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第二章 六ペンスの歌をうたおう  1 缶の中の卵

    第二章 六ペンスの歌をうたおう

   

   1 缶の中の卵


 川岸に沿って、前の冬の高潮が運んできた乱雑な漂流物が堆積していた。その上のアナウサギにかじられた草むらの中に、古ぼけてさびた空き缶がころがっていた。横幅十二センチばかり、長さはその倍くらいで、円錐形の首のところにはうずまき型の小さな取っ手がついていた。私がまだ小さかったころには、ごくありふれたたぐいのものだった。私はその缶に目をひかれた。家には同じような缶が一つあって、ランプの真鍮の胴体に灯油を入れるのに使っていた。当時、ライの町にはまだ電気はひかれていなかった。

 母と二人の幼い姉妹といっしょに、私たちは海岸あさりの散歩に来たところだった。一九二〇年のこの春の日には、波打ち際を色どるプラスチックのゴミはまだなかった。家族のこうした遠足は、いつもと同じく、教育と楽しみのためのものだった。第一次世界大戦後間もないこの時期、海がどんなものを吐き出してくれたかは、とてもご想像いただけないだろう。

 私は空き缶に注意をひかれて立ち止まった。二歳年上のアイヴィーや、三歳年下のアイリーンは、かわりばんこに椅子車に乗っていたが、どちらも興味をひかれた様子はなかった。私は母を見上げた。

「あんな古いのはいらないよ」母は微笑んで言った。「持って帰るいいものは、もういっぱいあるじゃないの」

 空き缶は、古ぼけた茶色のフットボールのように、軽くて空っぽに見えた。夕方五時に仕事から解放された時に感じるような誘惑で、足先がむずむずした。私は缶を思いきりけり上げた。

 空き缶がくるくる回転するにつれて、小さな青い卵が缶からシャワーのようにこぼれ落ち、缶が止まると、口からはじけるように小鳥が一羽飛び出した。干潟を横切って飛び、赤さび色にすがれた去年のギシギシのやぶのうしろに舞いおりる間、茶色と白の羽がちらっと見えた。

 ショックから立ち直った母は、缶を拾い上げた。私はとんでもないことをしでかした足ではなく、罪のない手を缶の首から入れて、内側を確かめてみた。缶は半分くらいまで草と海草でできた巣でいっぱいになり、背の側には羊毛でふちどられた暖かい産座があった。

「なんてこと、鳥が選んだ場所だったなんて!」母は言った。「ひどいことを!」そしてすばやく、「ぼうや、気にしなくていいのよ。鳥が入っているなんて、わからなかったんだからね。」

 忙しい生活に長く埋もれていた幼いころの思い出は、退職して静かに考える時間ができた今になると、すばらしくはっきりとよみがえってくる。しかし、サセックス州東部のラザー川に沿って下っていた時のこのできごとは、いつでもすぐに思い出すことができた。限りない素材がある田園生活の中で、子供たちは自分の手で楽しみを作り出していた。中には、語り継がれてしかるべき、すぐれた劇的な物語もある。

 母はもちろん、私にはとがめられるべきことはないと言った。しかし、私は自分がしでかしたこの事件を長いこと苦にしていたそうだ。鳥の巣に対する弱み、現実生活の中での最初の試練である。このできごとから、鳥の巣に対しての深い関心が生まれた。長い年月がたつうちに、この事件は私の生活を完全に変えてしまったのだ。

 この日は、五月の末ごろだったに違いない。むろん、良い天気の日だったはずだ。そうでなければ、母が幼い家族をひきつれて、家から離れてこんな長い遠足に出るわけがなかったからだ。私たちはクリケット・ソルツのすぐそばの住宅地に住んでおり、庭のすぐ下は、白亜でふちどられたソルツのへりに接していると言ってよかった。ラザー川が英仏海峡にそそぎ込む河口は、二・五キロほど離れている。平坦なロムニー・マーシュ一帯には、視野をさえぎるものはなかった。厚ぼったい羊毛にくるまれた羊が、緑の牧野に白い水玉模様のように点在する中で、赤い屋根が盛り上がったライの町は小さなピラミッドのように見えた。サセックスからケントに至るはば一マイルに及ぶキャンバー・サンズの海岸をこえたはるか東には、ダンジネスの灯台がぽつんと立ち、黒白の帯が入った指のように、ドーバー海峡の入り口を指し示していた。

 私の母、ベシー・メイ・ジェーンは、ライの旧家であるローズ家の一員だった。田園育ちの活動的な娘だった母は、この時の二年前に戦時下の未亡人になっていた。困難な時期にあたって、母の生活は三人の幼い子供を育て、幸せにすることに捧げられていた。母は生まれつき、天候を見きわめる目を持っていたに違いない。南西の方角、川を横切り、はるか彼方の薄青くかすんだフェアライトの丘陵地帯へと地面が隆起しているウィンチェルシーをこえて、母はよく空を見つめていた。このだだっ広い開けた土地を越えて、無限に続く空の彼方から雲がわいてくるのはこの方角である。ここが私の育った世界であった。

「ようく見るのよ。雨につかまらないようにね」母は私にお天気のことと同じく生活を教えた。「雨がくるのは何キロも先から見えるんだからね。」

 ライの町は、背後にどんどん小さくなってゆき、私たちはラザー川の東岸に沿って歩きながら、前の嵐の高潮が残していったがらくたの間の貴重品を一つ、また一つと拾っては、楽しくおしゃべりしていた。空き缶、箱、奇妙なかっこうのびん。中には外国語のラベルが貼られ、母の知識や想像力をもってしても説明しかねるようなものもあった。エキゾチックな木の枝や丸太もあり、風変わりな、時には甘い香りがした。皮でできた泡のようなホンダワラの浮き袋を母は強い指でつぶして、パチパチ音をさせてみせた。漁網の切れ端につけられた大きなコルクの浮き。なかでも、暗緑色の大きなガラス玉の浮きはすばらしいごほうびである。もっとよいものは、私たちがドイツものと呼んでいたこはく色のガラス玉だった。不運に見舞われた船からの漂流物もいくらか見つかり、私たちはそれで物語をつくったものだ。第一次世界大戦が終わってから、まだわずか十八か月しかたっていない時期である。

 空き缶の中に鳥の巣があったという発見は唐突で、しかもおそろしいもので、私たちのおしゃべりは止まってしまった。しんとした中で、耳障りなチャッチャッという声に気づいた。灰色の背とうすいオレンジ色の胸をした、さっき飛び立ったのとよく似ているが、もっときれいな色の小さな小鳥がいる。小鳥は興奮して低い止まり場から次へと動き、黒と白の尾をぱっぱっと上下させた。

「ああ、かわいそうな、ちっちゃなぶきっちょ鳥!」母は言った。あんな古ぼけた缶に巣をつくるなんて、なんてばかなことを」

 この鳥の本当の名はハシグロビタキだということを私たちは知らなかった。わが町では、バードウォッチングはいまだ知られざる趣味であり、こうした目的のために双眼鏡を持ち歩く人もひとりもなかった。しかし、卵のコレクションをしている少年は多かった。田園地帯の少年の年中行事となっている手作り遊びの仲間に加わることができるのは、もうすぐだった。私は先にどんなものがあるのか、もう知っていたし、学校へ行くようになった男の子たちに追いつくのがとても待ちきれなかった。

 冬のフットボールのあとは卵集めだ。それぞれの巣から一個だけとればよい。四月いっぱいと五月の前半で卵採集の時期は終わり、夏の楽しみに圧倒されて忘れられてしまう。長い昼間の時間はキャンプ、自転車旅行、水泳、クリケットなどに費やされるが、やがて日が短くなってくると、いよいよリンゴが実るすてきな季節だ。田舎育ちの小さな男の子であることは、よいものだった。

 私たちはハシグロビタキの卵を六個見つけた。そのうちの三つは草むらに落ちたので無事だった。母は二つを巣に戻すようにと私に言った。アイヴィがーもう七歳になっていたし、女の子なのでそうしたことは得意だったー缶を注意深くもとの位置に戻した。あとの無傷の卵一つは家に持ち帰ってもよいと言われた。十歳になったお隣の大きな子、スコッチイ・スミスが卵の中味を吹き出してくれるはずだ。そして私は自分の卵コレクションを持ちはじめ、他の少年たちに追いつくことができる。

 私たちは、何か善行を施したような気持で帰路についたに違いない。季節ごとに田園が提供してくれるものを受け取るのは、本能的で自然なことだった。ライ・ヒルにのぼって、汚らしくてやかましいコロニーからミヤマガラスを撃ち落として食べるのは、何の問題にもならなかった。繁殖期、ライ・ヒルのコロニーの下はあぶなくて歩けたものではなかった。もちろん、歌にあるように、この大きなまっ黒な鳥を二十四羽も用意して、母がパイにつめこむようにできたことはなかったけれど。

 いくつかの種類の鳥は、他のものよりも一段上のものとして扱われた。ウタツグミやロビン、ミソサザイなどは冬にもさえずりを聞かせてくれるし、春にツバメやカッコウが戻ってくる時もよいものだ。毎年毎年、鳥はたくさんいて、それが当然のことだと思っていた。

 父のチャールズは私が三歳の時に亡くなったので、父についてのはっきりした記憶は何もない。その当時、私たちはイースト・クリフ・スタジオの大きな家に住んでいた。この家は後になって画家のポール・ナッシュに買い取られている。ラザー川よりもずっと高いところにあり、バルコニーからはウォーランドとロムニー・マーシュを見晴らすことができた。はるか遠くの背景には、いくつもの小さな丘がハイスのところで海にむかって下ってゆくのが見えた。

 父は町の写真家で、これは第一次世界大戦当時にはたいへん珍しい職業だった。慢性的な肺病のために徴兵されなかったので、父はライの町の人々の肖像写真や、地方や全国版の新聞写真に腕をふるった。母はよく、キャンバー・ゴルフ場のヨーク公爵を撮影した父の写真が掲載されている古いデイリー・ミラー紙を見せてくれた。また、母は長くて灰色のツェッペリン飛行船が海に出た直後、ライ・ハーバーで小さな化学工場を爆破した時の爆裂孔の写真をたいへん自慢にしていた。父が撮影し、初めて印刷物になった写真であったからだ。母はまだとても小さかった家族とバルコニーに出て飛行船を見ていた。その時まさに、第一次世界大戦の最初のイギリス本土への爆弾が投下され、三階の鉄製の雨どいがこわれて私たちのまわりに落ちてきた。

 父は戦争末期から世界中で猛威をふるっていたインフルエンザで亡くなった。私もこの時に危うく死ぬところだった。父の死後何年かの間、私たちはよく大きな剥製の白鳥で遊んだものだ。これは写真スタジオでしばしば使われた小道具のひとつで、ライの町の子供たちがこの白鳥の首に厚かましくも保護者よろしく腕をまわし、無邪気そのものといった姿をして、幽霊のように写っているネガのガラス板がたくさん残っていた。父の備品が売られた時、母はこの白鳥を遊び道具としてとっておいてくれた。私は白鳥の大きさと羽の構造に魅せられ、体に羽がどのように分布し、どれほど素晴らしいつくりであるかを知らず知らずに学んでいた。白鳥の剥製がとつぜんばらばらにこわれてしまった時には、私たちのおもちゃ置き場は大きな損失をこうむったものだ。

 しかし、まもなく私も毎週お小遣いをもらえる年齢になった。六ペンスあれば、どれほどものすごく面白いものを買うことができたことか。

 私たちは、ラザー川にそったソルツ(製塩場;この場合は地名)まで下ったもっと小さな家に引っ越した。すぐそばに、このソルツの平坦な原っぱがひろがっていることは、子供たちにとってはたいへん幸運なことだった。ずっと昔、この土地は海水を蒸発させて塩を作るため、満潮時に入ってくる潮をうまく保つように干拓されたところだった。そして現在では、夏冬どちらのスポーツにも適した申し分ない町のフィールドになっている。

 後になってわかったことだが、私の健康を第一に考えて、母は私が新鮮な空気の中で活動することをおそろしく熱心に勧めた。その中には鳥の巣探しも含まれていた。当時は誰も、学校の先生でさえも、卵コレクションが間違ったこととは言わなかったものだ。戸外でのゲームは伝統的なものも、作り出したものもとても大事で、遊ぶのにじゅうぶんな場所もあった。母はよくロイド・ジョージー家族全員が自由党であったー(訳注;第一次世界大戦時のイギリス首相)のことばを引用した。「遊びこそ、生活に立ち向かうために自然が用意した訓練である」

 私の最初の本格的なバードウォッチングは、四歳になった夏、室内ではじめたものだ。寝室の窓のすぐそばには、大きなガラス箱に入った街灯があって、家の壁に腕金がとりつけられていた。毎夜、夕闇がせまるころ、ちょうど私がベッドに入る時分だが、点灯夫が巡回してきて立ち止まり、長い竿でガスの栓をひねってマントルにパイロットランプで火を点した。すると、部屋中がやわらかい黄色の光に満たされるのだった。四月なかばから八月末までの間は、朝になるとツバメのにぎやかでせわしげなさえずりで起こされた。ツバメはランプの同じところにとまるが、夜、誰かがライトを消してやっていた。わずか六〇センチの距離から、ツバメの頭からぴんと針金のようにとがった尾羽の先端に至る背面全体が、つややかできれいな紺色をしているのを見ることができた。さえずっている時には、赤さび色の喉がけんめいな努力でふるえるのも見える。小さな脚は、絹のような腹部の白い羽に隠れて見えなかった。

 道を横切ったすぐお向かいはグリーン羊毛店だった。古めかしい真鍮の雨どいのところには、何ダースものツバメのつがいが泥の巣を作っていた。ラノリンで脂っぽく、甘いにおいのする羊毛袋の上にすわりこんで、よく長いことツバメを眺めていたものだ。学校に入るとまもなく、ツバメの渡来や渡去の記録をつけるようになったが、こうした記録をとるのも私にとってはツバメが最初の種類だった。

 一九二九年という年は、私が初めて科学的な野外調査をした年である。この年、私は少し年上のロン・ウィリアムズといっしょに鳥に標識足環をつけはじめた。私が巣のところに上って、ツバメのヒナたちのきゃしゃな脚に番号が入ったアルミニウムのリングがつけられるよう、親切なグリーンさんははしごを貸してくれた。

 ライの子供たちは、よくキャンバー・サンズに出かけて長い時間すごしたものだ。ふつうは歩いて行くのだが、お金がある時には「トラム」に乗ることができる。トラムは実にかわいらしい小さな蒸気機関車で、二両ある三等車は荷台だけ、そして一両だけの一等車はちゃんと屋根やドア、窓のついた客車である。一八九五年に新しくできたキャンバーゴルフ場のために建設されたものだ。三ペンス半で、羊の牧場をゆっくりシュッポッポと通過し、はば広くひろがる昔のラザーサイド砂利場を抜け、干潟に沿った長い堤防の上を走ったが、満潮時には水があふれていて興奮したこともあった。五キロ走った後、砂丘のへりに建てられた小さなブリキの駅舎で下ろされる。何キロもの平坦な砂浜の間では、目につく唯一の人かげは汽車に乗っていた一〇人から二〇人の乗客ということもよくあった。

 河口に近い砂利の尾根のところでは、ハジロコチドリ、タゲリ、ミヤコドリ、アジサシが巣を作っていた。ダイシャクシギやオオソリハシシギといった渡り途中の渉禽類も見られた。コオバシギやハマシギなどのもっと小型のシギの大群が、私たちの前でまるで煙か雲のように舞い上がる。私たちの他には動くものといったらこうした鳥たちだけだった。鳥の名としては、カーリュウ(しぎ)とピーウィット(ちどり)しか知られていなかった。

 もっと大きくなってから、また夏がめぐってくると、私は車でキャンバー・サンズに連れて行ってもらい、朝食前の水泳というおそるべき楽しみに耐えたものだった。母が黙認していたことは疑いもないが、低潮線のはるか上方の砂丘のかげに置いた服のところに走って戻る時、私たちがどれほど寒くて無感覚になっているかということには、母は気づいていなかったに違いない。時速五〇キロという全速で、小さな屋根のない車をとばして帰路につくと、キャンバスのフードや皮ひもがはためいた。八キロこのかた、道には一台の車もいない。大きな壕を迂回するため、ずっと内陸のイースト・ガルデフォードへ向かい、ライへと戻ってくる道だ。

 食べ物やお茶、そしてブランディの懐中ビンを持って、キャンバーからケントとの州境まで出かけ、ミッドリップスでカモやガンを見ることもあった。ここは浅い海水の堰で、砂利の護岸堤防から水が漏れだしていた。お天気さえよければ、石ころだらけの道をリッドへ向かい、ダンジネスまでくだって、ネサイツの店で魚の値を見た。たった今、岸壁についたばかりの船から上げたての魚が、バケツ一杯につき一シリングというのが、ライっ子がつける正しい値段だった。今ではなんと変わったことか。

 幼かった無邪気な子供時代、私がいたやっかいごとのない世界では、どんな物事も決して変わりはしないように見えた。フットボール・ソルツにエンパイア・デイやスポーツ・デイがめぐってくるように、そして十一月の夜、ライで焚かれる大かがり火のように・・・・こうした年中行事は、町にとってホップ摘みのようにたいへん重要なものだった。このような日のどれにせよ、いつか消え去ることがあろうなどと、いったい誰が想像できただろうか。


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