第七章 灯台の夜 2 灯船
2 灯船
灯台のもとで過ごした夜は、一夜として同じものではなく、たいていは疲労困憊の極みに達するようなものだった。明け方になって、疲れきってバルコニーから下りてくると、灯台の足元の庭におびただしい鳥がいる光景を目にして元気づく。そのうちの何羽かについては、リングをつけて体重をはかり、各部を計測し、夜をともにわかちあったものだ。しかし、前夜にはもっとたくさんの鳥がいた。あの一〇〇〇羽のノドジロムシクイ、一〇〇〇羽のヤナギムシクイ、そして五〇〇羽もいたはずの大陸産の胸の白いロビンは、どこに行ってしまったのだろうか。
夜の間が忙しかったということは、観察ステーションのヘリゴランド・トラップのまわりで朝も忙しくすごすということを意味しているー朝食は歩きながら食べるということだ。
どんよりと雲が灰色にたれこめた、しかし目をみはるようなめざましいある夜明けは、私にとっては午前三時の灯台員からの電話ではじまった。一九五七年五月五日のことだ。塔のバルコニーから下りてくると、小さな庭じゅうにまるで壁をめぐらしたようにおびただしい鳥が鈴なりになっているのを目にした。いつもながら、こうした光景を目にすると、疲れなどどこかにふっとんでしまう。私は砂利場を横切って観察ステーションに急ぎ、眠っていたわずかな訪問者にこの素晴らしいニュースを伝えた。この日は歴史に残る、未だ破られずにいる記録的な日となった。なんとひと朝に六八七羽もの鳥にリングをつけたのだ。「リングをつけては投げ」た日であった。この時ばかりは、鳥の体重や各部の測定値などのデータの蓄積よりも、多く標識することを優先した。
標識をつける鳥は多ければ多いほどよかった。たとえばムシクイ類のような小型の鳥の回収率は、一〇〇〇羽につき一羽程度にしかならないからだ。渡り鳥は莫大な数であり、毎年秋に地中海を横断する鳥は、数十億羽に達している。ここイギリス東南部は、この渡りの盛んな地域の西のへりにあたる。この場所でできるだけ多くの鳥にリングをつけるのは、渡りを調べる上で非常に効果的である。
こうした鳥たちのうち、越冬地から戻ってくるのは半数以下だった。海上やサハラ砂漠で逆風に吹き落されて死ぬものも多い。若鳥のほとんどは、全く経験なしにこうした渡りをなしとげているのだが、灯台などによる恐ろしい被害を別にしても、人間によって一五パーセントもの数が殺されていた。
探照灯で灯台の塔を照らすことで、衝突して死ぬ鳥の数を減らせるということは、すぐにはっきりした。年間数百羽だったものが数十羽になったのだ。そこで私たちは、電源がなくても使用できる持ち運び可能なティリーの油圧式ランプを一九五四年にダンジネスで試してみた。まもなくRSPBは、イングランドとウェールズの七ヶ所の観察ステーションで、探照灯の操作を始めた。しかし、ヨーロッパ大陸や北アメリカで、塔本体を照らして見えるようにするだけでは、問題の完全な解決にはならないことが示された。無線設備のためのワイヤーや風見がとりつけられたてっぺんのドームは照明されておらず、ぎらぎらする灯台の光のすぐ上にあって、漆黒の闇になっているからだ。この屋根の部分を照明するのは難しかったが、ワイト島のセント・キャサリン灯台でようやく成功をおさめた。
ウェールズ北部のバードセイ灯台で行われた実験もめざましいものだった。これは、灯台のまわりの地面ややぶを照明するというもので、鳥たちは明るく輝く場所にひきつけられ、安全に休むことができる。ただし、灯台員の猫がとじこめられている限りは、ということだ。
ここは悪評高い灯台で、一九〇九年十一月四~五日にかけての一夜にして、なんと二六〇〇羽の鳥が死んだという記録がある。おもにホシムクドリ、クロウタドリ、ワキアカツグミ、ウタツグミなどだが、この時に通行税として犠牲になったほかの多くの種類の中には、クイナ五〇羽も含まれていた。照明の実験当時、観察ステーションのワーデンであったレグ・アーサーは、毎年約一〇〇〇羽が犠牲になっていると報告している。こうした大量虐殺は、最終的には大幅に減少した。
RSPBの仕事として、私はバードセイの視察に行った。歴史的なこの島と野生生物のサンクチュアリを、観光旅行のための開発から守ろうとしている運動のリーダー、スーザン・カウディといっしょだった。この旅行では、私たちは四晩続けて灯台のバルコニーでものすごい夜をすごした。アウター・ファーンのロングシップスで携帯ランプの効果について、またセント・キャサリンの止まり木の効果についても、同じく報告するために出向いた。フェア島やシリ―の灯台でも、夜を過ごした。これらの経験はエキサイティングで、ユニークで、およそ望みうるかぎり、十二分に苦労のしがいのあるものだった。
一九五二年にこの研究が始まって以来、私はジェフリー・ボスウォールに、海上の灯船ではどんなことが起きているのか見てみたいと話していた。ジェフリーもやりたいと思っていたことであり、すみやかに手配を進めて、水先案内人協会の同意により、スミス・ノル灯船に四人のオブザーバーが交替で、それぞれ二週間ずつ続けて乗り込むことができるように取り計らってくれた。私が最初で、一九五三年九月一三日に乗船した。続いてE・G・ロングマン、次はジェフリー自身、そしてD・B・ピークオールが交替した。
スミス・ノル灯船は、グレート・ヤーマスから四二キロ東の沖合いに位置し、オランダからは一四〇キロ離れている。同じ位置に着実にいるためのエンジンがあるわけではなく、巨大な錨鎖に繋留されたまま、無慈悲な風波で揺られ、鎖の先端でうねりまわっていた。私は風力七の大荒れの海で補給船に乗って到着し、船の上下動がいくらかおさまった時にジャンプして乗り込んだ。灯船が上がったり下がったりするさなかで、船長は同情をこめて、船室で休むようにと私に言ってくれた。
いくらもたたないうちに、私はゆすぶり起こされた。なんと、鼻先にごついこぶしが突きつけられているではないか。
「あんたさん、こんなのを探しているんじゃないんかね」 訳注;この時の灯船員は、偶然にも後にアクセル氏の同僚で親友となったピーター・メイクピース氏の実のおじさんであったことが後になってわかった;メイクピース氏談。
黒い丸い頭と、小さなかぎ状のくちばし、そしてまじまじと見つめている大きな黒い目。こぶしからはみだした小さな鳥は、私が初めて間近に見るヒメウミツバメだった。そしてこの鳥はすぐさま、イギリスの標識事業中、初めて海上でリングをつけられた鳥になった。
鳥学者が乗船するのは、船長にも灯船員にも初めてのことだったので、彼らは日中に通過して行く鳥や、夜間にライトにやってくる鳥の観察を喜んで手伝ってくれた。四週間の交替勤務は時間がたつのが遅く、ひざかけを編んだり、ボトルシップを作ったりするのが気分転換になる。ロープを引いてかたく節くれだったぶこつな指から、こうした繊細で熟練を要する手わざがいかにして生み出されるかを見守るのは、すばらしく魅惑的だった。
この五人の男たちは、船上に休息を求めてくる数多くの鳥たち、とりわけ夜間に衝突してきたものに対して、たいへん同情的だった。ホシムクドリが―彼らは彩り豊かな羽衣から、ホシムクドリのことをジェイコブ(聖書のヤコブ)と呼んでいたー隠れ場を求めて霧笛の中にもぐり込み、当然ながら、とどろき鳴りわたる霧笛に吹き飛ばされてしまった時には、とても悲しんだ。また、流出した重油に汚染されてしまった海鳥が、潮に乗って救いようもなくただよっているのを見た時にも、いたく気に病んだ。ある日、私は長い柄のついた網でひどく油で汚れた二羽のウミガラスをつり上げた。この鳥たちを悲惨な状況から救ってやらなくては、という私のことばを聞いて、灯船員たちは震えあがってしまった。こうした鳥は、二度と安全に羽をきれいにしてやることはできず、羽づくろいをしようとして呑みこんだ重油は、彼らの腸からゆっくりと体を侵してゆくのだ。おそらく「老水夫」の詩にあるアホウドリのたたりという見方と共通しているものだろうが、船員たちは私がこの鳥を殺すことを拒否した。私はウミガラスたちを海へ戻し、飢えか、大型の魚かカモメによる確実な死へと向かって放してやらなければならなかった。
乗組員たちとのつきあいはとても面白かった。彼らは、魚のフライを作る時、どうやってやるかを見せてくれた。まっかにおきた炭火の上で、巨大なフライパンを支えるのだが、炭火は船が揺れるので少しもじっとしていてくれない。天井のしんちゅうのハンドルにいつも片手を回して、船といっしょに体ごと揺れているのだ。トロール船の船乗りたちー当時はそのあたりにイギリスの漁船がたくさん出ていたーはこうした灯船に感謝していて、ときどき船尾近くに寄ってきては、私たちが浮きをつけて流したロープの先に、魚をいっぱい入れたバケツを結びつけてくれた。灯船員のひとりが、ヒラメなどの最高級の魚を半ダースも皿に盛り上げて、ヒレだけ残して皮をむき、ヒレのところで魚を丸ごと一尾持ち上げて、豪華な白身の肉を、まるでスイカでもたべるような具合に器用に食べているところを見るのは珍しくなかった。つらい仕事に対するものとしては、あまりにもささやかなぜいたくではあったけれど。
船が静止していることはめったになかった。闇夜、鋼鉄のけたでできた塔の上のランタンのところで、せまい円形のプラットフォームに上がり、ノート、ペン、捕獲網を手にしているような場合は、むろん座っている方が安全である。船の揺れにつれて、十二メートル下の揺れている甲板の上や、うねる海の波の上で、交互に足をぶらぶらさせることになった。
この遠出はまさしく骨折りがいがあるものだった。鳥学的な興味のためばかりでなく、「タイムズ」紙やラジオ局を含めた一般の報道機関の興味をもひきつけた。最終的な結果はブリティッシュ・バーズ誌の一九五六年十月号に掲載されている。八週間の調査期間の後、我々のチームはあらゆる天候下において、陸上から見ることができない鳥の渡りに関する知見について、有益な原稿を出すことができた。これまでに灯船での観察は、二回、いずれも短期間に行われただけだった。一九〇三年のイーグル・クラークと、一九五二年のD・F・オーウェンで、どちらも北海の最南部に位置するケント州のノック灯船におけるものだった。
スミス・ノル灯船の八週間にわたる調査期間中、六五種、二四〇〇〇羽にのぼる鳥が記録された。このうち三分の二は日中に記録されている。休息のために船上にやってきたものも多かった。天候がおだやかな時にも、である。それすらできないほど弱っている鳥もあった。私は、ウタツグミがあとほんの数メートルで灯船にたどりつくというところで海に落ち、溺れる前のいっとき、翼を開いたまま海面に漂っているのを一度ならず目にした。ワキアカツグミが滑りやすい船尾のデッキのヘリにやっと届いたものの、つかむ力もなくて、海に落ちて行くようなことも時にはあった。
もっと楽しい観察もあった。鳥が乗る船を自分で選んでヒッチハイクをしてゆくという姿である。船を利用して旅行していた鳥のうち、もっとも面白い例は一羽のイスカだった。南西航路の汽船の策具に止まっていたが、私たちの灯船に飛んできて、空中アンテナの線に止まり、しばらくの間、ガラスの絶縁体をかじってすごした。結局のところ、これは松ぼっくりのたぐいではないとわかったらしく、イスカは別の船に向かって飛んで行った。しかし、その船が違う方角―北西―をめざしていることがほどなくわかったので、また灯船に戻ってきた。そして、イギリスに向かう船が視野に入ってくるまで灯船にとどまり、乗船して行った。
日中渡って行く鳥のほとんどは、西または南西方向に向かい、東アングリア地方をめざしていた。ホシムクドリがもっともふつうに見られたが、ヒバリ、ズアオアトリ、ミヤマガラス、コクマルガラス、ウタツグミ、ワキアカツグミ、クロウタドリも多数見られた。他のものははるかに少なかったが、大きめの猛禽類、たとえばコミミズクなどから、最小のものはわずか五グラムのキクイタダキにまで、多岐にわたっていた。昔の本には、キクイタダキがフクロウの背に乗って北海を渡るに違いないと書かれていたものだけれど。
二四種類、一〇七二羽にのぼる鳥にリングがつけられた。捕獲がたやすかったホシムクドリがほとんどで、日中または夜間に船に休みにきたものだった。しかし、コシジロウミツバメ九羽、ヒメウミツバメ八羽、バン一羽、クイナ一羽、チョウゲンボウ一羽も含まれていた。このチョウゲンボウは、一六日後にフランスで撃たれた。そして十一月四日には、これまでで最も遅い記録例となったヨーロッパヨシキリにリングがつけられた。
灯船の策具に衝突して死んだ鳥も多かった。海に落ちて死んだ鳥がほとんどであることは疑いなかったが、どのくらいの数にのぼるか算定する方法は見当もつかなかった。船の上部構造全体はよく照明がきいており、探照灯をあてても改善はできないだろう。
現在、鳥たちの灯台衝突の問題は解決されている。一九五九年一月、ダンジネスの古い灯台で電気の神秘的なキセノンのランプが試用され、成功した後に、水先案内協会は灯台のライトを電気の短い閃光を発するタイプに転換しはじめた。偶然のことだが、このタイプの光は、まったく鳥をひきつけなかった。一九五〇年代にあれほど興奮させられた、夜通し続く鳥の降下は、他の場所と同じく、ダンジネス観察ステーションでもいまはもう見られることはない。
鳥にとって、これはたいへんよいニュースである。バードウォッチャーにとっては、ありがたいことではないけれど。




