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第五章 ダンジネスの捕食者たち  2 RSPBをめぐる人々

 2 RSPBをめぐる人々


 アナウサギがいなくなったことは、保護区の生態系に劇的な変化をもたらした。ただ単に、食物連鎖の頂点に位置する動物を狩る必要が増した、などというよりも、はるかに劇的なものだった。ノルマン時代にイギリスに出現して以来、アナウサギは自然植生の重要な調整役になってきた。一九五三年にアナウサギがほとんど一掃されると、過去何世紀にもわたって樹木がまったくなかったところにまで、灌木のやぶ、木立、雑木林などがひろがりはじめた。

 科学的に重要なものであるダンジネスの砂利場で、独特の植生が変化してきたことは、自然保護会議ネイチャー・コンサーバンシーが緊急に注目すべき正当な理由になった。

 一九五四年、自然保護会議からロナルド・ロックリーが派遣され、状態を報告するために数回にわたってダンジネスを訪れた。そして私たちは、自然保護会議の高名な植物学者であるA・S・トーマス博士のために、追跡調査ができるような通路をいくつか設定した。

 ジェフリー・デントはなかばは旧態然とした自然保存論者であり、なかばは進歩的な自然管理論者であったが、この事態をたいへんよく理解してくれた。ヨークシャーのリブストンにおける二〇〇〇ヘクタールにのぼる荘園主であり、フォックスハウンドの猟犬群の持ち主として、またロンドンの醸造所であるトルーマン社の社長として、この人は歯に衣着せるようなことはまずなかった。しかし、自然保護の分野で私が出会った人々の中でも、もっとも親切な人物の一人であった。そして、今日では悲しいことにきわめてわずかになってしまった初期の世代の自然保護家の中で、厳密に言ってももっとも紳士的な人だった。彼の前に立ち、自らの信念に忠実でありさえすれば、彼の目に共感のひらめきを点ずることができた。この人の直接的、かつビジネスライクなアプローチによって、そして自然保護の現場における豊富な経験によって、RSPBは多大なる利益を得ている。戦争が始まった当初の暗黒の日々、ウォッチャーズ・コミティの議長という立場にあって、彼は将来の自然保護区域の概要を計画していた。必要となるべきものを予見した数少ない人物のひとりである。

 デントはRSPBとともに、舞台裏で、新しい鳥の保護事業に関する数多くの実績を上げた。戦争とその余波により、議会における法律改正の仕事は一〇年もの間たな上げされていたが、平易な法律による狩猟可能な鳥の限定で、繁殖する鳥ばかりか旅鳥や越冬鳥も利益を得るはずだった。多くの野外スポーツとのかかわりから、デントはもっとも一般的な狩猟対象鳥はおもに水鳥に限定すべきだと指摘している。それでも、イギリスのスポーツマンが解禁時期に狩猟できる鳥は、国土の大半で十分に残されることになる。私はそのとおりであるとわかっていたので、心配はしなかった。少年のころの卵コレクターから改心して以来、私はずっと繁殖鳥の利益を心がけていた。デントもまた、マーボローにおける学校時代には、たいへん熱心な卵コレクターだった。なんと、ウズラクイナの卵まで持っていた。ウィルトシャーの畑が手作業で耕されていた時代のことだ。私がサセックスでついに手に入れられなかった種類である。


 戦後間もないこの時期、農業や工業の発展のために、情け容赦もなく土地が要求された。都会からいっときの避難場所をもとめ、あるいは余暇をすごすため、知らない場所に行ってみようとする人々は増加する一方だった。かつて静かだった浜辺や河口の海岸は攪乱が著しくなった。繁殖をおびやかす脅威が急激に増加したことになる。

 特殊な環境でなくては営巣できない鳥にとっては、これらの影響はいやが上にもはっきりしていた。 人間こそ最大の重要事になるものだった。人口がたいへん増えていたからだ。私のものの見方の背景には、公益への奉仕という視点がある。この視点からみると、野生生物のために多くの場所が保護区とされるなら、その一部には興味を持つ一般の人々のため、という見方が必要になるはずだし、一般の人々の興味を引く必要もある、と予想するのはしごく当然である。

 保護区の管理や、古くからの有名な保護区域であるダンジネスの復元については、文献を調べてもさっぱり役にはたたなかった。冬に何度かロンドンに出た時、RSPBの図書室の文献目録を作っていたので、参考になるようなものがないことはわかっていた。

 水鳥のうちでも、カモ類の保護や増殖に関しては言及が多かったが、ダンジネスで応用できることはほとんどなかった。イギリスでは、十七世紀の日誌作者であるイブリンが、セント・ジェイムズ公園でカモの産卵のために柳で編んだバスケットを用いると記録している。このバスケットはながらく用いられていたもので、オランダやベルギーなどの低地地方では、ハンターが狩る獲物を育てるための特別の池で現在も使われている。イギリスではICI社(帝国化学工業)のゲーム・サービスがこの分野で抜きんでて進んでいる。

 チャールズ・ウォータトンの業績から、インスピレーションくらいは得られるのじゃないかね、と、デントは笑顔で言った。イギリスで最初に鳥のサンクチュアリを作ったこの人は、ヨークシャー人の間で高い評価を受けていた。一八〇〇年代のはじめ、一〇五ヘクタールにのぼる自身の私園、ウォールトン・ホールで、ウォータトンは繁殖時期にはどんな種類の野生生物もとることを禁止し、様々な種類の鳥のために巣穴を用意して、鳥の個体数を増加させることに成功した。巣穴にはフクロウ類、ショウドウツバメ、シロビタイジョウビタキ、ホシムクドリ、コクマルガラスなどのためのものがあった。鳥を間近にみて調べられるような観察小屋ハイドも作った。

 こうした積極的な管理方法は、当時としてはたいへん急進的なもので、さらに進めて、アオサギのコロニーのために魚がいる流れを掘ったりした。繁殖を妨げられない環境の中で、アオサギはこの人の森に再び定着するようになった。まさに画期的なことだ。

 もっと時代をさかのぼれば、六八四年から六八七年の間、セント・カスバ―トはインナー・ファーンにおける在任期間中に、この土地のケワタガモの営巣の邪魔をしてはいけないという禁止令を出している。ナショナル・トラストのおかげで、今日この島を訪れるおびただしい観光客は、人づけされた何千羽もの各種の鳥たちの間を歩いて観察することができる。ケワタガモに至っては、あきれるほど慣れきっていて、ふかふかした羽毛でできた巣についているのをすぐ足元で見ることができるほどだ。

 オランダでは、戦前から国家の方針としてこうした方式をとりいれており、国土がせまいにもかかわらず、多くの地域が野生の鳥のための保護区域になっている。カモメ類の権威であるニコ・ティンバーゲンはオランダとイギリスでセグロカモメの生活を研究した。この人の業績は、セグロカモメという大型の鳥が必要としているものを理解する上でおおいに助けになった。オーストリアでは、コンラート・ローレンツがガンをはじめ、他の種類の鳥の行動について多くの新しい発見をした。

 イギリスでは、この時期はまさに偉大な鳥学者の時代で、ホレース・Gおよびウィルフレッド・Bのアリグザンダー兄弟、ジェイムズ・フィッシャー、ジュリアン・ハクスリー、デヴィッド・ラック、ロナルド・ロックリー、E・ニコルソン、そしてピーター・スコット等が出た。これらの人々の論文や本は、参考文献の傑作として、鳥の生物学、行動学、分布状態などについての知識を飛躍的に向上させた。戦前のイーグル・クラークの目視による渡りの研究は、大陸のグスタフ・クラマーによって、鳥が長距離飛行をする時の昼と夜の定位能力について、ぞくぞくするような実験へと引き継がれた。ケン・ウィリアムソンは北のフェア島で、悪天候で方向を見失ってしまった渡り鳥が、風下に流されることでより静かな気圧の谷に入り、利益を得るという驚くべき証拠を上げた。

 こうしたことのすべては新しく、目をみはるようなすばらしい要素であり、情報の洪水のはじまりでもあった。月間のブリティッシュ・バーズ誌や季刊のアイビス誌、そして当時存在していた三〇あまりの地方ごとの年報、たとえば私が属している「ヘイステイングスとサセックス東部のナチュラリスト」などに、フルタイムや余暇利用の観察者による観察事実が続々と発表され、おびただしい寄稿のおかげで我々の知識は急速にふくらんでいった。

 しかし、新しく急進的なレポートの大洪水の中でも、自然保護の実践に関するものはほとんどなかった。私にとっては、「ウーロジスト(卵収集家)」や、「シューティング・タイムズ(狩猟タイムズ)」のバックナンバーの方が、おそらくずっと役に立っただろう。


 戦後になってどっと出てきた鳥学愛好者たちは、珍鳥についてとか、「異常な行動について」の記事とか、「新しい」探鳥適地の発見といった内容で、印刷物に自分の名を載せることばかりに忙しいようだった―当時はそうしたものだった。鳥学は一般人にとって目新しいものであった。かつては研究者や教授や牧師、その他、中産階級でもかぎられた階層の本分であったところから、一般大衆のもとへと、まさに爆発的にひろまったばかりであった。まったくのアマチュアが熱心にかかわることができ、珍鳥を発見して自分の名で発表することができさえすれば、ごく若い初心者であっても、趣味の世界の中で自分の重要性をアピールできるということに気づくようになった。インスタント・エキスパートの時代の到来である。

 バードウォッチャーの羽を逆なでにして怒らせるのはわけもなかった。モーリイ・メイクルジョン教授は、ブリティッシュ・バーズ誌に掲載されたデンジル・D・ハーバーのハイイロミズナギドリの記録について、この種類の分布がイギリスの海岸からはあまりにも遠く離れているという点を指摘した。編集者たちは、目撃記録を受け入れたことを正当化しようとして躍起となった。イギリスの鳥学に対して誠実な人々が主な支持者だった。事件はささやかなものであったが、地方のゴシップの餌食にされ、私のようにいうなれば鳥についての公けの職務にあるものにとっては、肝に銘じるべき教訓になった。印刷された言葉のおそるべき永久不滅性ということである。「ブリティッシュ・バーズ」のようなきわめて名声の高い雑誌に掲載された記録は、将来の研究者にとっては福音ともいうべきものになる可能性があり、抗議の文が後に載ったとしても、目にされないかもしれないからだ。

 口に出して言っただけならたいした問題ではない。私たちの友人であるデンジル・ハーバーは、イーストボーンから来ていて、ダンジネスでは最も歓迎されている訪問者のひとりであったが、アマとプロとを問わず、バードウォッチャーについて言いたいことがいつも、いくらでもあった。趣味に対する熱情のあまり、彼はまるでタイプライターを打つような調子の早口でまくし立てるのだが、この人に言わせれば、ほとんどのバードウォッチャーの誰かれは「馬鹿まるだし」であった。

 往々にして、親愛なる老トミー・ネヴィンがやり玉に上がった。ハイスに住むまるまると肥えたアイルランド人で、つい最近税関と間接税務局の職から退職したばかりであり、新しくできたケント鳥学会の副会長であった。トミーは今まさに鳥に関する業績の絶頂期にあって、我々の地域で見られた珍鳥のニュースをひっさげては、ダンジネス鳥類観察ステーションの談話室に劇的に登場するのであった。

「とってつもない、ほっやほっやのニュースだで!ミッドルリップスに、だ、キッリアイがはあ、なんともはや、二羽も出たんだってば」

 ミッドリップスとウィックスは浅い入り江で、リッドの砲兵隊基地の海岸の防護壁から水がもれたためにできたものだ。ネス岬から六キロ西にあたり、ケントから州境をこえてサセックスの方まで広がっていた。野外で観察する人が多くなるにつれて、州の間でのライバル意識がますます強まり、ハーバー(サセックス州)とネヴィン(ケント州)はしばしばここで衝突していた。ごく珍しいシギがいた時など、鳥が州境をこえて敵に記録されたりしないよう、追い払っておくのは、二人のどちらにとっても義務のようなものだった。自分の州の年報に、自分の名を冠した報告を出す栄誉を得るのはどちらか、ということだ。


 バードウォッチャーのふるまいは、ジェフリー・デントを面白がらせることも、いらだたせることもあった。彼自身は雑誌に投稿するには謙遜でありすぎたが、このことは今日に至るまで残念でならない。有益な意見がいくらでも聞けたはずだからだ。この人は、鳥の標識調査と巣の写真撮影を忌み嫌っていた。

 ジェフリー・デントがフィリップ・ブラウンとともに再開されたダンジネス鳥類保護区を初めて訪れたのは、一九五三年春のことだ。私はRSPBが購入して新しく建てられた、三・六メートル×二・四メートルのすてきな小屋にいた。この小屋は、デンジマーシュ・シューアが海へとパイプでつながっているところの道路端にあたる別の小砂利の堆積地に建てた。もうトタン板を寄せ集めた倒れそうな小屋にいるわけではないので、訪問客を迎えても落ちついていられる。

 私はふたりに、つい数日前、カモメの巣でヒナがふ化したというニュースを誇らしく伝えることができた。ここ十二年来、イングランドでふ化した最初のカモメのヒナだ。スコットランドとの境界より南では唯一のもののはずである。この時のヒナは、後でキツネに食べられてしまうかも知れなかったので、記録のため、訪れた地元のベテランの友人に頼んで写真を撮ってもらった。それを聞いて、デントは鼻嵐を吹いた。

「ブラウン君、彼に許可を与えたのかね」

 とんでもない。たずねてみもしなかった。どこがいけないのか。何ゆえに電話などかける必要があるのか。そもそも一番近い電話のところまで三キロもの距離があるし、保護区を離れるつもりもなかった。フィリップは私の味方だった。

「きみ、この男を今すぐ首にしたまえ」

 私は写真撮影のリスクをおかす以上の効果があることを知っていたと主張した。なんでしたらその証拠に、今これからヒナをお目にかけましょうか?デントはそれ以上とやかく言うことはできなかった。

 その日からすぐに、というわけではなかったが、デントはその直後から、鳥の写真に対する不賛成の意のかわりに、私の標識調査をはじめ、どこであれ、私が生息地について手をくわえる作業のあれこれに対して、RSPBで私が得た中でも最高の支持者となってくれた。ジョーンと私は彼のヨークシャーの館、リブストン・ホールに何回か滞在させてもらった。ここは、十八世紀にノルマンディーから運ばれた原種のリンゴが最初に植えられた家でもあった。

 こちこちの自然保存論者にあらずして、デントは地方の猟犬群の所有者でもあった。彼と奥さんのマリオンといっしょに、ランドローバーで狩りについていったことがある。私たちは一頭のキツネがすぐ近くのやぶにこっそり逃げ込むところを見つけた。キツネが出てきて、空気をふんふん嗅いでいる時、私が写真を撮ろうとしている間、彼はまわりのみんなを静かにさせておいてくれた。

 ジェフリー・デント、議長にして数少ないRSPBの金メダル受賞者であるこの人は、一九七八年八月三日、椅子にすわったまま、何の騒ぎも起こさずに、静かに息をひきとった。

 彼の葬儀に参列した日は、生涯でもっとも悲しい日の一つである。ジョーンと私はこのもっとも尊敬すべき友人にさようならを言った。ブリティッシュ・バーズ誌に書いた私の弔辞はあまりにも短く、RSPBがかつて得た人材の中でも最高の人物におよそ値しないものであった。




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