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第七章 灯台の夜  1 灯台の渡り鳥

渡り鳥をひきつける灯台。まさに異世界体験でした。

第七章 灯台の夜


   1 灯台の渡り鳥


 ダンジネス鳥類観察ステーションは、一九五〇年代の大部分のステーションと同じく、すぐそばに白色光を発する灯台があることで、たくさんの鳥が寄りつく場所になっていた。他の色の光は鳥をひきつけることはなかった。

 昔の灯台は孤立した強い光源を備えており、天気が悪く、全天が雲におおわれた地域に舞い込んできた渡り鳥にとっては、特に雨の時などは抵抗しがたい魅力があった。星が見えない時には、鳥たちは方位を見定めることができず、灯台のまわりにはおびただしい渡り鳥が上陸してきた。これは鳥にとっては悪しきことであったが、バードウォッチャーにはすばらしいものだった。

 夜わたる鳥たちは、光で目がくらみ、数多くのものが灯台に衝突して死んだ。十九世紀なかば、テニスンもこのことをうたっている。

 ―灯台の炎は誘う 渡りゆく鳥たちを

     惑乱のはて衝突し 疲れた命をたたき出すまでー

 しかしながら、鳥を食物としてしか見ない感受性に乏しい社会では、けっこうな食料をまったくただで、大量に手に入れられる灯台守は、幸運をうらやまれたことだろう。

 二〇世紀に入って、イーグル・クラークは、夜渡る鳥たちが毎年何十万羽も灯台によって殺されていることを本に書いた。わが国最初の鳥の渡りについての専門家である。延長一万四千キロに達するイギリスの海岸線には数多くの灯台や灯船があり、渡り鳥の被害も莫大であることは、ついに一般の関心を呼び起こすに至った。衝突防止のための活動をはじめたのは、わが国ではこの人が最初である。光で目がくらんだ鳥たちが海に落ちるのを防ぐため、エディストン灯台のバルコニーの手すりのまわりに網を張ったのだ。ヨーロッパ大陸では、一九〇二年にオランダで、灯台に網や止まり木を立てて衝突事故を減らすことが始められている。一九二〇年、ドイツのフォーゲルワルテ・ヘリゴランド;ヘリゴランド鳥類研究所によって、島の灯台の塔を照明するという試みが行われた。多数の渡り鳥の命を奪うことで悪名高かったヘリゴランド島の灯台で、災難に会う鳥を減らすことができたため、これに続いてオランダ、フランス、スウェーデンでもこうした方策が実行に移された。

 イギリスでは、水先案内協会トリニティ・ハウスの長老会による熱心な協力を得て、一九一三年にRSPBはいくつかの灯台で、照明室のすぐ下に止まり木をとりつけた。しかし、イギリスでも、またカナダでも、おだやかな天気の日に突き出した止まり木に止まって助かる鳥よりも、悪天候の時に吹きつけられ、衝突して傷つくもののほうがむしろ多いということが間もなくわかった。

 一九五二年、私が保護監視人ワーデンとして任命され、こうした仕事ができるようになったため、会はダンジネスで灯台の塔全体に光をあてる実験を始めることを決めた。ダンジネスでは電線から電力が得られたからだ。この年の九月十七日、塔のほとんど全体を照らすように、一キロワットの探照灯が二つ、地上に置かれた。灯台員は、灯台の光の中に最初の鳥が現れると、すぐに私に電話してくれることになっており、私は到着し次第、探照灯のスイッチを入れて、効果のほどを調べることになっていた。

 ダンジネスの灯台は一六一五年に建造された。当時は炭の火鉢が置かれて、夜間に通過して行く船に対して心もとない警告を発しており、船は港についた時、それぞれ積載一トンにつき半ペニーの通行税を支払っていた。

 ダンジネス鳥類観察ステーションのロゴマークにもなっているおなじみの丸い塔は、一九〇四年に建設された。その前には、マッコウクジラの鯨脳油や、初期のころの電気まで使用した建造物が二回にわたって建てられている。

 現在の灯台は三一メートルの高さがあり、二六万燭光の油圧ランプが一〇個、三六〇度回転して光線を発する。一〇秒ごとに一回の閃光が発射され、半径二七キロの地点のどこでも見える。これは他の灯台と比べてそれほど強力なものというわけではないが、光の総量は莫大なものであり、全天が雲におおわれている場合、星座をまったく見ることができず、方角を見失ってしまった鳥たちの注意をひき、守ってやるには十分なものである。

 

 悪天候によって鳥が灯台へとひきつけられる時、その場に居合わせるというのは、畏怖すべき感動的な体験で、そのうえユニークな特権であった。一九五二年十月、風雨の激しい真夜中にかかってきた最初の電話以来、一九五九年一月に水先案内協会が電気によるキセノン・ランプを実験的にとりつけた時まで、私は何回となく夜中に灯台へと通った。キセノン・ランプの光線はスペクトルの中に赤色光をまったく含まないので、鳥をひきつけることがない。

 ほとんどの場合は、期待通りエキサイティングな生々しい体験だった。必要欠くべからざる条件として、このイベントにはおそろしい悪天候がつきものであるにせよ、だ。冬の夜、セント・メアリ湾の暖かいベッドを出てから灯台のバルコニーにたどりつくまでは二時間を要した。しかも、その大半は一〇キロ近くにわたる海岸の道を、強風にむかって原付自転車を押しながらとぼとぼと歩くのに費やされるのだ。しかし、体重わずか一五グラムの鳥にできることが、九〇キロの肉体を持つ私にできないはずがあろうか。

 灯台の動く光芒や、RSPBの探照灯のぎらつく光の中で、雨やみぞれ、雪とたたかう鳥たちは、まるで星のようにきらめいていた。鳥たちは風にほんろうされて、波打つように行きつ戻りつしながら、目のくらむようなランタンの光に向かって、コントロールを失ってさいごの突進をしてくる。

灯台のあかりの外側のバルコニーに出て、カーブを描くガラスの壁に面して立っていると、そこは風がまったく当たらないふしぎな空間になっていた。とつぜん、私は狼狽しきった鳥たちにかこまれてしまった。私は毛糸の帽子から鋭い爪をしたホシムクドリをひきはがしたり、鼻にしがみついた小さなマミジロキクイタダキを注意深く離したりした。そして、ジャケットの中で必死にひっかいて隠れ場を探している興奮しきった鳥たちの心臓の鼓動を感じた。

 灯台に飛来する鳥が多い時には、これはめざめたままに見る悪夢というか、まったくの異世界体験だった。灯台の高いバルコニーに上がって、星のない真っ暗な空のもと、水平方向は強風にあおられた横殴りの雨、そして危機に直面している鳥たちのおびただしい目玉また目玉。生存することの意義を生々しく味合わされる体験である。すべりやすいガラスをひっかいているごくふつうのおなじみのクロウタドリでさえ、勝手口のドアのところで餌をやっているいつもの鳥とはまるっきり別のものになる。暗褐色の瞳は恐怖にみちてひかり、指の下で逃げようとして筋肉を緊張させている。こんな天気の日に、いったいどこへ行こうとしていたのだろうか。

 灯台の光線の中で、三〇メートル離れたところを、小鳥たちの群れにまじってアオサギが三羽、灯台から安全な距離をおき、なおもこちらに向かって飛ぼうとして苦労していた。ものすごく巨大な姿だった。バルコニーの冷たい金属の床には、小さなびしょぬれの羽毛の束がごちゃごちゃとかたまっていた。ハシグロビタキ一羽、ノドジロムシクイ一羽、エリマキシギ一羽、そして他のものが数羽。脳しんとうを起こしたり、嘴から血を流しているものもある。しかし、ぶつかった鳥の大半は一方に吹き寄せられ、ひゅうひゅう鳴る風に乗って吹き飛ばされていった。舞い上がって灯台のドームを越えたところで、突然漆黒の闇の中にとびこみ、空中に張られた風見の針金にぶつかるものもあった。元気を回復したところでリングをつけて放すため、私が持っている箱の中で羽を乾かしているものは、運のよい少数派だった。

 空中の鳥たちが、とつぜん一羽もいなくなった。雲が途切れてわずかに星が見えたのだ。これだけで、鳥が方位をとり、危険な旅を再び続けてゆくには十分だった。


 渡り鳥はロマンチックな著者が信じたがっているように、霧の中に現れるわけではない。しかし、風がなくおだやかで、なお全天が雲におおわれている時、そんな時には何十、何百、時には何千羽もの鳥が、一時間かそれ以上にわたってぐるぐる輪を描いて飛んでいることがあった。灯台のおそろしく魅惑的な光に対して、大型の鳥になればなるほど、抵抗力が増すようだ。時には光線をはずれたところに、白い幽霊のようにモリフクロウやトラフズク、コキンメフクロウがあらわれて、ヒバリやワキアカツグミ、そのほか手ごろな大きさの獲物をかぎ爪でしっかりと抑え込んでゆくこともある。犠牲者の種類は悲鳴でわかることもよくあった。

 こんな夜には、私は大きくて柄の長い捕虫網を使って、鳥をとることができた。これもまた、とうてい現実とは思えないような体験である。片足をバルコニーのまわりの手すりにひっかけて、虚空の中に身を乗り出し、空中から鳥をすくいとるのだ。

 探照灯をつけていたこの七年間で、何千羽もの多種にわたる鳥にリングがつけられ、どこから来てどこへ行くのかについて、多くのことがわかった。灯台の被害をどうにか免れた鳥たちは、フランス、スペイン、そして地中海西部地方の周辺の国々で、鉄砲撃ちや罠猟師によって回収された。もっと値打ちがあったのは、リングをつけた鳥たちが繁殖期にスカンジナビア半島やバルト海沿岸の国々の観察ステーションで捕獲され、再び放鳥されるような場合であった。

 鳥たちが灯台に集まる時はいつも呼び出してもらえるという特権、そしてたいていはその場に出向くことができたおかげで、私は暗くなって間もない時分に、天候の具合がちょうどよく、観察ステーションに夜間に渡る鳥たちの到着ラッシュがあるだろうということを予測し、証明することができるようになった。捕まえて、記録して、リングをつけるーこれはあわただしくすさまじい作業である。

 往々にして、鳥がおりると予測したのに、夜もっと遅くなってから雲が晴れてきて、鳥たちがちゃんと方角をとれるようになり、灯台のはるか上空を安全に通過できるようになったりすると、ーこれは私にとってはーパニックだった。こんな時は、渡る鳥たちが互いに呼び交わす声;コンタクト・コールから種類を聞き分けることができる。時々、まだ聞いたことがない声が単独できこえてくることがある。一度も見たことがない種類だと誓って言えるような声だ。

 こうした経験を友人たちとわかちあいたくてたまらなかった。しかし、めったにうまく行かなかった。灯台の部屋には一人しか入れないし、ぜひとも来たいと思っている友人の誰彼を呼び出そうにも、灯台長の電話は彼が勤務についていない真夜中には使えない。仮にうまく呼び出すことができたとしても、彼または彼女が到着した時には、鳥がぜんぶ飛び去った後ということがほとんどだった。それがわかっていても、なお、こりもせず何度も試してみたものだ。

 年にほんの一度か二度、こうした絶好の気象条件が土曜日に見られることがあった。暗くなった後、スカンジナビア上空に高気圧があり、一方、南から英仏海峡の上空を低気圧が上がってきて、湿った雲が出るような場合である。こうした時は、熱心な友人のうちのひとりが私といっしょに灯台でチャンスをつかむことができた。メアリー・ウォーラ―は最も運がよかった。

 私とメアリーは、灯台のそばのパブ「ブリタニア」で、パイとコップ一杯のビターをたいらげ、追加にコーヒーとサンドイッチをとっておいた。一九五八年一〇月二二日のことだ。天候変化を期待して待っていたのだが、一〇時半にパブが閉店しても、しつこい星々が明るく輝いていた。私たちは灯台の壁を見つめて座り込み、メアリーは私の天気図読解の能力について、ごくわずか、いたって寛大な疑問を呈したのみだった。夜は移り行き、もう真夜中近くになろうとしていた。

 遠くグリネ岬の方角で、空の下のほうがいくらか黒くなってきたのではないだろうか。それともただの希望的な錯覚だろうか。

 とつぜん、一陣の南西風が吹いてきて、私たちのゆううつを吹き飛ばした!前線がついに到着し、空は暗黒に変わって、ものの一分もしないうちにあたりにはワキアカツグミの「シーッ」という声があふれた。道しるべの星が見えず、方角をとれなくなったものだ。

 メアリーの長所のひとつは、はじけんばかりの熱狂である。私より少しは若くもあった。私がRSPBの探照灯のスイッチを入れに行っている間に、メアリーは装備のほとんどをひっつかむと、塔の中のらせん階段をかけ上がった。彼女の熱心な参加と曇天が続いたおかげで、朝の五時に夜明けの光が見えてくるまで、私たちは忙しい時間を過ごした。私は様々な種類の鳥の行動記録を十分にとることができた。

 後になって、この夜にどれほどたくさんの鳥がいたかをメアリーが話す時は、捕獲網を風にさらわれて落とすたびに、下までおりて探しに行くのは、いつも彼女であったことを自慢した。おまけにジョーンまでが、私が「これまでで最高の夜だった!」とジョーンに報告したことを言うのだ。妻ならぬ女性と一夜をともに過ごしたというのに、だ。




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