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第九章 ミンズメアをつくる  8 女王陛下とミンズメア

   8 女王陛下とミンズメア


 一九六八年五月、土曜日の午後、女王陛下とランスダウン卿をお迎えして、ともにスクレイプの小さな作業用のハイドに座ったことも、同じく身の誉れであった。私が窓のひさし板を上げると、ほんの数メートルのところで、羽色が黒く変わった夏羽のツルシギが、輝くばかりにまっ白なソリハシセイタカシギのとなりで餌をとっているのが見えた。「まあ!」女王陛下はうれしそうに声を上げられた。「フィリップもこちらに来たことがあるのですね?」

 エディンバラ公フィリップ殿下は、一九六一年六月五日に来訪されておられた。六回にわたる王族がたのご来訪の最初のものである。沼沢地の端にまっ赤な自家用のヘリコプターが着陸すると、フィリップ殿下はオーブリー・バクストン、ハーコーム卿、そしてピーター・コンダ―という一行の先頭に立って、熱心な様子で海岸の防波堤沿いに歩いてこられた。そして、イギリス空軍の飛行機が海岸から離陸する際、低空を飛んで、鳥たちに大きな影響を与えるのではないかと尋ねられた。

「いいえ、殿下。今では慣れておりますので。」私は答えた。「ヘリコプターをいちばんこわがります」と付け加えると、殿下はにやりとされた。

 ご一行は、ブレイクニー保護区から回ってこられたところだった。翌日のデイリー・エキスプレス紙に、コラムニストのウィリアム・ヒッキイがこのノーフォーク訪問について触れ、「フィリップ殿下はバードウォッチングのためにヘリコプターで乗り込まれ、鳥をぜんぶ飛び立たせてしまった」と書くとは知るすべもなかった。ヒッキイは、殿下は三〇分しか鳥を見る時間がなかったと述べて、ミンズメアとハバゲイトの訪問についてはごく手短に触れたのみだった。

 フィリップ殿下はこの時ミンズメアに四時間とどまられ、多くの鳥をご覧になって、とりわけハイドからすぐ間近に鳥を見ることができたのを喜ばれた。昼食はいちばん遠いサウス・ハイドでとることになり、食事は一輪車で、沼地をわたって運ばれてきた。「こんな経験は初めてのことだよ」と殿下はおっしゃった。

 女王陛下は、ミンズメアへの初訪問の前に、ノリッジの東アングリア大学を訪問されていた。大学では、ひとにぎりの学生たちが無作法な抗議行動をとった。沼地に沿った観察路を歩き始めた時に、「ここにはどんな種類の鳥がいますか、アクセルさん」と陛下は質問されたが、少々おざなりに聞こえると思ったものだ。しかし鳥たちの美しさ、様々な種類が間近に見られること、そして外からのぞく人々もカメラもないことから、広く知られ、おおいに愛されている女王陛下の熱心さがすぐさまひきだされてきた。楽しそうにおしゃべりしたり、質問したり、見落としたものがないかと確かめたりしながら、いまだ未完成のスクレイプの縁で、小さな水たまりにさしかかると、女王陛下は皆と同じように、陽気に水たまりをとび越された。もちろん、陛下の足どりは確かであった。

 我らがパトロンである女王陛下の初の保護区訪問は、RSPBにとって偉大な日となった。これは、イギリス王家の侍従長であるサー・エリック・ペンによって事前に通知されたものである。サー・エリックと令夫人のレディ・プルーデンスは、女王陛下が滞在されたスターンフィールド・ハウスの近くに住んでおられ、ミンズメアの常連だった。そして、マーガレット王女とお子様方のレディ・サラ、リンレイ卿をお連れするお膳立てをされた。皆様方は、我々のリザーブ・センターの砂地でソーセージを調理するのをとても喜んでおられた。ケント公爵(エリザベス女王の従弟)ご夫妻もここで静かな日を過ごされた。当時は、こうしたお忍びの訪問を秘密にしておくことも可能だった。

 ペン夫妻はミンズメアを愛し、よく他のVIPの方々にもこの保護区を宣伝してくださった。一九七六年、この保護区全体を買い取るため、王室を発起人としたRSPBの二四万ポンドの募金活動を積極的に推進されたのは、ペン令夫人である。

 サー・エリックは、ある日、王室の伝統行事である「白鳥の水揚げ(スワン・アッピング)」を見に来ないかと誘ってくださった。友人一人を同伴してよいとのこと。私はこのチャンスに大喜びして、エリック・ホスキングといっしょに出かけた。女王陛下の白鳥管理者であるF・ジョン・タークがひげをきちんと刈り込み、たいへんスマートな制服姿で王室のはしけに私たちを乗せ、テームズ川をさかのぼる長い道のりに船出した。美々しく飾られた二艘のはしけが追随した。ロンドンの染物屋組合と、ぶどう酒商組合のものである。

 三羽のコブハクチョウの若鳥と母親が捕らえられ、嘴に刻み目をつけ、翼の羽がはさみ切られた。傷口は、昔ながらの海軍の方式に従って、タールで焼灼された。このほかに捕らえられた唯一の成鳥は、嘴からナイロンの釣り糸を垂らし、のどの中に釣り針が入っていた。

 テームズ川の白鳥が少なくなってしまった原因は、銃弾や釣り人の鉛のおもりを食べてしまうためだということが間もなくわかった。ミンズメアを含め、どこでも同じことがみられていた。コブハクチョウのつがいが六組もいて、ありがたくない状況だったのは、つい数年前のことだったのだけれど。ヒナを九羽もかえしたつがいが何組かあって、沼沢地に住む他の水鳥の平和を守るためには、白鳥が多すぎるのではないかと思ったものだ。一つがいの白鳥は、ほぼ確実に繁殖すると思われていたヘラサギのつがいの邪魔をした。ヘラサギが繁殖してくれれば、歴史的な事件になったのだけれど。


 一九七〇年当時、六五七〇〇名のRSPBの会員にたいし、釣り人連合には三五万五四〇〇名の会員がいて、釣りはイギリスでもっともポピュラーなアウトドア・スポーツになっていた。一九九〇年代の現在では、釣り団体の会員は四〇〇万名となり、釣りにかけられるお金は9千万ポンドにのぼる。毒性のないおもりを作るようになったため、コブハクチョウは復活しはじめた。RSPBのキャンペーンが効を奏し、鉄砲撃ちもアメリカにならって、鉛の弾丸のかわりに、高価にはつくが鋼鉄製のものをつかうことができるようになってきている。

 一九七二年当時、ミンズメアの保護区で繁殖する鳥は一〇〇種類に達した。わずか六〇〇ヘクタールの面積で、しかも四分の一はあまり生産性が高くないヒース地帯になっている地域としては、他に類をみない多さである。続く数年のうちに、スクレイプや他の生息環境が改良され、更に多くの種類が繁殖するようになった。お金ができさえしたら、ウェストマーシュに掘削と築堤で広い淡水湿地を復元するべきだという結論を、他の人も納得してくれるだろうと私は考えていた。拡大されたアイランズ・メアとツリー・メアの周囲については話が別で、ここには集中した植生のコントロールが必要だった。アシ原がハンノキやヤナギの実生木にとって代わられそうになっていたからだ。

 テレビに刺激されて、環境に対する一般の関心は一九六〇年代から一九七〇年代にかけて急速に育ち、自然保護団体に対する支持が表明されるようになった。一九六三年から事務局長をつとめているピーター・コンダ―のもとで、RSPBは見事な成長をとげ、一九七四年には一六万六千名の会員を擁するようになり、五七ヶ所の保護区が八九〇〇ヘクタールの地域をカバーしていた。

 一九七六年、じゅうぶんに功労のあった大英帝国四等勲士としてピーターが退職した後、イアン・プレストが職をひきつぎ、自然保護のディレクターとしてジョン・パースローが就任した。どちらも自然保護会議からの人材である。サンディのザ・ロッジにあるRSPB本部には販売部門と保護区部門が含まれ、ここの責任者はジョン・クルダスであった。二五万名にも達した会員の必要に応じるため、多数の職員が働くようになり、いよいよRSPB本部は爆発的な躍進をとげる。

 一九八九年、RSPBの創立一〇〇年の記念の年には、会員数は六五万名に達し、保護区の数も倍になった。一九五二年、私が初めてスタッフとなった年の会の年収は八一三四ポンドであったが、この年には一五四〇万ポンドに達し、一九九一年には二二一〇万ポンドになっている。一九九一年の会員数は八十八万五千人、職員数は七〇〇名となり、一一八ヶ所の保護区が七万四七〇〇ヘクタールをカバーするまでになった。イアンは彼のもとにヨーロッパ自然保護連合(Conservation Body in Europe);CBEを作ったが、この時RSPBはヨーロッパでも最も力強い環境保護団体になっていた。イアン・プレストは一九九一年六月に退職し、バーバラ・ヤングが理事長に就任している。

 保護区は、かつて私がミンズメアで行ってきたような生息地の大々的な改良計画のため、今なお強く資金を必要としている。私はずっと財源が許す限度いっぱいの仕事を続け、十分に長い道のりを歩いてきた。そしてRSPBの土地利用アドバイザーとして、自分自身をもっと活用すべき時期がきたと考えられるようになった。チャーチル・トラベリング・フェローシップ財団からの賞として与えられた、四か月にわたるアメリカとニュージーランドの保護区視察の世界旅行から戻った時が、この変化へのよい時期となった。一九七五年八月、ミンズメアの職を去るにあたって、私はジェレミー・ソレンソンに後事を託した。彼はRSPBのアウズ・ウォッシュズの保護区で湿地管理の十分な経験を積んでいた。

 一九七三年のはじめ、田園委員会と自然保護会議の助力により、ミンズメアはヨーロッパ会議によって賦与されるヨーロッパ遺産地域賞(European Diploma)を得る資格があると認定された。ミンズメア保護区は、この最高にすぐれた資質と認められる地域に必要な条件のすべてを満たしていた。しかし、長期にわたるこの地域の保護についての唯一の不安は、土地が借地であるということだった。

 一九七九年九月十三日、ついに、この最後の関門が取り払われた。保護区はRSPBに買い取られたのである。

 

 ヨーロッパ遺産地域賞の授賞式は、ミンズメア・リザーブ・センターで、翌年の七月十日、ヨーロッパ会議会長の臨席を得て行われた。

 ジョーンと私は、感傷なしには進行を眺めていられなかった。古い友人で、後に会議の議長になったスタンリー・クランプや、ピーター・コンダーがお祝いのために出席してくれた。ピーターと奥さんのパットは、保護区の近くにあるわが家、ウェスルトンのサフォーク・パンチ・コテージにお茶に来てくれた。私たちはお互いにもう長いこと会っていなかった。RSPBに偉大なる今日をもたらした、地面をかきとったり、こっそりくずものを集めたりした初期の懐かしい日々のことを私たちは語り合った。


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