表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/59

第一章 人生の第二ラウンド  1 ダンジネス鳥類保護区再開

第一章人生の第二ラウンド


1 ダンジネス鳥類保護区の再開


 大柄な若い来客が戸口に立っていた。満面にぱっと笑顔がひろがった。

「アクセルさんですね。ぼくはジェフリー・ボスウォールといいます。イギリス鳥類保護協会(RSPB)のワーデンとサンクチュアリ担当部長の補佐をしています。」

 客はよどみなく言葉をつづけた。「ダンジネス鳥類保護区を再開することが決定されました。保護監視人ワーデンを必要としています。」

 生涯に一度しかないような出来事だった。ゆううつな現状をふきとばし、まさに私のためだけに用意されたような機会だった。即座に心を決めたことを心中で認めると、胃のずっと奥のほうでかすかな不安がちらついた。この話がどれほど望ましく、私がどれほど喜んで飛びついたかを見せることはせずに、私は重々しく客を招じ入れた。

 ダンジネス!愛しぬいていた場所だ。ケント州の南海岸にあるセント・メアリ湾の私の新居のすぐ近く。広大な古い砂利浜である。一九五二年三月二三日、生涯忘れることがないこの記念すべきスタートの日からおよそ三〇年ほど前に、私がバードウォッチングを始めたのは、まさにここ、ダンジネスだった。

 まだ六才にもならないころ、新鮮な空気というものの熱烈な信奉者であったおじに連れられ、果てしない石の間をとぼとぼと歩いたことがある。強烈な南西風に身をもたせるようにして、おじが大またに一歩歩くごとに、私はちょこちょこと二歩ずつ歩いた。

「がんばれよ、ぼうず」おじは私を励ました。「本当に風がひどい時は、カラスだって地面に降りて歩くんだよ」

 私たちはホッペン・ピッツを目指していた。風に吹きゆがめられた柳の木立の陰に隠れた二つの小さなオアシスである。リッドの町から続くわだちのところからはもうずいぶん離れていたので、おじの車は地平線のもやにかすむ小さな点にしか見えなかった。

 おじが最初にやってみせてくれた「自然を味わう」やり方は、歩くのに使う杖の先にお玉を結わえつけて、灯心草のしげみの間にあるユリカモメの巣から卵をとることだった。卵が新鮮かどうかを調べるため、池のへりで水につけてみて、ちゃんと底に沈んだものを割って、生のままのんだ。浮き上がるものや片端が持ち上がるものは、注意深く分けて巣に戻した。サルモネラ菌?そんなものは聞いたこともなかった。

 ダンジネス。黄褐色をしたこの広大な野生の土地の秘密について、どれだけよく知るようになったことか。フランスに向かう矢印のような形で海を指しているロムニー・マーシュ。ダンジネスは緑におおわれたロムニー・マーシュの幅広い矢じりのように、十二平方マイル(約三〇平方キロ)にわたって広がっている。たいていの人にとっては恐ろしい場所だった。隠れ場も踏み跡もなく、無限ともいえるような広さの土地は、長年にわたって密輸業者が夜に暗躍する場所だった。そのため日中でも、砂利ばかりの中心部の静けさを侵すようなものはほとんどなかった。

 私はどんどん大きくなって、この土地を愛するようになったので、ミステリーに対する恐怖感は薄れていった。しかし、たそがれ時に鳴くイシチドリの泣き叫ぶ悲鳴のような声には、私の怖れが永久に封じ込められているような気がする。

ダンジネスでは数多くの鳥が巣を作っており、その多くは特別の種類だった。まさに今、RSPBからこの気持ちのよい若者が派遣されてきた。もし私が適任であり、その意思があるのなら、ダンジネスの鳥類保護区の世話を依頼できるかどうかをたずねるため、わざわざ会いにきてくれたのだ。

 天にものぼる心地で、私の考えはぐるぐるまわりはじめた。思い出の数々を私は話した。夢のように過ぎた少年時代、ネスの岬ですごした楽しい日々のこと。目立つ特徴がない平坦な風景の中では、距離感がまるでなくなってしまうこと。おだやかな天気の時にはぱりぱりとくだけるやわらかな厚い灰色の苔の上に寝そべり、風に吹きゆがめられて地面を這うように生え、花をつけた藪の風下で寝転んだりすることはもっとよくやった。そこから景色を眺めてはふしぎに思ったこと。私たちが「フールス」と呼んでいた低い砂利の隆起の連なりのこと。子供のころは、嵐の大波がごくゆっくりと凝り固まって、こうした隆起ができたと想像したものだった。フールスは英仏海峡沿いに五〇〇かそれ以上もの数が発達しており、西は浸食された白亜の崖に達している。

 野生的で大きく開け、大半は人の手が加わっていないダンジネスは鳥のための場所であり、秘密の楽園だった。ライの町のクリケット・ソルツにあったわが家の庭のくぐり戸から、自転車でわずか一時間で行けたところだ。一九五〇年代のその当時には、ダンジネスの外見は私の少年時代とほとんど変わっていなかった。

 紅茶のカップを前にして、ボスウォールはまるで教区の牧師さんのような慈悲深い微笑を浮かべて私の話を聞いていた。長いひじと膝は炉端の椅子からはみ出していた。そして、いよいよやさしく尋問を開始した。前庭の芝生に立った時、家に入る前に見て取っていた問題点についての質問である。

 私は、妻のジョーンと幼い息子のロデリックの三人家族がつい最近になってサリー州を離れ、故郷のロムニー・マーシュに家を買って戻ってきた理由を説明した。わが家はザ・ウェーブ(波浪荘)というぴったり似合う名で、海からわずか一〇〇メートル、リトルストーンのゴルフ場のへりにあたる。ネス岬から海岸を一〇キロ北上したところだ。対岸のフランスの海岸が見えることもよくあるし、海を渡る距離が最短ですむために、渡り鳥がさかんに利用する地域の中央部に近い。中には家の庭で休んだり、餌をとってゆくものもいる。鳥の標識調査をしていたので、何年も前にこの地域で標識し、後になって回収されたもののいくつかは、鳥の生活や渡りについて、光を当てることになった。ボスウォールは標識調査のことをよく知っており、評価していた。よし。

 「お仕事に就いてはおられないのですか」ごく丁重な質問だった。

 私は生来の胸の弱さからきた長い病気から快復したばかりだった。これは、ロンドンでの職を辞した理由でもあった。当時、ロンドンのスモッグはまだ脅威的なもので、前の冬だけでも千人もの人が死亡していた。郵便局の検査技師であったアンソニー・トロロープと同じく、私は郵政省の運営部の一員として、セント・マーティンズ・ル・グランドにある郵政省本部の古く堅固なビルからあちこちに旅行する仕事をしていた。汽車の一等でどこへでも行けるパスが支給されており、イギリスの多くの探鳥適地を訪れる機会を楽しむこともできた。二十年間働いてきて、当時のイギリス郵政省というところをたいへん誇りにするようになっていたので、早々と退職し年金を受けるのはとてもいやだった。しかし、大蔵医療技官からはどこか開けた場所で、新鮮な空気の中で働くべきだという宣告をうけた・・・

 回復期にある間、年金の足しにするために、戦前もやっていたようにもの書きを始めていたところだった。鳥を捕獲し標識することは、いわば療法のひとつであり、科学的な研究とともに気晴らしにもなっていた。

「ダンジネスの仕事の話は私にとってはとてもありがたいものですよ」

「ダンジネス保護区についてはいつごろからご存じですか」

これこそまさに召喚呪文ともいうべき問いかけだった。おびただしい過去の思い出が、口にのぼせてもらうのを待って集まってきた。 

 幼いころの最初の出会いのあと、ライの町で育った私はたびたびダンジネスを訪れた。時には学校の友達を連れて行ったこともある。この場所のわくわくするような不思議さ、特にすぐ足もとの砂利の上にある巣の中の卵に感銘を受けてほしいと思っていたからだ。そして十四歳になった春のある記念すべき日、私はロナルド・G・ウィリアムズと出会った。

 ロナルド(ロン)はライの町の玉石で舗装されたマーメイド街に住んでいて、もう中学に通っていた。私の育った小さな町に住む四五〇〇人の住民のうち、ロンは私以外のただ一人のバードウォッチャーだった。二才年上で、年長であるだけ鳥のことをよく知っていた。ロンはちょうどリンガー(鳥類標識調査者:日本ではバンダーと呼ぶ)になったばかりだった。これは、鳥の標識調査に参加したい人間がブリティッシュ・バーズ誌に応募して得られる資格であり、大英博物館のエルシー・リーチが郵便を通じて、百個につき数シリングで標識リングを売ってくれた。私はダンジネスのRSPBの保護区の中で、ロナルドがカモメやアジサシのヒナを追いかけているのを見つけたのだ。個体に標識をつけ、その鳥がどこか他の離れた場所で発見され、報告されることによって、鳥の生活の秘密にせまるという方法に出会ったのは、ぞくぞくするようなうれしいことだった。

 間もなく私も、ふとった小さなセグロカモメのヒナの足にサイズ四のアルミニウムのリングをどうやってつけるかを覚えた。やせっぽちのムネアカヒワにサイズ一のリングをしっかりと端を重ねてとりつけるには、繊細な足を口に入れて、歯でがっちりつけるのだった。

ロンと共に、私はすぐさましろうと鳥学者の域に到達し、生け垣や掘割から卵を集めるのをやめて、鳥がどうしてその場所に好んで巣を作るのかと考えるようになった。とりわけ、ここダンジネス、平坦で風が吹きすさぶ見捨てられた土地で。

 このころの思い出の中には、新しい鳥仲間の友人たちが登場するようになる。ハリー・コーケルは、時には兄弟のエドウィンと一緒だったが、後に生涯を通じての友人となった。

エドウィンは、標識調査ではバーナード・ブルーカーと組んでいた。グレアム・ド・ファージは鳥の写真家、著作家のノーマン・ジョイ博士、そしてデンビー・ウィルキンソンといった面々である。バス、列車、自転車といった交通手段で日帰りができる地域の中で、活動的な鳥のファンといったら、これでだいたいぜんぶだったろう。サリー州から来た標識調査者のP・A・D・ホロムが、ベックリーにある「私たちの」アオサギのコロニーや、ウィンチェルシーの古い海食崖の下のアシ原にある「私たちの」ホシムクドリのねぐらに「侵入」したことを、ブリティッシュ・バーズ誌の標識調査のレポートで見て、やきもちをやいたものだ。

 私たちは、アプルドアの近くに住む高名なクラウド・タイスハースト博士を知るに至り、地域の著名な方々、たとえばテンターデンにおける鳥の渡りの専門家である博士のご兄弟のノーマンや、一九〇五年、ダンジネスで初めて鳥の記録をとりはじめたH・G・アリグザンダーといった方々の公表記録について話し合ったものだ。かの悪名高い「ヘイスティングスにおける希少種」に出てくる何百例もの珍鳥記録について、頭を悩ましたりもしたが、私たちの地方のうち、ペベンシー湾からダンジネスに至る地域については、非難されるべきは地元の剝製師、ジョージ・ブリストウといえるだろう。ほとんどが、一九三〇年代の半ばであった当時からみて、ほんの数年前に得られたことになっている。いくら当時の私たちが今ほど夢中になって珍鳥を探したわけではないにしても、こうした迷行鳥がはるかな遠くからやってくるというのはめったにないことだ。ただし、当時は珍鳥には金銭的なねうちがあった。コレクターが高価で買ってくれるので、珍しい鳥は血眼で探し求められ、撃ち落とされたというわけである。

 鳥学は、当時はまだまだ秘密の領域だった。今では誰でも入手可能なめざましい知識の量と比べると、一九三〇年代なかばの私たちの科学的な知識たるや、戦後間もないころのごくふつうの熱心な小学生のバードウォッチャーにも及ばないものだった。

 私の経験についていえば、一九二五年ごろのこと。ぼさぼさ頭の一〇歳の悪ガキ三人―アラン・ビルスビー、スティンキー・マシューズ、そして私―は、キャンバー・ゴースのお気に入りの巣あさり場に出かけた。そこで、見たこともないふしぎな小さな卵の入った巣を見つけた。卵はどれも紫がかった茶色で、終止符のようなもようのついた黒いジグザグの線があり、まるで秘密の暗号が書かれているようだった。鳥の本など誰も持っていないし、一個ずつ卵を家に持って帰っても、何の卵かわかる人はいなかった。実に奇妙な卵で、第一次世界大戦が終わって間もない時期であったことも、想像力をかき立てた。私たちは、巣から飛び去った茶色の小鳥をドイツヒバリと呼ぶことにした。巣や卵がのっている最初の図鑑が出たのは、それから一年もたった後のこと。その鳥はごくありふれたオオジュリンにすぎなかったのだ。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ