第五章 ダンジネスの捕食者たち 4 鳥のための湖
4 鳥のための湖
ダンジネスでの毎日は無我夢中の忙しさだった。あれやこれやと防止対策を試みているにもかかわらず、地上で営巣する鳥たちの卵やヒナが消えてしまうことは、あいかわらず食い止められないままだった。私にとっては冷酷な打撃である。金網を運んでいて転倒し、生涯にわたるひざの半月板のずれを起こした時など、とりわけこたえた。
一九五四年の年報に、島のある湖を人工的に作ることを最初に正式に提案して以来、私はRSPBや地域の専門家を説きつけ、働きかけていた。ダンジネスの鳥たちの繁殖を成功に導く有効な手段である。一刻も早くスタートすべきだった。デンジマーシュに作りたいと思っている湖は、目的にかなった形と高さの島を備え、岸辺のスロープはシルト質で、採餌場所や巣のおおいになるような植物を導入するというものだ。ライ・ハーバーの対岸にあるヌーク・ビーチは、砂利採取跡に水がたまったところだが、一九三四年にこうした状態が始まって以来、今に至るまでずっと、安全な生息環境の見本のような姿を示していた。砂利採取跡の湖に残された島は、特にこれというデザインで作られたわけでもないのに、数多くのアジサシ類・カモメ類が巣立っていた。この成功例が偶然の産物であるなら、繁殖場の環境をしっかり意識してデンジマーシュに設計した場所では、どれほどすばらしい状態を作り出すことができるだろうか。
地元の砂利採取会社はよい価格で砂利を買っていた。そしてそのうちの一社、ランバーツ社は、私の提案したとおりに池や島を作り、その上になお、RSPBに対して〇・四ヘクタールにつき四〇ポンドの砂利採掘権料を支払うと言っていた。
主要な障害は、こういう革新的な考え方に対する疑念そのものだった。こんなことはいまだかつて行われていなかったし、自然保護の概念は、自然をあるがままに保存するという自然保存の考え方にいまだにこだわっていた。自然はそのまま放置しても、自分で自分のめんどうをみることができるのだから、人間は増えすぎた捕食者をなんとかしようなどと気にかける必要はない、というわけだ。
私は砂利採取跡や人為的に冠水させた地域をイギリス、オランダ、ドイツなどで見てきていた。そして、こうした景観は鳥にとってたいへん有益な生息環境であり、改良したりコピーできるものだと考えた。この考えは、水位や塩分濃度の調整、池のへりをおおう植物の導入などを可能にするため、大型機械を使って生息環境を整えるというものに発展した。いつかきっと、私の古い貧弱なダンジネス鳥類保護区も、ミンズメアやハバゲイトにあるような、すてきな木造の恒久的な観察小屋を持ってもよいと認められるに違いない。
リチャード・バローズは、鳥のための湖を作るという私の計画について議論するときには、いつも熱狂的だった。もし存命中にバローズ・ピットができていたら、きっと喜んでくれたに違いない。バローズ・ピットは、後のミンズメア以来私の同僚になったピーター・メイクピースによって、とうとう実際に作られて、みごとに発展をとげた。しかし、それにしてもバローズ老は、愛するダンジネスの湖について、深く岸が切り立った孔として、砂利を抜きとる作業だけで作るようにと、なにゆえにあれほど強硬に主張したのだろうか。これでは植物が生えることができず、繁殖する鳥もいなかっただろうに。
戦後まだ間もない一九四六年という時期に、ピーター・スコットはスリムブリッジでイギリス水禽協会を創立し、湖をいくつも作ったり、保護、研究及び社会教育のた目に白鳥、雁、鴨類を集めるという新たな道を開拓した。行動的な自然保護活動が感傷主義に勝ちをしめたのだ。自然環境の急激な消失に対して、目隠しをとって現状を直視するといった、姿勢の変更と新しい考え方の時代がいよいよ到来したのである。イギリスではもはや、人手が加わらずに残されている環境といったら、いくつかの山の頂や、海岸の崖くらいのものになっていた。
RSPBはついに、この試みについての会合を開くことになった。拡大された委員会は国内の多くのすぐれたナチュラリストを含むもので、メンバーの中でもマックス・ニコルソン、フィリップ・ブラウン、ピーター・コンダ―が私の湖のプランの後押しをした。そしてRSPBの委員会は、デンジマーシュ・ビーチの軍用地部分について、いっこうに急ぐ様子のない陸軍省が土地の接収を解除してくれ次第、この計画を実行に移すという暫定的な決定をくだした。
私は鳥類観察ステーションや保護区の中でよくマックスと会い、そのたびにダンジネスに対する彼の情熱に奮い立ったり、勇気づけられたリした。マックスが所属する自然保護会議によって、一九五四年に指定された「ダンジネス国立自然保護区」の計画の詳細をまとめるため、彼がやってきた時は、まさに狂喜したものだ。RSPBの保護区は、鳥類観察ステーションのトラップを常設した捕獲地と統合されたものになるはずで、所有者であるリッドの町長、ゴードン・ペインの要請がありさえすれば、むろん私は引き続き保護監視人の地位にあることになる。
未来は明るかった。当時、ますますよいことに思われたのは、一九五六年一〇月に八五歳で亡くなったリチャード・バローズの遺志により、保護区の一部をなしている彼の所有地、ウォーカーズ・アウトランズと、少々老朽化してはいるものの、美しいボールダーウォール農場の建物が会に寄贈されたことだった。改良工事が終わってから、私たちはそこに住むことができるはずだった。そうすれば、私ははるかに拡大された自然保護区の管理作業がやりやすくなる。それに、セント・メアリ湾の波浪荘を賃貸しできれば、RSPBのあいかわらず信じがたいほどの薄給に何がしかの足しができる。
湖づくりの開始が遅れに遅れていることは、欲求不満の種だった。卓越した鳥学者でカモ類の研究者であるジェフリー・ハリソン博士が、セブンオークスの自宅の近くにあるブラッドボーンの砂利採掘孔で、この考えにもとづくみごとな開発を実際に行ってからはなおさらである。一九五二年にダンジネスに戻ってきてからというもの、私は博士の父君であるジェームズと暖かく有益な交際を続けていた。この人は余暇に鳥学を楽しんでいる古きよきタイプの開業医で、専門分野は分類学であり、膨大な鳥の標本を集めていた。仕事がら、私のところでは鳥の死体がよく手に入り、中でも灯台の衝突事故によるものには様々な種類が含まれている。剝製にして観察ステーションのコレクションに加えていたものもいくつかあったが、大部分は喜んでジェームズのもとにまわしていた。
オックスフォードで行われたある会議の席で、私は抱えていたやっかいな問題について、この博士にアドバイスをあおいだ。ロビンやウタツグミといった、サイズも羽色も雌雄の差がない種類で、生きた鳥の性別を知るにはどうしたらよいかという問題である。彼の話によれば、アメリカでは、何人かの学者が耳鏡を用いて総排泄口の内部を調べ、輸卵管の出口の有無を調べることで雌雄がわかると主張しているそうだ。冬のさなか、彼はこうした器具を一つ、わざわざ送ってくれた。しかしながら、逃げようとしてもがいている生きた鳥の肛門にさしこむには、ノズルの先が大きすぎる上、ぶこつすぎるしろものだった。外から見るかぎり、繁殖期以外の時期には総排泄口は両性とも同じように見える。水中で交尾するカモの雄のように、鳥の雄がすべてペニスを持ってくれていたなら、不器用な人間にとってはどれほど記録が楽だったろうか。この実験はすぐにあきらめられ、観察ステーションの雑事に埋もれて忘れられた。
ダンジネスの鳥の湖の計画を話した時、ジェームズは、セブンオークスにある水がたまった採掘孔をこの線でうまく開発できるかもしれないと言った。一九五六年、砂利採掘会社と共同で、息子のジェフリーはいちばん大きい二つの採掘孔の岸に実にたくみに手を入れて、植生を導入した。浮き島をつくり、家畜の糞をまぜて肥えた土の部分も作った。ここにはたいへん多くの鳥が集まった。ブラッドボーンはみごとに成功した保護区域となり、ジェフリーは大英帝国勲四等勲士;OBEに任じられた。これに大きな刺激を受けて、ジェフリーが所属しているイギリス・アイルランド水禽協会は、水鳥の繁殖のために多くの場所を獲得しはじめた。そして、鴨撃ちにも保護にも同様に力をそそぐ自然保護団体として、評判を高めたのだ。
RSPBはダンジネスの土地を返還するようにと軍に働きかけていた。しかし、いくつかの障害が挙げられた。その一つは、会の所有する爆撃地域に残された不発弾や臼砲弾を片づけなくてはならないということだった。何か月もかけて、ウクライナ兵―国家をなくしてしまった兵士たちであるーの大きなチームがこの仕事をやり終えてくれた時には、何千発もの砲弾が地表や表面の石の下から発見された。
不発弾の撤去が終わって、私はほんとうにほっとしたものだ。ただ単に現実の危険が減ったというばかりでなく、またRSPBに宣告されているように、爆弾で吹き飛ばされてしまうのは保険の適用範囲外であるということでもなくーじっさい、セグロカモメの巣のうちのいくつかは堆積した実弾の間にあったー通常とは異なる侵入の終了をも意味していたからである。砲弾の推進帯に用いられている高価な銅を探して、少年たちが小石の間をうろつきまわり、実弾から銅の帯をタガネではずそうして、死んだり、不具になったりしたものも何人か出ていた。
リッド地方司令官のド・アーシイ・クラーク少佐と後任のS・S・フィールデン陸軍中佐は、返還の日取りについて、陸軍省に働きかけていた。ある日突然、保護区のすべてが返還される、ただし、なんとデンジマーシュ・ビーチ以外の地域について、ということが私たちに知らされた。
実際には、デンジマーシュ・ビーチこそ私のアジサシ類やカモメ類のすべてが巣をつくっている場所ではないか。この地域は臼砲の基地を確保するためにフェンスで囲われることになっていた。これは私の湖が半分になり、おそらく二〇ヘクタールの面積しかとれなくなってしまうことを意味している。あるいは、ずっと繁殖地として利用されてきたこの土地を離れて、新しい場所を考えるべきなのかもしれない。またはじめから、地元の専門家たちに対する折衝をやり直さなくてはならなくなる。
この一撃は、一九五七年の初めから次第に強くなってきたおそろしいうわさの先陣をきるものだった。ダンジネスに原子力発電所の建設計画があるといううわさである。
このうわさは突如、現実として突きつけられた。一九五八年の末、おもに地元や州の専門家などのこの計画に反対の人々、RSPB、自然保護会議、そしてダンジネス鳥類観察ステーションが会合をひらき、中央電力供給省の圧力にたいして、それぞれの立場からどのように戦ってゆくかを話し合った。十二月十六日から十八日に、リッドで公開査問が開かれることになっていた。RSPBの中にも、公開査問に提議すべき我々の防壁は、あまりにも貧弱なのではないかという人がいた。たしかに繁殖している鳥は非常に少なかった。しかし、いくつかの種類、中でもイシチドリは、生息地がなくなったため、イギリスではどこでもたいへん数が少ない貴重な種類であった。何よりも、ダンジネスそのもの、独特の地質形態からくる特異な生息環境そのものこそが、最も重要な特質だった。
中央電力供給省(CEGB)が特に必要としている岬の西側地域が、ダンジネスでも唯一手つかずの地域だったということは、おそるべき皮肉であった。小砂利でできた尾根の連なりは、五千年の昔に嵐によって形作られたままの姿をとどめている。今なおそこには希少なコケの群落や他の植物がパッチワークのように保存され、その上にはさらに貴重な昆虫がいる。ここは自然界の宝であり、世界の科学者から真価を認められた場所だった。
この貴重な地域は、ほとんどがリチャード・バローズの個人的な業績と資金提供によって確保されたものである。彼は、戦前からこの地域を開発の手から救ってきた。ダンジネスの独特の地域の広大な部分をおおっている原子力発電所の鋼鉄とコンクリートの施設には、この偉大なる小男の亡霊が永久にとりついて離れないに違いない。
公開査問会では、反対者として十八名が意見を述べた。私は鳥の観察ステーションとしての重要性と、RSPBの保護区域としての重要性について述べた。しかしこれは、マックス・ニコルソンが自然保護会議の立場から述べた強力な申し立てに比べると、ずっと小さなものに留まった。マックスの申し立ての根拠は三四ページにのぼる小冊子にまとめられており、これについてCEGBの弁護士は、「知的ご都合主義」「誇張的表現」と評して、彼の意見の中には他にも多くの誤りがあると攻撃した。
これについての多々ある言い分は別として、反対者側の私たちは、強力な防壁を築いたと考えた。全員がそれぞれの本分を尽くしたのだ。私たちはテレビやラジオに出演し、ダンジネスの価値を絶賛する内容でジョンブル紙に掲載された長い記事についてのインタビューを受けた。じっさい、できるかぎりのことはやったのだ。知事の決定までに思いのほか長い時間がかかった原因をつくることはできたのだから、これについては痛苦を感じてはいない。
私はダンジネスで、捕食者たちにずっと悩まされていた。しかし、中央電力供給省こそは、砂利採取会社にも増して、巨大なる捕食者そのものであったのだ。自然保護論者は、ただぼろを繕うほどのことすら、何一つ効果的にはなし得なかった。
中央電力供給省の関係者も、人間であることには変わりはなかった。彼らはハリー・コーケルの提案を入れて、九一ヘクタールの地所の境界を調整し、私たちの観察ステーションの捕獲地に及ぶ影響を最小限にとどめるようにしてくれた。しかし、RSPBの保護区が大きな影響をこうむることは、誰にも止めようがなかった。巨大な二重の送電線と鉄塔がデンジマーシュ・ビーチを横切ってのびる。そこは、私の鳥たちのほとんどぜんぶが巣をつくっているところだった。
一九五九年一月二三日、RSPBの本部で、フィリップ・ブラウンは私にこう言った。
「発電所が建設されれば、自然保護会議はダンジネスの拡大された自然保護区の計画を放棄することになるだろう。その場合は、RSPBもギブアップする。近々に空席となるミンズメア保護区の保護監視人としての職につき、三月一日にそこに移るか、職をなくすか、どちらかにしたまえ」
知事の決定は、早くても翌月以降でなくては出ないはずだった。決定がどちらに下るか、まだ誰にもわからないこの時点で、これは過酷な脅迫に等しかった。選択の余地はなかった。
しかし、私は哀れな古いダンジネスを後にして新しい土地に移る機会を得たことを、すぐさま、そして永久にうれしく思うことになる。ミンズメアで、私はついに、思いのままに翼をひろげることができたのだ。