第九章 ミンズメアをつくる 7 発展
7 発展
バードウォッチャーへの配慮と同じく、鳥たちに対する配慮も暖かい満足感を与えてくれるものになった。最大の報酬は、最初のソリハシセイタカシギのつがいが営巣したことである。四羽のヒナのうちの三羽までがアオサギに食べられてしまったことも、このぞくぞくするような偉大なできごとを損なうものではなかった。コロニー内の集団防衛で保護されていない単独のつがいには、捕食の危険は当たり前のことだからだ。パイオニアになったこのつがいは、ミンズメアの生息環境開発が正しい線に沿って進んでいることを示してくれたのだ。
ほんの数年のうちに、四〇つがいのソリハシセイタカシギが繁殖するようになった。同じく一〇〇〇つがいをこえたアジサシ類や、何百つがいものカモメ類が、アオサギやヨーロッパチュウヒといった捕食者がスクレイプの領域に近づきでもしようものなら、金切り声の大合唱で危険を知らせてくれるのだ。夜も昼も、季節を重ねるごとに、家族をかかえた忙しい鳥たちでスクレイプはにぎやかだった。自分もまた、この興奮の一端に加わっていると感じないでいられるはずがない。
こうした成功を導くためには、秘密にしていた構成要素もある。サイズウェル原子力発電所のアーサー・クックと職員たちは、当初から熱心に協力してくれていた。このプラントが稼働しはじめた一九六五年、冷却用の海水の取り入れパイプの格子には、魚や他の海の生きものがよくひっかかった。監視人助手をつとめてくれたピーター・メイクピース、デヴィッド・モア、そしてマイク・キャントのような一人か二人の思慮深い助っ人と私は、トラクターで海岸を走って発電所に入って行くのをたいへん楽しみにしていた。コンクリートの井戸を降りて行き、あらゆる種類の魚をはじめ、カニ、クラゲ、その他すばらしくバラエティに富んだ「海の果実」を袋につめこむのだ。私たちはミンズメアのスクレイプにこうした肥料になるものを何百トンも埋めた。ブルドーザーによって露出した不毛に近い状態の粘土が大半を占めていたので、我らが鳥たち、なかでも自力で餌をとる渉禽類のヒナなどにとっては、これらの栄養分は小エビなど、ヒナの餌となる無脊椎動物をたっぷりと発生させるため、たいへん役にたった。
この海岸ではたいへん珍しい一尾のマトウダイは、私たちが自分で食べた魚の中では最高に美味しかった。わが沼の鳥たちは、味にはやかましくなかった。コブハクチョウなどは、驚いたことに泥に埋められた腐った魚を掘り出して、ずいぶんたくさん食べた。特にきびしい冬の時期には、もっとも被害をこうむりやすい鳥たちを生きのびさせるため、サイズウェルから出る魚だけでなく、他の小魚を何ブッシェルもまいた。アイランズ・メア・ハイドの下で、アシ原へりの氷の上に出しておいた魚を、サンカノゴイ九羽、クイナ一四羽が同時に食べているのを見たこともある。
「神はスズメをも養い給う」 一九六三年の極地なみのような厳冬には、小鳥たちのためにも餌を出した。ロイ・ブラウンを通じ、コルチェスターのパートウィー社からくずトウモロコシと雑穀を六トン、トラック便で送ってもらった。長く過酷な何週間かの間、庭の一二×一二メートルの「フルーツ・バスケット」(標識調査用の小鳥のトラップ)で、二〇〇羽のアトリをはじめ、他のヒワ類を何百羽も養った。毎晩、私たちはたくさんの小鳥を捕らえてバンガローの箱に入れておく。翌朝になって放してやると、小鳥たちはまっすぐに大きなケージの種子のところに戻るのだった。
鳥の保護区で給餌を行うのは非倫理的とされる向きもあるが、気にすることはない。水禽協会のウェルニイの保護区では、冬の給餌で数千羽にのぼるコハクチョウ、オオハクチョウ、鴨や雁を養っている。RSPBのアウズ・ウォッシュ保護区でも、それに近い数の鳥を抱えているではないか。
もうひとつ、妬ましくなるほどけっこうなのが、ウェルニイ保護区の新しい観察センターで、冬には暖房が入り、ひじかけ椅子と望遠鏡まで備わっているというものだ。「ピーター・スコットのジン・パレス(酒保)」とあだ名をつけられ、遠くから人が見に来てまねをするような施設である。
ミンズメアの一六ヘクタールの「スクレイプ」では、五年の間に二一種、一五〇〇つがいにのぼる鳥が繁殖するようになった。同じ場所で、水がない密生した草原の状態では、六種類、わずか四〇つがいの鳥しか繁殖していなかった。サンドイッチアジサシはひと腹に二卵をうむが、二つの島でなんと七〇〇つがいもの鳥がぎゅうづめになって繁殖しており、一シーズンに一〇〇〇羽ものヒナがかえる。保護されたこの場所以外ではとうてい不可能なことである。アジサシは五〇〇つがいに達し、イギリスの海岸で繁殖する鳥として、最も稀な種類のひとつであるコアジサシは、この種が好む特に質のよい砂利、砂、貝殻をあつらえた島で二〇つがいが繁殖するまでになった。
あらゆるものごとが、希望し得たよりもはるかに上首尾に運んだ。ソリハシセイタカシギは一つがいあたり二・三羽のヒナを育て上げており、この種のイギリスの個体群にとってはたいへん幸運なことだった。当時、他の唯一のコロニーであったハバゲイトでは、捕食とヒナの食物不足のために、年々繁殖に失敗しているものが多かった。
ミンズメアでも捕食者によるトラブルは存在していた。人間の卵コレクター、キツネ、ミンク、ドブネズミなどがそれぞれ別の繁殖期、いずれも夜間に入った。こうした外敵は、徹夜の監視や、またそれが適切であるとされた時には銃猟やわな猟によって撃退された。
農務省の地元の有害鳥獣駆除官によって工夫された特別の計画に基づいて、殺鼠剤のワルファリンが用いられ、やっかいなネズミを一掃するのにはたいへん効果的だった。獲物と捕食者のバランスが長い間人間によって崩されてきた世界では、「生きよ、そして生かしめよ」のモットーは、偽善的であるばかりか、人間の手で希少にしてしまった生きものにとっては破壊的ですらあるのだ。
長い年月のうちには、この他にも避けようがない挫折があった。一九六六年早春の二回にわたる火災もそのひとつである。一度はイースト・ブリッジからツリー・ハイドに至るアシ原が七〇〇メートルにわたって焼けた。消火のためにひと版じゅうやぶを叩き続けていた上、溝に落ちたこともあって、ダンジネスで受けたひざの半月板のずれが悪化し、回復の望みを失う羽目になった。二度目の火災はダニッチ・ヒースから発し、森林にひろがって、住まいのバンガローからわずか一四〇メートルの距離にまで迫った。一〇チームの消防隊が火と戦った。私たちは二台の車とトラクターやトレーラーに積み込めるかぎりのものをつめこんだが、シープウォッシュ・レーンに出ることができなかった。火事見物にきた車で道がふさがっていたためだ。
もっと広範囲にわたる不幸な事態は、一九六〇年代にはどこでも見られたことだった。農薬や除草剤によって被害をこうむる鳥の増加である。植物から始まって昆虫、げっ歯類、小鳥、そして捕食者に至るまで、食物連鎖でつながれた個体群は大きなダメージを受けた。RSPBの努力の結果、政府はアルドリン、DDT、ヘプサクロール、そして他の残留毒性のある農薬の使用を禁止したが、収量増大のための技術は既に新しい問題を生じていた。ヨーロッパ経済共同体の奨励によって、ナタネの栽培が普及し、田園地帯には菜の花畑の黄色いパッチワークが盲目的にひろがって行った。ナタネはナメクジや甲虫類に豊富な食料を提供することになり、こうした害虫の侵入に対して、従来のものよりも更に広範な毒性を有する新しい農薬が使用されることになった。
私たちのところの十五つがいのセアカモズが半分に減ってしまった時、私が本部に送った無精卵の一つからは、自然保護会議の分析によって、残留農薬が検出された。モズたちがなおも減少を続けるのは、ミンズメアにとってとりわけ悲しいことだった。
私たちの「お客さん用」のセアカモズのつがいは、この種が保護区のセンター近くで繁殖できるようにと工夫した駐車場の繁みに巣をつくっていた。セアカモズはピーター・オールプレスの小屋の脇から飛び立って、小さな監査役よろしく、駐車場の上の土手に止まる。ローナ・ケネディが寄贈してくれた大きくて扱いが楽な望遠鏡で、何百人もの利用者が、ここで初めてこの種類を目にしたものだった。
駐車場のところのショウドウツバメの巣穴にセアカモズが飛び込み、ヒナをさらって飛び出してくる姿は、もう見られないのだろうか。こういうできごとは、見ていて貴重な体験になる。モズがどうして「肉屋鳥」と呼ばれるか、納得してもらえたものだ。モズがいなくなってしまった今では、教育上も重要なこの近しい鳥を見せることもできない。ショウドウツバメ、ナイチンゲール、ムシクイ類、ヨーロッパカヤクグリ、カラ類、マキバタヒバリ、キアオジなどのヒナをセアカモズが捕って、肉の貯蔵庫よろしく鉄条網にひっかけておくのを見ると、とびあがって叫ぶ人もいる。「なんておそろしい!こんなケダモノみたいな鳥をなんで追っ払ってしまわないの!」
彼らを救うことができさえしたら。最後の一~二つがいを守ろうという努力にもかかわらず、一九九〇年以降、イギリス国内ではセアカモズは繁殖しなくなってしまった。しかし、殺虫剤使用の減少と、この種の繁殖地の北西端であるイギリスの気候変化によって、大陸からいくらかのものが戻ってくる可能性はある。最近、ユーゴスラヴィアの保護区で仕事をした時のこと。七月のある日、グレアムとジュリアン・ベル、そして私は、ドライブしている間に六〇羽ものセアカモズを数えた。
ハンサムなイギリスのセアカモズがいなくなったのは、生け垣の消失のためでもある。現在、年間に七二八〇キロもの割合で生け垣が失われている。多くの生け垣は、何百年もの歳月を経た古いものであり、非常に変化に富んだ樹種は、同様に多種多様な鳥や他の動物を養っていた。一九二〇年代、私が小さな少年で卵を集めていたころ、戦利品の大半は、こうした雑然と茂った生け垣の藪で手に入れたものだった。サンザシやヤブイチゴやツタが低木層をなし、広くもつれた基礎はイラクサや牧草のしげみだった。
イギリスの田園の小道でさえずる小鳥が少なくなっているのは、ふしぎでも何でもない。イギリス人の五分の四は市街地に住んでいるにもかかわらず、大半の人々が国土の自然に対する良心を持ち合わせている。これは、何らかのいわば補償作用に違いない。
ながらく失っていた自然との絆を回復する手段として、ペットとの絆は深まっている。(「アニマル・コンパニオンズ:動物の伴侶」には、動物の権利に対する活動家も含まれる) 百万ヘクタールもの庭園には巣箱がかけられて、鳥に与える餌には年間一五〇〇万ポンドものお金が費やされている。もちろん七〇〇万頭に上る猫や、もっと多くの犬には更に莫大な金額がかけられているわけだ。
朝ごはんを出してやるのが遅れた時など、よく馴れたクロウタドリの「ブラッキイ」が室内まで入ってくるような家も少なくない。クロウタドリは、今ではもっともふつうに見られる種類だが、前世紀までは警戒心の強い森林性の鳥だった。イギリスのロビンは、ヨーロッパ全土にすむロビンのなかでも、いちばん人馴れしている。
浜辺の鳥にはいっそうの手助けが必要になっている。なかでも、海岸の生息地での繁殖が危うくなっているコアジサシなどの鳥が繁殖に成功したことは、ミンズメアの「スクレイプ」で、何にもまさる重要な成果だった。同じく、各種の変化に富むシギ・チドリ類が渡りの途上に採食のために集まることも、大切な成果である。「スクレイプ」では、秋ごとに水位を下げ、塩分濃度を上昇させて、自然状態の海岸の汽水湖に見られる季節変化に倣った。こうして植物の生育を抑え、小型の無脊椎動物が豊富な場所を露出させるようにする。次の段階は、泥を酸素に触れさせることだ。ブルドーザーで新しく掘り返した泥はみっともないが、冬の間に風化される。次に翌年の早春にはスクレイプ全体を冠水させて、大量の小エビや魚が入るようにしている。
水辺にもっとハイドができることは、小型シギの識別のむずかしさがわかってきた利用者にとって、とりわけありがたいものだった。キリアイ、サルハマシギ、チシマシギ、ソリハシシギなどの珍しい種類が記録され、一度などはイギリスではきわめて珍しいトウネンが、十一週間にわたって滞在したこともある。アメリカからの珍客の小型シギたち、コシジロハマシギ、アメリカウズラシギ、アシナガシギ、ヒメウズラシギといった種類は、ハイドのすぐ近くで採餌しているところが見られた。
七月末から八月はじめにかけては、採餌条件をうまく整えられた時には、いろいろな種類を見るのに最もよい時期だった。一週間に二五種類かそれ以上ものシギ・チドリ類が「スクレイプ」で記録された。イースト・ハイドからは、一七種類もが同時に見られたこともある。
少しずつ、少しずつ、ものごとは前進した。秋が来るごとに、二〇〇~四〇〇ポンドの予算がかろうじて捻出された。鳥にも、利用者にも、仕事に携わる我々自身にもとてもありがたいことだった。しかし、当時の我々は、この仕事の真価を十分に認識していたわけではなかった。
「スクレイプ」を作り出したことの重要性にいくぶん気がついたのは、ロジャー・トリー・ピーターソンが初めて訪れた時だった。エリック・ホスキングといっしょにイースト・スクレイプのハイドに座って、観察窓のおおいを挙げて一望したとたん、この人は声を上げた。「ああ神様!すばらしい!」
世界的に有名なアメリカの鳥学者、生きている人のうちでもおそらく最も多くの鳥の生息地を見たであろうこの人の、ひざがふるえるような感動の様子こそ、おおいなる声援であった。




