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第一章 人生の第二ラウンド  3 RSPBへの就職

3 RSPBへの就職


 一九五二年三月二八日、ヴィクトリア街八二番地SW一にあるRSPB本部で面接があった。私の第一印象は、なんてちっぽけな会なんだろう、という失望だった。RSPBはそのやっていることに対してあまり高い評価は受けていないな、というものである。

 全国規模の組織という存在に対し、私がひどく大きな期待を持っていたことは確かだ。なにしろつい最近まで郵政省で働いていたのだから。戦前におけるイギリス郵政省こそは、イギリス最大にして、最も効率のよい産業といってもよいものだった。

 RSPBの見張り人とサンクチュアリ(保護区域)関係の部長はフィリップ・ブラウンだった。当時のサンクチュアリというのは、ダンジネス、一九三〇年に購入されたチェイニー・コート付近の小さな湿地、そして会の所有地であるハバゲイト、借地であるミンズメア、以上でほとんど全部である。このほかに、いくつかの重要な場所で繁殖期に保護監視を行う権利を持っていた。オークニーやシェトランドの島々にある繁殖地、そしてペンブロークシャー沖合に浮かぶシロカツオドリの集団営巣地のグラスホルム島である。約五〇名にのぼる「誠実にして献身的な」見張り人が働いていた。

フィリップの秘書はイヴリン・ケラーだった。グウェン・デイヴィスは年四回発行の会誌「バード・ノート」の編集と、発足後十年を経過し、二千名の会員を抱える少年野鳥クラブに携わっていた。野外調査に熟達したジョージ・エドワーズは写真家だった。ジョージこそは、RSPBのミンズメア保護区でサンカノゴイのヒナに足環をつけるといううらやむべき特権を手にしたその人であり、著名な写真家であるエリック・ホスキングのために巣を探した人物ではないか。ジョージは四部屋しかない会の事務所の上の階に住んでいた。そしておしまいには、むろん、ジェフリー・ボスウォールがいる。我が家でのインタビュー報告こそ、私がこの新しいキャリア(容器、という意味もある)に踏み込めるかどうかを決めるものになる。このキャリアたるや、たった今見て取ったところでは、わずか一パイントしか入らないほどのささやかなものにすぎないけれど、今まさにふっとうしているところであった。職員の熱意は明白そのもので、自分もその一員に加えてほしいと望む以外、考えようもなかった。

職員を統括しているのは、二〇名からなる比較的大きな委員会だった。きわめて熱心なアマチュアのナチュラリストによるもので、P・プレストン・ドナルドソンが書記長だった。RSPBの中核をなすウォッチャーズ・コミティの議長は、実業界でもフィールド経験でも傑出した人物であるジェフリー・デントで、おそるべき毒舌家のヨークシャー人だった。

RSPBがまったく新しい産業として鍛え上げられてきたことはおわかりと思う。戦争にうみ疲れ、配給手帳で統制される生活を送ってきた大衆の間では、大いなるアウトドアへの価値と興味が再び評価されることになった。アウトドア志向は一九三〇年代に始まっていたものだが、この時点にはRSPBのような団体よりもラジオやテレビが効果的に働くようになっており、つまるところ、野生生物の暮らしは人間社会よりも見ならうべき存在ではないか、という考え方が普及していった。人間がひきおこした戦争による混乱の後、野生生物を知ること、いや、そのふるまいを賛美しうらやむことで、学びうる何かがあるのかもしれない。美しく活発で、民間の伝承の中でもすぐれたイメージを持つ鳥は、観察するのにもっとも魅力的な動物だった。そのためにもっとも大きな共感を呼び起こし、その関心をRSPBは鳥の保護のための現金という形にかえることができたのだ。

イギリスはこと鳥に関してはとりわけ呵責を感じるべきだ。なにしろついこの間までは、「いいお天気ですねえ。何か撃ちに行きましょうか」というのは当たり前のことばだったのだから。

RSPBはマンチェスターのディズベリーで一八八九年二月一八日に結成された。はじまりは、羽毛を装飾品として身につけることに反対して作られた「羽毛婦人同盟」から派生した「毛皮羽毛グループ」の最初の会合の席だった。当時、野生の鳥を保護するための書類上の施策は、五か月間の禁猟期間というものだけだった。新しく結成された会は地方議会に条例の策定を働きかけ、七年の間に議会は繁殖時期に卵をとってはいけない鳥の種類のリストを作成した。それからの前進は遅々としたものだったが、一九五二年の現在にはこれまでにないような展望が開けることになった。RSPBの会員数が、すみやかに六五〇〇人もの数に達したのだ。

一週間のちに、私はフルタイムの職としてダンジネスの保護監視人ワーデンを引き受けることになった。スタートは一九五二年四月一〇日、年俸二六〇ポンドである。よく整えられた二冊の業務日誌を渡されたが、うち一冊には三ページにわたる指示が記されていた。中には、常にフィールドノートと削った鉛筆を携行し、やりがいある記録を書き留めるべし、怠慢による過ちは、しばしば意図的な過誤よりも重大な結果をもたらすことを記憶すべし、といった項目があった。はい、はい。記憶ほどあてにならないものはない。報告は毎週送るべし、捕食者の活動について報告すべし、ただし殺してはならない。私は立て札を作り、本部による非のうちどころのない文法によれば、きっちり五〇語を必要とする文章を書かなくてはならなかった。要約すれば「無断立入禁止」という意味である。私は誰に対してこの文章を適用すべきなのか、地域住民が各自で規則を遵守すべし、ということか、それともジェロームの「小舟の三人」よろしく、私の頭をこの立て札でぶんなぐれ、ということなのか、考えあぐねてしまった。注意書きの作成に心理学が応用され、ぱっと見てわかる表示が行われるようになるのは、まだまだ先のことだった。

 鳥の繁殖期間中、私は保護区の中で暮らすことになった。しかし、どこに、どうやって、ということは定かではなかった。ジェフリー・ボスウォールと私は保護区のへりにあるブリックウォール農場の廃屋に寝泊まりできるのではないかと話し合っていた。ところが、試してみたところ、雨のために洗い出されてしまった。結局、泊まる場所を確保するのは暗黙のうちに私に一任されたことになる。リッドに至るデンジマーシュ道路を一マイル行ったところのメイナー・コート農場のよき隣人、ノークス夫人が水筒に水を汲むのに井戸を使わせてくれ、また郵便物を預かってくれることになった。

 かくして、新たなる職が始まった。わが人生の車輪は完全な円を描き、私は子供のころの光景の中に再び戻ってきた。趣味に生きるために低賃金に甘んじる幸運な人々の仲間入りをしたことになる。

 現実的でない計画をさっさとあきらめたのはともかくよかった。ハリー・コーケルと私は二人して、リッドの爆撃場から風で飛ばされてきた古ぼけた波型トタン板を砂利場を横断して引きずってきた。軍が残した何マイル分もの野外用の電話線を使って砂利におおわれた砲撃用の遮蔽壕のレンガに結びつけ、寄せ集めのさしかけ小屋をこしらえたというわけだ。この壕は、近くで働く人のトイレとしても利用されていた。空洞になった石積みの上にはキツネノテブクロやノッティンガムハエトリソウがこぎれいな花をつけ、三メートルの高さはかっこうの監視台になった。その下の薄暗い壕の中では、しめったコンクリートの床の上でヒメモリバトが二個の卵を抱いていた。大きな鼻孔を持っているのに、嗅覚はあまり鋭くはなかったらしい。

 私たちは、軍隊用の古い寝袋、タイプライター、五巻からなるウィザビーのイギリス鳥類ハンドブック、鍋釜のたぐい、波浪荘から持ってきたプリマス型ストーブなどを運び込んだ。ジョーンが毎週食料を補給に来てくれることになっており、その気になればノウサギやアナウサギを撃つこともできた。

 砂利場のすぐ外、セグロカモメの営巣地のヘリに建てられた、すきま風がたっぷり入るこの小さな小屋は、以後数か月にわたる私の住居になった。私は繁殖の時期が完全に、ほんとうに終わるまで保護区を立ち退かないつもりだった。地上に巣をつくる鳥たちが、全くといってよいほど繁殖に失敗している理由をつきとめることが大事な課題だった。地域住民の卵とりの習慣が原因だ、と非難するのは簡単だったが、現在では他の捕食者、とりわけキツネとカラスが重大な影響を及ぼしている。人間が入ることで繁殖が邪魔されることも無視できなかった。イギリス人の五分の四は町に住んでいる。今の時代、町を離れて静かな田園に出かけたいという欲求が強まり、一般人も移動手段を持つようになった。鳥たちが好む広大で開けた環境は、古きよき日々に比べて、人間の侵入がはるかに多くなっているのだ。

 いったい何ができるというのだろう。保護論者の主張は別にしても、地主は狩猟に対する興味から、キツネのためのやぶ、ライチョウが住む荒野、鴨のくる池を保有している。しかし、野生生物のために生態学的に保護区を管理するという技術はまだ知られていないものだった。猟場の番人は、獲物を狩る捕食者にたいして無残な影響を及ぼし、タカやフクロウをはじめ、「害鳥」として考えられるあらゆる種類の鳥を虐殺してきている。

 これまで、鳥の保護のために制定された法律は十五に及ぶ。最初に制定されたものは一八八〇年にさかのぼり、百以上もの州や自治体都市で地域的な修正が加えられている。この法律には殺してはならないとされる鳥のリストが含まれているが、あちこちに矛盾や欠落があり、互いに相反する内容になっていた。いずれにしても、狩猟してはいけない鳥の種類が少なすぎた。

 戦争が始まった時、モンタギュー・シャープ卿は古くて混乱した規制を一掃するため、狩猟してよい鳥と狩猟期間のすっきりしたリストという法律の草案をRSPBに提出した。つまり、狩猟鳥以外のすべての種類―コレクターが珍重してやまない、海岸に初めて迷行してきたというような種類も含まれるーは保護されることになる。この法律は、可能なかぎり多様な種類の鳥を、できるだけ数多く維持してゆくという、RSPBの単純でまっすぐな目的に大きく寄与するはずだった。しかし、戦時下の政府は国家存続のために持てるものすべてを費やしていたので、この草案がイギリス内務省に提供されたのは一九四二年になってからだった。

さらに十年の歳月を経て、内務省の野鳥諮問委員会は、同じ意図に沿った草案を用意した。議会への道のりはまだ遠かった。鳥は穀類や果物、野菜、家畜や魚、そして狩猟の獲物を脅かす存在であるという考え方に対して、自然保護の風潮はまだまだ弱かった。保護するか、撃つかの範疇は、実質、地主の選択に任されていた。

 法的に「害鳥」として分類されたものに対して、もっとも効果的に行われた駆除方法は、ここダンジネスで、RSPBの見張り人だったジャック・タートがとったものと言えるだろう。戦前、たいへん効率よく繁殖に成功し、どんどん繁殖域を広げていたセグロカモメがアジサシ類の営巣地に侵入して巣をつくるのを食い止めるため、ジャックは何百個もの卵をナイフで突き刺した。バードウォッチングが爆発的に発達してイギリスと肩を並べるようになったアメリカ合衆国では、漁労野生生物局がちょうど四年にわたるセグロカモメの個体数調節についての研究を終えたところだった。こちらはいくらか科学的に、卵に油を吹きつけ、卵殻から酸素が取り込めないようにして中の胚を殺すという方法を提唱している。

 ダンジネスの現状を見ると、私はカモメ類が増えて問題になるような日の再来を楽しみに待つという心境だった。

 小屋ですごした最初の夜、砂利場は死んだような静けさにおおわれていた。熟考すべきことはいくらでもあった。素手で地面をひっかきはじめた、という感が強かった。少年のころ、あれほど楽しんできたすばらしい姿にこの保護区を復元するための挑戦という思いは、心を奮い立たせるものだった。ここは再び、鳥が安全に繁殖できる場所にしなくてはならない。しかし今では、新しい捕食者がたくさんいた。日中はカラス、夜はキツネ。欲しいものがある限り、この熟練した泥棒兼ころし屋たちは侵入をあきらめはしないだろう。それに、どこへでも行きたがる人間という厄介な存在もあった。小型の自家用車を手に入れた少数の特権階級もいるし、RSPBのような保護団体を支え、寄付したお金がどのように使われたかを見る権利を持つ人々もいる。

徹底的な手段が必要だった。私は長いこと、島のある大きな湖をつくりたいと思っていた。しかし実際にこれを実行に移すまでに考えを進めていたわけではない。食物や巣のおおいになるような植物が生え、岸辺では採食ができ、水位の調節が可能で、岸には観察小屋があるというものである。地域で手に入る材料を用い、手作業でやるとしての実現性を考えると、地元の関係者の反発は言うまでもないことながら、こうしたものを作るには一年から二年は必要であることは間違いなかった。

この考えは、ダンジネスで応用されるべきものだった。少年のころ、ライ・ハーバーで川を渡った時から育んでいた考えである。水浸しになった砂利採取跡の中に小さな島が偶然残されており、そこではカモメ類やアジサシ類がたいへん具合よく繁殖に成功していた。基礎となる要素は既に存在しているのだから、この土地で、もっと大きな規模で実行に移すべきものである

。私の計画は、子供のころからの野外での経験に基づいたものだった。少なくとも、その可能性云々をまず長たらしい学術論文で証拠立てるべきだ、といった理由で妨げられるものでは断じてなかった。技術のこの段階においては、RSPBは本質的に実務主義であった。新しくできてたいへん科学的な自然保護会議と張り合おうなどとは、少なくともその時点ではしなかったし、できるものでもなかった。

刺激的な考えであった。夜の寒気の中、私はキャンプベッドに横たわって、まんじりともせずに、背後を沼地にすることを考えていた。それはほんとうに重要なことなのだろうか。私の新しい仕事の中で、比較的軽いものなのだろうか。いや、こんな狂気じみた保護活動に身を投じるべきではない。いいや、しかし、こういうたぐいの職についたのは、決して自分勝手ではなく、鳥たちをその生息地で守る仕事をしたかったからだ。これこそ、医者に勧められたとおりのことである。ことをはじめるにあたって、いくら状況が貧弱だからといっても、気に病むことなどあるものか。サリー州とセント・マーティンズ・ル・グランドの以前の生活にあったものと、現在の状況とは比べるべきものではない。いわんや、給与においておや、である。RSPBが保護監視人ワーデンに雀の涙よりもましな給料を払えるだけ大きくなるまで、いったいどのくらいかかるのだろう。

古ぼけた軍隊用寝袋の中で、私はまた寝返りをうった。午前二時だった。寒くて静まり返った夜の闇の中は、賛否両論をはかりにかけるには最悪の環境である。家族や友人たちは、みんな私を支持してくれているのだ。因果応報は身の報い。おのれの足で跳ねるしかない・・・・これが神の摂理であった。呼吸の数をかぞえろ、そして眠るんだ。少しずつ身体が暖まってきて、とうとうすべての疑問から解放され、うつらうつらしかけた。

その時、私の小屋の薄いトタン板の壁のすぐ外で、まっくろな夜がすべてをおおいつくして支配している世界で、一頭の牝狐がいきなり血の凍るようなおそろしい叫び声を上げて無断居住をとがめ、私を死ぬほど驚かせた

夜明けまではまだまだ長かった。


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