた。私には本がなかったし、これがアジサシという種類だと教えてくれる人もいなかった。