第九章 ミンズメアをつくる 6 「スクレイプ」
6 「スクレイプ」
一九六〇年代のはじめ、新しく夏の間の助っ人になってくれた若いアラン・モーリーといっしょに、私は一マイルにわたるフェンスを作った。ミンズメア・クリフから「水門」にいたる海岸の防護堤の内側だ。借地権によれば、砂丘の上にフェンスを作ってもよいことになっていたが、そんなことをしたら一般の人から反感を買ってしまう。へたな作り方をして、人が海岸に出る権利を奪ってしまうようなやり方は避けなくてはならない。
巻いた針金や有刺鉄線、何百本もの支柱を作業現場に運ぶのは、二台の自転車だった。RSPBの特別のアピールで獲得されたものだ。わずか一七五ポンドの予算では、道具もろくに買えなかった。
ある日、二人のご婦人が能率の悪い仕事ぶりを静かに眺めていて、私たちの包帯を巻いた手に気づいた。彼女たちは立ち去ったが、戻ってきて、針金をのばす道具をプレゼントしてくれた。イギリスの偉大なる民衆は寛大な心を持っていた。ある国の文明度を測るのは、動物に対する心遣いにあるというのは真実と言えるだろう。RSPBには失敗は許されなかった。
ミンズメアの初期の日々のうちにはっきりわかった真実のひとつ。自然の保護というものは、ただ単になすべきことをなす、というだけではなく、成し遂げたことを見せなくてはならない、ということ。
フェンスができて、岸から保護区をのぞきこむことができなくなった。そこに何があるのか、何をやっているのかという疑念を和らげなくてはならない。そのためには、眺望がよく、無料で利用でき、快適な座席を持つ公共用のハイドを設けるのがいちばんである。
私たちは、海岸に流れついた材木でハイドを作り上げた。波型鉄板の屋根は、ウェスルトンの心あるご婦人方が、ジル・ホートンを通じてご寄付くださったものだ。こうした設備は初めてで、すばらしくよいPRになった。これまでどおり、砂丘には自由に入ることができたし、一般の人は無料で何かをやってもらえたことになる。私たちが沼地で行っていることを、どうぞご覧くださいと招待されたわけだ。
外側の土手にあるこのハイドからは、許可を得た人がもっとよさそうな場所にあるハイドを利用しているところが見える。公共ハイドには、入場料を払うか、もっとよいことにはRSPBの会員になれば、こうした特権が行使できると掲示してあった。策略がめぐらされ、海岸の境界線のところに、もっと大きくてよくできたパブリック・ハイドが建てられた。昔からのダンジネス鳥類観察ステーションの常連の一人で、ウェスルトンに越してきたジェフリー・ポールソン=エリスの寄付によって、これまでで初めて、お金を払って買った材木で作られたものである。
ミンズメア保護区の最大の改良で、着手の当初からはっきりと価値が認められていたのは、「スクレイプ」だった。水鳥のために特別に計画され、繁殖のための島を備えた浅い湖である。こうした湖をダンジネスで作ろうとして挫折していた私は、ミンズメア沼沢地の中で、広大だがあまり役に立っていない部分の潜在的な可能性を見つけて喜んだ。海岸に近い一六ヘクタールほどの地域は、戦時中、防衛のために冠水させた水を排水した時、水位を保つには地盤が高すぎた。この場所には普通種の鳥が少数見られるだけだった。試掘してみたところ、シラゲガヤ、ヤブイチゴ、貧弱なアシなどが生えた下には、一・二メートルの厚さがある不透水性の粘土層があることがわかった。
潮が低い時、ミンズメア水門を通って淡水が排水されるよう、排水溝が周囲を囲み、また中を横切るように作られていた。ミンズメア水門は一世紀も前に作られた単純なたれ板弁(flap―valve)のもので、流れてきた切れ端がはさまって全部がしまりきらず、海水が入ることもよくあった。つまり海水と淡水をまぜて、塩分濃度が低い汽水の状態に調整した新しい生息環境を作ることができるわけである。
名高いミンズメアの沼沢地の一〇分の一が乾燥した不毛な状態になっていてはいけないということは、RSPB本部も重々承知だった。しかし、湖や島をつくるため、重機の賃借料を確保するというのはまた別の問題である。フィリップ・ブラウンとピーター・コンダ―は、オランダのナーデルメール保護区を見てきていた。そこでは監視人は訪問者をボートに乗せて、アシや樹木にふちどられた広い水路を通って案内していた。
「沼を通る利用者のために、君にはボートをこいでもらわなくちゃな」と彼らは言った。水をコントロールするためには、新しい大きな水路のほうがよいと考えていたからだ。あるコンサルタント会社に計画策定が依頼された。しかし、ありがたいことに、新しい排水路はボートをこぐには狭すぎるし、沼沢地の主要部分は恒久的に海水面よりも地盤が低いために、水路を海と続けるわけには行かないということがわかった。
捨てる神がいれば、拾う神があるものである。排水溝はノリッジのヘイホー社によって掘削された。会社から浚渫用のドラッグラインと運転技師が派遣されるにあたって、会は私自身の計画に対しても、わずかにせよ、資金を出さなくてはならないと考えてくれた。そこで、私はすぐさま、海岸近くの冬に水が入る小さな池の脇で、冠水できるとわかっている場所の草のしげみをかきとって(「スクレイプ」して)、わずか一ヘクタール弱ではあるが、島が三つある浅い湖をつくることができた。これにかけられた経費は一一五ポンドであった。
この新しい仕事には、何がなんでも手助けが必要だった。一九六〇年一〇月に、ピーター・メイクピースが我が家の食客として「二、三週間」滞在してくれることになった時、ジョーンと私は喜んだ。ピーターは、なんと翌年の四月まで残ることになった。ミンズメアの開発という新しく先進的な仕事に参加するスリルのほかには何一つ報酬もなしに、毎日毎日、日がある間じゅうずっと、嬉々として働いてくれた。今では「スクレイプ」と呼ばれるようになった人造の浅い湖で、私たちは排水路に水を入れたり、排水したりするための水門を二基設置した。海岸に流れついた材木と、農場から出るビニール袋に土をつめた土のうで作ったものだ。この二ヶ所の水門は、それぞれ「九ペニー水門」「一〇ペニー水門」と呼ばれるようになった。これは、水門を作るために購入した釘の値段だった。それが必要経費のすべてである。
ことここに至っては、ひとつがうまく行くと万事がとんとん拍子に運び、嫉妬を招いても仕方ないほどの成果が続けざまにもたらされることになった。沼沢地の改良のためにもっと資金を獲得するためには、一一五ポンドの投資の価値が証明されなくてはならない。春がきて、「スクレイプ」に作られた島のひとつで、一つがいのアジサシが巣を作った。そして、アームストロング准将が新たに組織した自然保護少年団(Conservation Corps)の少年少女たちが作ったもう一つの小さな島でも、もう一つがいのアジサシが巣を作った。そして、渡りの期間を通じて、驚くほど多種にわたる数多くのシギ・チドリ類が、塩気のある泥地と淡水がまじった新しい採餌場所にひきつけられて入ってきてくれた。おかげで、次の年の秋には二〇〇ポンドの予算を獲得することができた。
ウェスルトンのレディッシュ社との幸運な提携が始まった。地元の農業技術会社である。十一年間にわたって、「スクレイプ」の表土をかきとる事業のすべてはこの会社にやってもらったのだが、かかった経費は合計わずか三〇〇〇ポンドで済んだ。鳥とバードウォッチャーの双方のための生息環境の改良技術について、詳細は一九七三年に国際水禽研究局(IWRB:International Waterfowl Research Bureau)の「湿地管理マニュアル」に報告されている。
ノーフォーク・ナチュラリスト・トラスト(NNT)の管理委員会は、ミンズメアに視察に来た後、すぐにクレイにあるNNTの保護区にこの方式を応用した。数年のうちに、ここにもソリハシセイタカシギのコロニーが定着し、たいへんうまく繁殖に成功している。NNTのワーデンであり、私の旧友でもあるステュアート・リンセルは、有名なヒックリング・ブロード保護区を同じく実にみごとに改善した。この人のところで繁殖したソリハシセイタカシギのうちの一羽は、その一〇年前、ヒナの時に私がミンズメアでカラーリングをつけたものだった。他の保護区も同様の方式でこれに続き、イギリスにおけるソリハシセイタカシギの繁殖地が何か所も確保されることになった。
現在では、世界各地の保護区でそれぞれの「スクレイプ」が造成されている。各々のスクレイプは、その地域特有のエコロジーに従い、多岐にわたる構成要素に基づいて作られている。必要なことはそれぞれの場所で異なっており、スクレイプの造成はきちんとした教科書的な科学にはできない。
かくあるべし、という最良の姿を、巧みな操作によって生み出してゆくというこの事業は、わくわくするばかりか、おそろしく面白いものであった。秋がくるごとに、資金が底をつくまで、何エーカーかの不毛の土地を、それこそ一インチの単位まで正確な深さで押しやって、水面をひろげてゆくのだ。精密な作業ができたのは、戦時中に覚えた測量技術と、重機の操作者であるジョー・ブロックの熟練、そしてこの人のがさつな大型機械のおかげである。
水門から淡水の中に海水がもれて、鳥の餌になる甲殻類にとってももっとも具合のよい低い塩分濃度を確実に保つようにすること、ノース・マーシュをせきとめて淡水の貯水池にすること、ビール業者の液体比重計で正確な比重測定をして、塩分濃度をモニターすること。保護区から一マイル離れたところにあるハングマンズ・ホギン・ピット(首吊り豚野郎の穴)から、新しい島の表面に敷くために、氷河によって運ばれて堆積している砂利を何千トンも搬入してくること。丈の高い草が生長して、アジサシやソリハシセイタカシギが好むような開けた表面をおおってしまうことがないように、農場からもらってきた廃品のビニール袋を開いて三重にかさね、島の表層に敷くこと。これは大きな島では三千枚にもなった。沼沢地に侵入してくるミズドクサの類やその他の水生植物を、幅のひろい「すくいとり除草器」で除去すること。この除草器は、海岸で拾った厚板と、海中投棄されたナイロンのケーブルでこしらえたものだ。
こうした仕事は、ケントで農業をしている古い友人のディック・イングリッシュから一〇〇ポンドで購入した小型のファーガソン・トラクターで行われた。現在では、ある程度の広さの保護区のほとんどは、大型トラクターと、はるかに洗練された予備の装備を備えている。しかし、この最初の小さな灰色のファーギイ二〇は、生息環境管理の革命のスタートを切ったのだ。ディックは気前よく、プラウ(鋤)と古いオックス・ハロウ(まぐわ)をおまけにつけてくれた。
コルチェスターの木彫家であるドナルド・シンプソンは、ベルト付きの完全な丸鋸をくれた。まもなく私たちは、知人のデヴィッド・チャンスから水圧式のフロント・カッターを買うことができた。近くで農業を営んでいるこの人の機械は、自然保護とは無縁で、むしろ灌木林や藪をどんどんつぶす仕事に使われていたものだ。しかし、あらゆる装備の中でも最も安価で、かつ重宝であったものは、いつも助けてくれるマイク・キャントのおかげで五ポンドで手に入れたフォード車の心棒と車輪、そして浜辺で拾ったがらくたを使ってピーター・メイクピースが作り上げた、一・五トンの積載量があるトレーラーだった。
この一〇〇ポンドの価格のトラクターは、五年間にわたって毎日のように働いてくれた。その後、私たちはこれをアフリカへの輸出用に七五ポンドで売り、ディックからもっと大型のトラクターを買った。 「農業用の」ディーゼル燃料は、一ガロンにつき一ポンド一〇と四分の三シリングというたいへん安い価格であった。友人たちや、ボランティアの助っ人さん、入場料を払った利用者といった誰彼を乗せて、森やヒースの原を抜け、歌いながら、何度となくトラクターを走らせたものだ。こうした楽しい遠乗り(ジョイ・ライドと呼んでいた)に燃料を消費するのは、農業用とは言いがたいけれど、良心はちっとも痛まなかった。実用的な楽しみであり、補修作業や鳥の記録のために、やぶや下生えを踏みつけて新しい道を作るためのものだったからだ。
トラクターの運転の基本をおぼえたのはおもに若い男性で、女の子は比較的少なかった。デヴィッド・アテンボローは、一九六五年に一家で滞在していた間に、息子さんのロバートがトラクター運転の「資格をとった」時にはたいへん喜んでくれた。この時デヴィッドは新しいBBC第二放送と契約中で、本来の彼の性格とはそぐわない、室内作業中心の青白い顔色に見えた。一九七二年になって、彼は野生の中に戻り、テレビの自然番組の中で、世界の自然の監視役、そして騎士道精神の持ち主として、名声を博している。
高齢者や障害を持つ人も、小さいファーギイのおかげをこうむった。八〇歳をこえたミルドレッド・クロスビーは動作が不自由だったが、ドーセットで農業をやっているナチュラリストのアンジェラ・ヒューズといっしょに長いことミンズメアに通っていた。ある日、ミルドレッドは海岸からずっと離れたところにある新しいイースト・スクレイプのハイドに、「行って見られたらねえ」とうらやましそうに言った。トラクターに乗れば行ける、というのは彼女のアイデアだった。彼女は勇敢にも鉄製の運転席によじのぼり、ピーターと私が両側の泥除けに座って彼女を支えている間、沼沢地や砂丘を抜けてトラクターを操縦して行った。
九〇歳に近いハーコーム卿は、戦時中イギリスの輸送機関に携わり、叙勲された人だが、同じく法をおかしてトラクターに乗り、保護区の中の鳥を見るのによいコーナーまでぼんぼん揺られてゆくのをとても喜んだ。他の手段では二度と目にできなかった場所である。
近くにあるサイズウェル発電所の役員であるアーサー・クックが座席が九つある発電所の予備のべドフォード車を寄贈してくれた時、ハーコーム卿をはじめとする人々はいっそう喜んだ。ついに、私たちは尊敬すべき交通手段を手に入れたわけだ。
「スクレイプ」の発想の中でも主だったもののひとつは、利用者がここの鳥をすべて見ることができるようにする、というものだった。ちょうど競技場のようなものである。ただし、観客はスクリーンの背後にいるので、いくら人数が増えても、鳥の行動には影響しないという点が競技場の構造とは異なる。スクレイプの周囲三キロにおよぶ遊歩道には、六ヶ所のハイドが設けられて、いわば小さな「観覧席」になっている。初めて鳥を見るスタートにはぴったりのものだ。ハイドのうちの二ヶ所は保護区の中心部に近く、時間後に到着した人にも、また一日の制限人数である一〇〇名をこえた後でも利用できるようになっているので、何も見ることができずに帰る人はいない。
沼沢地の端にスクレイプのできごとのすべてが見渡せる絵のような光景が見える窓を備えたビジターセンターが作られるのは、まだまだ先のことであった。こうした施設を作るのには莫大な経費がかかるのだ。また、こうした考え方は、一部の人にとっては革新的すぎた。しかし、アメリカ流の最新式の「解説のための」建物は、やがて流行になった。
そして、私たちは車椅子のバードウォッチャーを初めて迎えることになった。
障害のある人にとって、付き添いの人が遊歩道を一周している間、レセプション・センターで待っているのは、それほど悪いものでもなかったとは思う。一九五九年、この鳥のために掘った崖にショウドウツバメのコロニーができていて、とてもよい見ものになった。ピクニック用のテーブルにも、何種類もの人馴れした鳥たちが来ている。駐車場のへりでも、よい位置に止めた車からは、アシ原から森林にいたる様々な生息環境に住むもっと野生的な小鳥たちをよく見ることができた。
しかし、障害のある人々の尽きることない忍耐力も、なすすべもなく、ただ待たされているだけでは傷ついてしまう。私たちはサイズウェル発電所の友人たちからもらった使い道のあるがらくたや、暗渠用パイプのストックを使って、スロープや橋を作り、ハイドのドアを広げたり、内部を改良したりした。そこで、車椅子の利用者は、ハイドのうちの四ヶ所まで車で行くことができるようになった。これは車椅子で利用可能というピン・マンの車椅子のロゴマークがどこにでも見られるようになる前のことだった。ジョイス・グレンフェルは、古くからの友人で、悲惨にも中風に侵されたヴァイオラ・タナードを連れて、こうしたハイドに入れることをとても喜んでくれた。ヴァイオラは、戦時中イギリス交響楽団で演奏していたころからの伴奏者だった。
こうした新しい設備はほとんど広告されてはいなかったが、一九七四年、RSPBの会員で、自身でも車椅子を使っているアンソニー・チャプマンの主導により、障害者生活協会が、映画「ただ見ていないで」の中でミンズメアのハイドを紹介している。




