第十五章 地球の裏側で ニュージーランド 2 海鳥の島
2 海鳥の島
連れて行ってもらった島のいくつかは、中でもとびぬけてすばらしい場所であり、ヨーロッパ人にとっては奇怪とすら言えるようなところだった。南島の北海岸沖合にあるトリオ諸島のうちの一つの島にたどりつくためには、クイーン・シャーロット海峡をわたる華々しい帆走を経なくてはならない。ここは、二ュ―ジーランドの一四種類のウのうちでもっとも数が少ないノドジロムナオビウの唯一の繁殖地である。ここでひと晩過ごすための道具を岩の上に陸揚げするのは、ダン・マートンと二人の若い助手がやすやすとやってのけてくれたにもかかわらず、たいへん危険な作業だった。
ようやくのことで水から上がると、私は大あわてで自分の荷物をどさっと投げおろした。ムカシトカゲの写真を撮ろうとしたのだ。ムカシトカゲは大きな丸石の上にいて、侵入してきたわれわれを、まがまがしい目つきでじっと見つめていた。体長四五センチ、とげとげした背中をしており、恐竜時代からずっと、そのままの姿で生き残ってきた独特の爬虫類である。「生きた化石」として有名で、ニュージーランド沖合の島にしか見られないものだ。穴を掘って卵をうみ、一年かそれ以上もたってから卵がかえるまで放置しておく。私に「ちょっとした冒険」を約束していたダンは、手始めとして、このさいさきのよいスタートを喜んだ。
ダンのことばは、まったく正しかった。しがみついてはすべり、ぼろぼろとくずれやすい崖をよじ登り、密生した丈の低い樹林の中を長いことはい進んで、ようやくキャンプ地にたどりついた。厚く繁った緑の樹冠におおわれた傾斜地で、地面は海鳥の巣穴のトンネルで、どこもかしこもまるでスポンジのようにぶかぶかして穴だらけだった。場所を確保するのは容易なことではなかったが、私の連れは、野外に慣れきった手際のよさで、低い枝にフライシートを結びつけ、休息のための寝床を四つ用意してくれた。
「あまりぜいたくはできないけれどね」ダンは言った。私は横になったが、なんと頭からわずか四五センチのところに、なめらかな茶色の羽毛にくるまれたコビトペンギンの大きな赤ちゃんがいるのに気づいた。巣穴の中から、これまでのものごとを逐一見守っていたのだ。そのすぐ隣では、誰かが踏み抜いたトンネルから出ようとして、アカアシミズナギドリが土を掘っていた。
マオリ人の個人の所有地として、この島は完璧なサンクチュアリになっていた。年に一度、野生生物局の人間が上陸して、標識調査によって鳥の個体数をモニターするだけである。彼らは、ここで一〇万羽の海鳥が繁殖していると言っていた。島のほとんどは、三メートルから四・五メートルの高さの密生した樹木におおわれており、そんな多数の海鳥が巣を作っているとはとても思えなかった。しかし、暗くなるとすぐに、ずっしり重い鳥たちが、小枝や葉を抜けてどさりどさりと着地してきた。額にバンドでとめつけたヘッドランプで見ることができるのは、せいぜい三〇メートル四方ほどの地面だが、どの鳥もほんの一,二メートルの距離を小走りに走ると、自分の巣穴を見つけて姿を消してしまう。およそ一時間ばかりの間、鳥たちはまるで雨のようにあとからあとから降ってきた。ヨーロッパの沖合の小島の断崖で、ミズナギドリ類やウミツバメ類にリングつけをした夜と比べると、現実のこととはとても思えなかった。
いちばん数が多いのはモグリウミツバメで、体長二〇センチ、背面は黒く下面は白かった。ちょうどイギリスのヒメウミツバメのようだったが、それほどずんぐりとはしていない。この鳥のクークーいう声に比べると、もっとずっと少なくて、うめくような声を上げて乱闘を演じているのは、ヒメクジラドリだった。少し大きくて背面は銀灰色、そして肉色の足ははるかに大きかった。
こうした暗い森の中に海洋の鳥がいるということだけでも、まるで夢のようだったが、我々がじっと横になって、スポットライトよろしく四つのヘッドランプで照明を当てている舞台の中に、コビトペンギンがよちよちと登場してきたではないか。彼らは飛ぶことができないのだから、下の海岸の岩に、海面からどさりととびあがって上陸してきたのだ。そして、あのあぶなっかしい崖をよじのぼり、やぶを抜けて、私がここまで上がってきたのと同じように、根っこの上を這い上がってきたに違いない。連れのスタッフが、ペンギンたちの秘密の小道を見つけさせてくれればよいのだがと私は願った。
新しくリングをつけたものはわずかで、つかまえた鳥のほとんどは、既に足環がついた再捕獲のものだった。へとへとになる作業だった。ぺちゃんこにのびて休んでいると、コビトペンギンやヒメクジラドリが私たちの隠れ場を通り抜けて歩き、まるで私たちが地面や木の幹であるかのように、平気で体の上を踏み越えて行くのだった。
こうした事態には慣れてきていた。そのすぐ前の朝も、私は別の島で、おなかの上に鳥が乗っているので目がさめたのだ。ジャック・シャンドによって野生生物局にサンクチュアリとして寄贈されたモード島でのことである。ジャックは私たちがこのあたりをまわる時に親切に舟を出してくれており、私たちはモード島の彼の家に泊めてもらっていた。
おなかの上の鳥は、ニュージーランドタヒバリに違いなかった。マミジロタヒバリのニュージーランド産の亜種である。マミジロタヒバリは、イギリスでは東ヨーロッパやアジアから稀に迷行してくる種類であり、近づくことなどできるものではなかった。おなかの上の小鳥は、まるで無関心な様子で私のパジャマから飛び下りると、虫を探して気取った様子でカーペットの上を歩き続け、私が写真を撮っても知らん顔だった。
ずいぶん後になってから、ジョーンにこのスライドを見せた時、ジョーンはいかにも家庭の主婦らしい反応を示した。「あらまあ、このカーペット!ミンズメアのバンガローで、私たちが使っていたのと同じものじゃないの」ただし、わが家のカーペットでは、珍鳥が餌を探したことはない。
ジャック・シャンドは六六歳の好人物で、野生生物局のスタッフにとって、すばらしい友人だった。彼は、私がウェリントンで「来賓」として行った講演の再放送を聞くために、ラジオのスイッチを入れた。イギリスでのRSPBの仕事についての私の話をジャックは楽しんで聞いてくれたが、我々が原子力発電所のすぐ近くで実際に働いていることを心配していた。ニュージーランドでは、原子力発電所はむしろ不要とされている。北オークランドのマヌカウ・ハーバーで静かな入り江に火力発電所の計画があることを、彼らは非常に心配していた。この場所はたいへん重要な地域で、私は越冬する渉禽類を何千羽も見ている。他の多くの場所と同様に、ここにも黒鳥が何百羽もいた。一八六四年、水草をコントロールするためにオーストラリアから導入されたものだが、今ではどこでも大繁殖している。
電力は、ほとんど水力発電のダムによって供給されていた。トウィゼルの下手にある新しい巨大な発電所の大物、レックス・スミスは設計技師でもある。この人は、発電所の造成のために風景を一変させてしまったことに対して、自分がやってきた補償のための仕事を見せるために、八〇キロの小旅行に連れて行ってくれた。いくつものダムにはなだらかな斜面と小さい湾が作られ、鳥たちの繁殖や採餌のため、いろいろな種類の適切な植物が育っていた。
こうした心くばりがすぐに成功している例を私は見ることができた。ダムのためにできた新しい岩だらけの渓流のそばで、何つがいものハシマガリチドリが卵を抱いたり、ヒナを連れたりしていた。この小型のチドリは、世界でたった一種、嘴が横に曲がっているという奇妙な種類である。
わずか九〇メートルのところをダンプカーがほこりをまきあげて走っているというのに、チドリたちは平気な顔をしていた。作業員の飯場の食堂では、できるところでこうして自然を守るようにしていることに対して、働いている人たちがおおいにプライドを持っていることがよくわかった。当時(一九七五年のことである)のイギリスでは、建設現場の作業員と自然保護というとりあわせは、とても考えられないものだった。
だからといって、ニュージーランドでは、どこでもものごとがうまく行っているというわけではない。クロセイタカシギは、ニュージーランドでももっとも危機にさらされている鳥のうちの一つだが、水力発電で水があふれたために、ひどい目にあっている。マッケンジー川を下ったところにある野生の湿原で、ケビン・オコナ―教授とロン・二ルソンは、この鳥のわずかな生き残りを見せてくれた。この種類の好む特殊な環境がどんどん失われてゆくために、姿を消しつつある種類だ。不運なクロセイタカシギは農業やフェレット、猫のためにも大きな痛手を受けている。おまけに、農地のひろがりとともにかえって増加しているオーストラリアセイタカシギとの交雑という打撃まであるのだ。
サンクチュアリにできるような小さい島がたくさんあるというのは、ほんとうにありがたいことですね、と私はジャック・シャンドと友人たちに言った。ダンは、ここモード島に特別の預かりものを三羽放していた。フクロウオウム(カカポ)―非常に少なくなってしまった大きなオウムのなかまで、飛翔力を失った、たいへん変わった鳥である。ダンのもとで、カカポについての特別な研究が行われていた。ダンは自分で録音したカカポの声の再生装置を持って、モード島の丘の上に連れて行ってくれた。テープに録音されたブーンとひびく声や金切り声に答えて、はるかかなたから鳴く声が聞こえてきた。しかし、トーチライトの光が届く範囲に出てきた鳥はいなかった。
この地域に住んでいる希少動物のうちで、ハミルトンガエルはもっと楽に見ることができた。わずか三種類の在来種のカエルのうちの一つで、奇妙なことには、オタマジャクシというものが見られない。卵の中でオタマジャクシの段階を過ごし、卵から出る時にはカエルへの変態を終えているためだ。このカエルも、湿潤な森林環境が失われて行くにつれて、個体数が減少していた。
南島本土のハブロックに戻ったところで、私はダンと別れた。しかし、数週間後に再会することになった。この時の乗り物は、舟ではなくて小さなヘリコプターだったが、まるでメカノ社(有名な玩具メーカー)特製のおもちゃをそのまま少し大きくしたようなしろものに見えたものだ。フィヨルド・ランドの畏怖すべきミルフォード・サウンドで、垂直にそびえ立つ山々の断崖にある懸谷に設置されたダンのテントに物資を供給するためのものである。悪天候が到来する直前に、ディック・ヴェイチの姿をちらっと目にすることもできたが、そこはとうてい着陸できそうもない荒々しい場所だった。
五年間にわたる緊急調査の結果として、この広大な野生の地域の中で、彼らのチームが発見し得たカカポはわずかに一一羽であった。ここは陸鳥が住む環境としては、世界でもっとも湿潤な場所で、年間降雨量は平均七五〇〇ミリ、最高記録は一九六八年の九二〇〇ミリであった。ちなみに、わが家であるサフォーク海岸地方の降水量は年間五〇〇ミリである。発見された鳥のすべてが雄であったことは、この種の将来に対しての絶望的な兆しと思われた。しかし一九七七年になって、南海岸沖のステュアート島で別の個体群が発見され、この種の全個体数はおそらく五〇羽前後と考えられている。
こうした仕事の対象となる地域は、何というべき土地であろうか。ここ、フィヨルド・ランドの畏怖すべき広大さ。一九四七年という比較的最近の年代になって、既に絶滅したと考えられていたタカへがここで再び発見されたのだ。タカへ;Notornis mantelliiは、体高が六〇センチもある飛べないバンの一種で、輝くばかりの青い体と、巨大なまっ赤な嘴を持っている。この種が絶滅したとされてから、長い年月がたっていた。
何羽かはブルース山特産鳥類保護区へと運ばれた。コリン・ロデリックはそこで繁殖している二組のつがいを見せてくれて、私はハイドから写真をとった。現存しているタカへは約二〇〇羽と考えられている。
フィヨルド・ランド国立公園は、およそ一万二千平方キロをカバーしており、非常に価値の高い野生そのものの地域であることから、後に数少ない世界遺産として指定を受けた。私はミルフォードから一一〇キロ離れたおだやかな農業地帯、テ・アナウでバスから降りて、野生生物局の尊敬すべき役人、ブレント・ヴィンセントと落ち合った。テ・アナウ湖の湖岸沿いにドライブして行くとき、最も目立った鳥は、やはりイギリスから移入されたものだった。地域の風土馴致委員会は、「田園の資源を豊かにする」ために、生物を導入する仕事をしていた。
羊の牧野では、ツメバゲリが餌を漁っていた。故郷のイギリスでは、こうしたところにタゲリがいる。種類こそ違うが、タゲリの代役として田園風景を完成させているわけである。ツメバゲリは人の手を介さずにオーストラリアから移住してきて、一九四〇年ごろには定着していた。
野生生物局で、野外での仕事を中心にしている役人のひとりであるブレントは、おびただしい難問に労を惜しまずに対処している誇り高い人物であった。野生生物局の仕事を見せるため、ヘリコプターでの旅行を手配してくれただけでなく、キマユペンギンを見るために、延長十九キロものミルフォード・サウンドをボートで下ったり、カカポやタカへが住む土地の別の景色、およそ現実とは思えないほど高い谷や滝、三〇〇メートル以上もの高さからいきなり水面へと落ち込んでいるような、壮大な切り立った断崖などを見に連れて行ってくれた。
この国のこうした部分について、ニュージーランドはイギリスそっくりだ、という陳腐な決まり文句を使うことができる人がいたら、お目にかかりたいものだ。よしんば、私がいやが上にも圧倒されていなかったとしても、ヨーロッパ・アルプスよりも規模が大きいサザン・アルプスで、雲をいただいた峰々すれすれに小型のチャーター機で飛んだ時は、十分どころか、十二分以上に圧倒されてしまった。美しい小さな町、クイーンズタウンに着陸する前のことだ。次の滞在地、クライストチャーチに向かう飛行では、なんとクック山のタスマン氷河に十分間の着陸さえしてもらったのであった。クライストチャーチでは、ジョンとメアリーのアダムズ夫妻が待っていてくれた。
これほど効率のよい旅行は考えられないに違いない。どこに行っても、オーストラリア人同様にたくましくタフで、おまけにちっとも攻撃的なところのない若者たちが待機していて、私に目をみはるような新しい経験をさせてくれた。これは何も、政府の役人に限らず、ロイとグラディスのウェストン夫妻のような自然保護団体のメンバーや、「フィールドガイド」の編集者で著者のひとりでもあるリチャード・シブソンや奥さんのジョーンのような鳥学者も同様だった。どの人も、いっしょに野外に出る時にはほんとうに生き生きと活動的だった。
この時のニュージーランド旅行の半分は、こうした個人のお宅に泊めていただき、半分はモーテルに泊まった。もちろん、そこここで夕食会が催され、スピーチをすることになった。一度はウェリントンに飛んで、野生生物局の本部で二時間の講演をした。これは録音され、ニュージーランド国営放送で、三〇分の番組として用いられている。
もう一回の二時間の講演は、夜、博物館で催されたものだ。博物館の鳥学者、フレッド・キンスキーをはじめ、その他のミンズメアで会った人々と再会できてうれしかった。こうした会合や、他の町で行われた講演では、どこでも長い時間、質問を受けた。RSPBの仕事についての私の説明は、十分によく理解されたものの、バードウオッチャーへの対応については、ニュージーランドではまだとても応用の段階ではないと感じられたようだった。




