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第十四章 大きいことはよいことだ  3 ポイント・ペリー国立公園

   3 ポイント・ぺりー国立公園


 ナショナル・オーデュボン協会は、RSPBのアメリカ版ともいうべき組織だ。RSPBに遅れること十二年、今世紀に入ってまもなく創立されたこの会の発端は、やはり女性が中心となって、各種のサギ類の羽毛を装飾に用いる習慣をやめさせようという運動からだった。会が生長してゆく比率はRSPBと同様だが、イギリスでは全人口の六十四分の一がRSPBと下部組織の少年鳥学クラブに所属しているのに対し、オーデュボン協会の会員は国民の四二三分の一である。

 西欧諸国と同様に、香港やオーストラリアでもトウィッチングーライフバード(野生で生きた姿を見た鳥種)の長いリストに対する渇望―はビジネスを推進し、双眼鏡や望遠鏡の輸入業をおおいに奨励している。こうした光学機械は日本から輸入されている。日本におけるバードウォッチングはまずまず成長しつつあるとは言え、まだそれほど一般的になってはいない。

 珍鳥を追い求める風潮は、自然保護団体の利益にもなる。珍鳥マニアは情報を得るため、電話のホットラインを利用して使用料を寄付してくれる。そればかりか、内情に通じたり、印刷物に自分の名を載せたり、誰が何種類を見てトップを切っているのか、というような競技の様子を眺めたりするためにも、会員になる必要があるからだ。これは、まあ、おおむね無害な娯楽である。ただし、若干の家庭では、お父さんが突然会社を病欠して趣味のトウィッチングに出かけてしまうため、父親不在の日が多くなりすぎるということがあるかもしれない。

 北アメリカのバーダーは、他のことと同様に、トウィッチングにおいてもスケールが大きい。しかも、このスケールたるや、さらに拡大しつつある。涅槃の境地とも言うべき至福の域に達した同人とは、国内でなんと七〇〇種を見た人たちのグループである。四分の一世紀前であれば、彼もしくは彼女(貪欲さにおいてはまったく遜色がない)は、六〇〇種クラブをめざして努力したものであったのだけれど。

 鳥たちは、チェックリストの空白を埋めたい人々のおかげでおおいに利益を受けている。貴重なポイント・ペリーが確保されることになったのは、このためと言ってもよい。エリー湖にのびる十四キロの長さの半島を私たちが初めて訪れたのは、一九七八年のことだった。半島の付け根にあたる側で、全長の三分の二を占めているこの地域は、カナダの有名な渡り鳥の集中場所である。

 管理者は、どうやって集まるバーダーをうまくさばいているかを説明してくれた。放っておけば、保護区のほとんどが駐車場にされてしまうからだ。そこで、まず大きな駐車場を別に作り、鳥を見に来た人はそこから徒歩で行くか、または自転車を借りるようにした。農場のトラクターがひく軌道車で砂地を下って行くこともできる。

 ポイント・ペリー国立公園は、北アメリカ最良の探鳥地のうち、ベスト十二か所の一つにあたり、また北米大陸の五つの渡りのメインルートのうちの二つに含まれる場所である。そして現代のトウィッチャーの交通手段にじっさいうまく対処していた。私たちが行った時には五〇〇人のバーダーがいた。そして、五月のある一日に一五〇種類もの鳥がここで識別され、記録されたということが、当時としてたいへん誇りにされていた。珍鳥をかこんでびっしり集まっている人々から離れると、混雑はまるでなくて、保護区全体はじつに楽しいところだった。

 エリー湖そのものも、予期していたよりもはるかによい状態だった。何年か前のこと、エリー湖は内陸の湖水としては最も汚染が進んでいるということで、世界の注目を集め、魚が腹を上にして浮き、人は泳ぐこともできないと報じられていた。ニュースというものは、要するに悪いニュースということだ。一九七八年当時には、釣りがいたって盛んであり、漁船の群れや海鳥たちも忙しく活動していた。一九七二年に汚染防止法が議会を通過してからというもの、アメリカとカナダの両国の岸に位置する工場は、クリーンアップ作戦に大きな成果を上げている。しかし、報道機関はこうしたことをほとんど報じてはいない。マスコミの関心は、さらに汚染が進んだオンタリオ湖へと切り替えられている。

 十年後、一九八八年の五月のただ中に、再びこの地を訪れた時には、トウィッチングーまだ見たことのない種類の鳥を探す魅力ーがさらに急成長し、大発展をとげているのを目にするに至った。ポイント・ペリー国立公園の入口の障壁のところで聞いたことによれば、前の日曜には一八〇〇台の車が通り、その次の日には一一〇〇台が来たとのことだった。ふつう、一台の車には平均三名が乗っている。保護区の中には何ヘクタールもの広さを持つ駐車場を備えたすてきなビジターセンターがあり、静かでスマートな路面電車が二〇分間隔で発車して、渡り鳥が集中して下りている目的地にむかって、森を抜けてゆっくりと下って行く。

 アスファルトの舗装道路や観察歩道、沼沢地の木道など、何キロもある道には、最先端の装備で身をかためたバーダーが何千人もいて、運のよいことにはまだ葉がぎっしり繁ってはいない前方の木々を、首を長くして注視していた。注意をひきつけている鳥は一羽だけではなかった。ほとんどの鳥は南米の越冬地から渡ってきて、前の晩のうちにエリー湖を横断して飛来したもので、渡りで消耗しきっていた。この場所に鳥たちが集中する理由は、昆虫を食べて栄養を補給し、休息をとることである。鳥を見に集まるバーダーの存在があるからこそ、この場所は安全に保たれているのだった。

 こうしたことのすべては、ミンズメアの初期のころとはなんとかけ離れていることだろう。動揺の時代だった一九六〇年代から、「ヘアリーさん;ひげもじゃの鳥キチさん」と呼ばれていた人たちの存在は知られていた。珍鳥が到来するとともに、芋づる式の情報で集まってきて、パブリック・ハイドにぎゅうづめになる人々だ。私たちは小型のトラクターと自家製のトレーラーでこの人たちを駆り集め、適当なハイドに連れて行って、半クラウンずつ徴収した。お金を払わなければ見られない、というわけだ。現在のイギリスの保護区は、珍鳥が出た日には、それだけの価値がある料金として一回に一ポンドか、もっと多くの金額を稼いでいる。

 ポイント・ペリーの保護区域の運営は、これまでに見た中でももっとも効果的なものだった。バーダーは、自分たちのための施設を大事にしていた。唯一の問題は、地上に身をひそめるたぐいのジアメリカムシクイ、ミズツグミ、フタスジアメリカムシクイといった鳥たちを探そうとして観察路をはずれ、エンレイソウやニオイスミレ、野生ニラといった植物を踏みつけてしまうことである。バーダーたちはたいへん静かで、おおいに楽しんでいた。

 この人たちは、いわゆる「雑鳥」を見るのに時間を浪費したり、見て喜ぶということはしない。「雑鳥」というのは、裏庭でこっそり餌をとっているナゲキバトやカラス類、イギリスから導入されたイエスズメ、ホシムクドリといったたぐいである。

 三ダース以上にのぼる種類のアメリカムシクイ類や、その他のスズメ目の小さい小鳥たちには、わくわくしたばかりか、混乱させられた。ジャネット・ボールドウィンの熟練した目のおかげで、私は満開の小さな野生リンゴの木で、少なくとも十二種類のアメリカムシクイ類がいるのを数えることができた。

 このうちの一種はアサギアメリカムシクイだったが、これは一九八五年にイギリスの鳥仲間を興奮させた種類である。この小さな小鳥が、自分ではそんなつもりはなかったのに、シリ―島のセント・アグネスに迷行してきた時には、遠隔の地で簡単には行けない場所であったにもかかわらず、この種類をひと目見たいばかりに集まった人々が、一時は八〇〇人にも達した。みな、静かに立ち尽くして眺めていたものだ。これに比べると、ケント州のメイドストンははるかに行きやすい場所である。一九八九年二月のある土曜日、スーパーマーケット「テスコ」の駐車場の木立に来たキンバネアメリカムシクイを見るために集まったトウィッチャーは、なんと三千人にものぼった。

 ポイント・ペリーの森では、ずっと木の上の小鳥ばかり見上げていたので、首筋がすっかりこってしまった。カンバーとストーニー・ポイントの近くにある放棄された汚水だめの池は、くつろいで水鳥を眺めるのにちょうどよかった。他のイギリス人メンバーは、旅行中もずっと望遠鏡を持ち歩いていて、国ではまだ見ていないいくつかの種類を探すつもりだった。この場所では渡り途中のシギ・チドリ類を二四種以上も記録することができた。

 宿の予約は、むろん、すくなくとも一か月前には入れておかなければならない。こぎれいな街路樹でふちどられた近くの町では、大通りを横切ったところに、「レミントン・ホテル

 バーダーご一行様歓迎」と書かれた大きなのぼりが出ているのを見た。ホテルやモーテルのネオンにも、「野鳥愛好家様へ 朝食は午前五時」と表示されていた。


 北アメリカの大きな自然保護団体の役員は、繁殖地や採餌場所を確保するためにやった仕事のよい成果を見せたいと思っていた。どこの国でも同様だが、アメリカでも野生生物の保護活動は過去の問題から生じている。無制限な狩猟や湿地の排水のため、おもにカナダから渡来して越冬する水鳥の個体数がアメリカで著しく減少したことから、一九三六年に言うなればパニックが起こった。これまでとは一八〇度転向したスローガン、「湿地をふやそう、銃猟を減らそう!」がいきなり登場して、一九四〇年代の初期には、国を挙げた湿地保護のプログラムがうまく進行しはじめた。

 一九五三年には、ブルドーザーで土を押しやって、カモが繁殖できるような島をつくり、結果としてできた周囲の深みで安全に餌もとれるという池の造成工事が行われた。カモは食料およびスポーツの対象で、ヒナを育てて増えてくれるのだから、更新しうる資源というわけである。資源をうまく増やす手段としてこうしたものが作られたわけだ。そして水鳥や湿地を保護する団体、ダックス・アンリミテッドが一九三七年に創立され、世界中に広まっている。ダムを築いて豊かな野生の湿地帯を作っていたビーバーは、今ではたいへん数が少なくなってしまったが、アメリカ人はみずからの手で渓流をせきとめて湖を作り、隠れ場や餌となる植物を導入している。

 カナダと合衆国の国立公園、野生生物局、各州のオーデュボン協会、自然保護協会(野生生物のために土地を確保するべく、一九五四年にスタートした民間団体)、汚染防止のための環境保護庁、そしてその他の多くの組織は、一般からの支援や政治的な影響力を増してきている。

 我々西欧人は、はるかに長い年月にわたって野生生物の生息環境破壊を続けてきている。比較的近年になってからの損失を回復するために、大々的なスケールで行われている結果は、西欧からの訪問者にとって、たいへん印象的なものだった。

 たとえばロス・アンジェルスの市境近くでは、この時ビバリー・ヒルズで滞在させていただいたアーノルド・スモール博士が、ホィッテイア・ナローズ・ネイチュア・センターに連れて行ってくれた。ここは市によって管理されており、野生生物を中心とした教育とレクリエーションのための場所である。ポリエチレンのシートを敷いて造成された大きな湖を見せてもらったが、合衆国陸軍の工兵隊によって造成されたものだ。野生の湿地に対して、これまでに行われてきた、排水やコンクリート等々というおそるべき「改良工事」を緩和するようなものと言えるだろう。

 わずか二年前、ポリエチレンの上に土を敷き、植物を植えたばかりというのに、造成された三か所の湖には何百羽もの水鳥がいた。まわりの岸では、釣りをしたり、散歩やサイクリングにたくさんの人々が来ていたが、鳥たちはほとんど気にしていないようだった。近くには、昆虫や小動物を増やす目的で特別に牧草をまいた三二ヘクタールの草原があった。草原の上空には何羽かのアメリカチョウゲンボウと、オジロハイイロトビが四羽いたが、やはり人間には無関心な様子で狩りをしていた。

   


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