第五章 ダンジネスの捕食者たち 1 カラスとキツネ
砲兵隊を退役し、復職した郵政省を病気退職した後、RSPBのダンジネス鳥類保護区の保護監視人として再出発した私。次から次へと困難が立ちはだかります。
第五章 ダンジネスの捕食者たち
1 カラスとキツネ
ダンジネス鳥類保護区の再開にあたって、まず最初にやるべきことは、地域の人々の卵採取の習慣をやめさせることだった。これは十二年の期間を経て、ほとんど既得権になっていたものだ。
「ちっさい海のつばめのがいちばんだな」一九五二年五月のある日、リッドから来た二人連れの漁師が言った。アジサシの繁殖地で、私に卵採取をとめられた時のことだ。「ごめのやつらの卵はでっかすぎるしな。魚くさい」
私は味についてとやかく言いはしなかった。これまでに、コアジサシの卵もセグロカモメの卵も、自分の割り当て分以上にたくさん食べてきて、両方ともたいへん好ましく味わったものである。どちらもまったく魚くさくはなかったし、カモメの卵といえば、ロンドンのしゃれたレストランで途方もない値段がついている。私は同じ地方の人間だし、お国の伝承の欠点も承知している。それでも、人が信じたいと思っていることを変えるわけには行かないものだ。
地元の侵入者を掃き出そうとする場合は、概して友好的な会話がかわされた。ダンジネスがかつては有名な鳥の保護区であり、仲間うちから二人の見張り人が公式に依頼されてその任に当たっていたことを、年配の人は承知しており、尊敬もしていた。
最初の数週間のうちに、リッドの町民による卵採取はもはや深刻なトラブルではなくなった。しかし、車で動く人がふえたため、ダンジネスは以前のように人里離れた場所ではなくなっており、今日ではどこでも同様だが、地域外から入ってくる人々が大きな問題になりはじめていた。保護区の周囲は延長一四キロに及び、フェンスがなく、告知板もまだ三枚しかなかった。小砂利の上を歩いて侵入者を追いかけるのはたいへんな仕事で、春ごとに一五〇〇キロも歩いたおかげで、がんじょうな軍隊用のブーツはすりへって、かかとがすっかりなくなってしまった。
私が書いた報告書の要点は「人間の侵入を防ぎ、その後、生態学的な修復および捕食者と獲物との関係調整の必要があるかどうかについての指標を得る」というものだった。
人間の卵採取は、鳥たちの繁殖失敗原因の主たるものではないという確信は、すぐに立証された。私がたてたトタン板のぼろ小屋は、セグロカモメのコロニーのいちばん近い巣から九〇メートルしか離れていなかった。子供のころに知っていた七〇〇つがいから、わずか八四つがいに減ったコロニーである。もっと海岸に近いところで巣をつくっていたアジサシも、戦前は一〇〇〇つがいにも及んだコロニーに、今は二六つがいしかいないというひどい減り方だった。三〇〇~四〇〇つがいいたはずのユリカモメは、いまでは一つがいもおらず、カモメ、コアジサシ、イシチドリといったダンジネスでもっとも貴重な種類は、かろうじて繁殖を続けているといったありさまだった。
まもなく、野生の捕食者が原因らしい、ということがわかってきた。古い遮蔽壕の銃の照準の上から、私はハシボソガラスが巣の間でせっせと何かをやっているのを見守ることができた。時には、コロニー内に同時に四つがいものカラスがいることもある。ぜんぶのセグロカモメが産卵したところで、私は毎日明け方と夕方、番号をふった巣で卵の数をかぞえた。一個の卵が二四時間以上残っていることはめったになかった。ほとんどすべての卵は日中になくなっている。私に言えるのは、カラスが巣に近づいているということだけだった。
セグロカモメは、笑い声のような「ハハハ」という耳ざわりな大きな声を出す。捕食者が繁殖場所にいる時には、恐れー私の感情の反映でもあるーを表現しているように、ずっと低い調子で鳴くことがある。残っていた卵をカラスにとられた直後、巣のかたわらに立っているつがいは、もっと声を低め、やわらかい単音節の「ウォク」という声をくりかえす。
鳥には顔面筋がないので、落胆の表情が見えることも、悲しみの涙を流すこともない。しかし、こうした時にセグロカモメのつがいがかわすつぶやき声は、お互いのなぐさめになると私は信じている。鳥に接する時、擬人主義におちいらないようにと、私は長い間ずっと気をつけていた。機械論をとるなら、刺激に対する反応の発現ということになるのかもしれないが、鳥の声による情動表現は、感じやすい人間には感知できる。私にとっては、悲しげな道化じみたセグロカモメの笑い声は、ダンジネスでの七年間、救いのない鳥たちをなんとか助けようとして努力を続けていた七年間を要約するようなものに聞こえた。
鳥の行動について、ホレース・アリグザンダーのような禁欲的なヒューマニストと論議するのはよいことだ。霧の深い九月のある日、私たちはダンジネスの浜辺に座っていた。背後では霧笛が鳴り響き、沖合のどこかで、船のサイレンが神経質に鳴らされていた。その時、すぐそばの小石の上から二羽のハシグロビタキが舞い上がり、南西方向の海に向かって、濃い霧のマットの中にまっすぐに飛び込んでいった。吹いているそよ風に対して直角の方向であり、この線をたどると英仏海峡を渡るには最長の距離を飛ぶことになる。指標となるべき太陽も、陸標も、なにひとつ見えなかった。渡りについて書いている著者たちの意見に従うなら、およそ想像できない行動である。もし鳥が戻ってきていたとしても、私たちは見ていない。ホレースは私の方に向き直り、こういうこともあるものさ、といいたげな微笑みを浮かべた。
カラスは鳥の中でもっとも賢い。ハシボソガラスの狩猟技術はまったく見上げたものだった。つがいのうちの一羽がセグロカモメの巣のまわりをなまいきな様子できどって歩く。そして、座っているカモメに向かって挑発的に低く飛んでみせたりする。二番目のカラスは五〇メートルほど離れてたたずんでいる。やがて、遅かれ早かれ、カモメは巣を離れてしつこいやっかいものに攻撃をしかける。そこでもう一羽のカラスが巣の上に舞い降りて、ほんの数秒、巣の中にかがみこむようにしてから、低く飛んで、つれあいに付き添われて飛び去る。すぐさま巣を調べに行くと、たしかにあったはずの一個の卵がなくなっている。しかし、どうやって運び去ることができるのだろうか。
卵を運んで行くカラスは、嘴を開けて卵をくわえ、下嘴は殻に突き刺していると記録されている。しかし、私が見た巣から飛び去るカラスは、まちがいなく一個の卵をとったはずなのに、嘴を閉じていた。セグロカモメの卵は七〇ミリ×五〇ミリの大きさがあり、後に実験してみたところ、殺されたばかりのハシボソガラスの嘴に一個まるごと入れようとしても無理なことがわかった。同様に、巣から卵をとった後、飛び去るカラスののどがふくらんでいたこともない。ヤマシギがヒナを一羽運ぶ時のように、ももの間にはさんで運んでいるとすれば、たった今卵がとられたとわかっている巣から飛び去るカラスの動きには、何らかの異常が見られるに違いない。
単独で行動しているカラスを観察しはじめてから、謎のもう一つの側面が見えてきた。砂利の上を低くまっすぐに、時には何百メートルもの距離を飛んできたカラスが、とつぜん舞い降りて、砂利の中をつつきはじめる。そして頭を上げ、明らかに何かを飲んだり、呑みこむような動作をしている。その地点に行ってみると、一部が食べられたセグロカモメの卵が見つかった。小さな砂利の間に垂直に埋められて、穴をあけられた太いほうの端が水平になっている。時にはクラドニア(ハナゴケの類)の中に一部が埋められていることもあった。こういう場所では、卵は突きだした小石とだいたいおなじくらいの大きさで、まったくそっくりだった。こうした石には黒っぽい苔(地衣類のアナツブゴケの類)で斑点がついており、まるでセグロカモメの卵そのもののように見えた。一部を埋められた卵は、後で食べるためにエッグカップに入れてあるようなもので、まさに理想的な貯蔵方法である。カラスの賢さに思わず笑ってしまった。苦い笑いではあったけれど。
次に驚いたのは、丸のまま食べられていない卵がおよそ五センチの深さに埋められているのを見つけたことだった。いつもこまかい砂利の中に生えた草むらに埋められており、いったんありそうな場所の様子を覚えると、指先で注意深く掘ってみて、完全な卵を見つけることができるようになった。これらの卵は卵殻にまったく傷がないまま埋められており、後で食べるためには、可能なかぎり最高の貯蔵状態におかれていた。卵をとられたセグロカモメは二,三日のうちに新しい卵を産むので、供給が続くということになる。一九五二年、監視をはじめた最初の繁殖期、私の八四つがいのセグロカモメは六〇〇個以上の卵を一九四の別々の巣に生んだ。私はエッグ・カップの穴で食べられた卵を九〇個見つけた。この年には、ただ一羽のヒナもふ化しなかった。
週ごとに本部に送る報告の中で、私は卵がどうやってなくなるかを詳しく述べた。フィリップ・ブラウンはジョーンに電話をかけてきて、砂利の砂漠に一日中出ている孤独な仕事のために、ご亭主は頭がおかしくなってしまったのではないかと言ったものだ。そこで、私は週末に手伝いに来てくれる友人たちに、携帯用のハイド(訳注;日本ではふつう「ブラインド」と呼ぶ。鳥などの観察に身を隠すためのもの)の中から、じっさいにこの様子を見てもらった。カラスの頭のよさの証人となるのをいちばん楽しんでくれたのは、写真家のエリック・ホスキングで、自分でも草むらに埋められた卵や、何個かの食べられた卵を見つけてくれた。ホスキングが撮った証拠写真は、一九五六年六月号のブリティッシュ・バーズ誌に掲載されている。
保護区の中では十一つがいのハシボソガラスが巣をかけていた。戦前には一組もいなかったものだ。繁殖期も終わりに近づいたころ、RSPBの委員会はついに納得してくれた。そして十二月のなかば、私はエセックスのアバートン貯水池に出かけ、標識調査のステーションを順調に運営しているC・B・ウェインライト陸軍少将のもとで二日間をともに過ごした。少将は率直な人柄で、軍人らしくぶっきらぼうではあったが、偉大な人物だった。ここでは破壊的なカラスはもはや悩みの種ではなくなっており、私はトラップの作り方を教えてもらった。
一九五三年の早い時期、私はこの方式のトラップをこしらえて試しはじめた。これは金網でできた大きな箱で、三・六×三・六メートル、高さは一・八メートルあった。屋根は大きなじょうご状になっており、中にはおとり用の生きたカラスがいれてある。このカラスを彼は鉄道便で送ってくれた。トラップはクリスマス・デルの近くの砂利の上に建てられた。ウォーカーズ・アウトランズの一角で、私の小屋からは一・六キロ離れていたが、望遠鏡を使って様子を見ることができた。
この地域いったいに散らばっている昔ながらの軍のがらくたを使って、私は大型の落とし戸式のポッター・トラップを八つ作った。地元にある大きなふ化場「リッドのチキン」社から、溺れさせた一日令の雄のヒヨコとふ化しなかった卵を、カラスの餌用としてまったくただで、しかも喜んで提供してもらえることがわかった。供給量が潤沢な上、これはカラスにとってはたまらないほど魅力的なごちそうだった。生きたおとりを入れた大きいトラップには、同時に十一羽も入ったことがある。一九五三年に私は五七羽のカラスを殺し、一九五四年には六二羽を殺したが、やがて保護区内で繁殖するものがいなくなるまで、カラスの数は次第に減っていった。
鳥たちの主要な捕食者であるカラスに対して、最初の捕獲作戦を繁殖期に進めた結果、卵の大半はもっと長い時間残っているようになった。いくつかの卵はふ化した・・・・一九三九年以来の最初のヒナである。しかし、六月下旬のある朝、私はかえったヒナがぜんぶ消え失せ、たくさんの卵が草の中で食べられているのを発見した。日中のカラスによる食害が、夜間のキツネによる捕食に置き換わっていたのだ。
これまでにも、砲弾でできた深いクレーターの中で日中眠っているキツネに時々出くわして、おどろかせたことがあった。私が監視人として着任した時から、保護区の一部の持ち主でもあるリチャード・バローズは、何度となくキツネの害について話してくれた。一九五三年六月、私宛ての手紙にはこう書かれている。
「一九四三年以来、一〇年にもわたって、私はRSPBに言い続けてきたんだよ。おもに手紙でだが、面と向かって口頭で言ったこともある。キツネがアジサシやカモメのコロニーをダンジネスから追い払ってしまうとね。何としてもふしぎでたまらないのは、いくら書いても口で言っても、誰もそれを信じたり、理解する様子を見せてくれないことだ」
小柄で弱々しく、高齢の身をおして、バローズはリッドから自転車で三キロの道のりを足しげく私の小屋まで通っていた。足がかりになるような道路の縁石がここにはなかったので、自転車から下りる時、彼は道路わきのやわらかい花の中にどさりと落ちるようにしていた。バローズの全生涯と幸福とはダンジネスの鳥たちと綯い合わされていた。戦時中のキツネの出現は、心臓を止めてしまうような打撃であった。
現在、冷酷な捕食者であるキツネは、イギリス国内でかつてないほどの数に増加している。それは我々人間の責任である。捕食者と、その食害をもっとも大きな打撃として受ける獲物との間の崩れたバランスを正すため、できるかぎりのことをすべきだとバローズは言った。そして、自分の二丁の散弾銃を私にくれて、いつも一丁を持ち歩き、空いた時間をすべて使って、あらゆる隠れ場や砲撃跡の穴をつつきまわってくれるよう、哀願した。バローズが来るたび、私はキツネの死体を見せることができたので、彼は興奮して震えんばかりだった。
一九五三年八月、バローズは自然保護会議の事務局長であるE・M・ニコルソンとRSPBのウォッチャーズ・コミティの議長であるジェフリー・デントに対して、フィリップ・ブラウンと至急話し合いを持つようにと、きつい調子で手紙を書いた。ブラウンは、キツネの進出を取り除くべく、来るべき冬にすぐにも駆除作戦をはじめようというバローズの考えに賛意を書き送っていた。
戦時中、猟場管理が実質的に停止されるとともに、周辺の樹木におおわれた丘陵地帯からキツネがロムニー・マーシュに移動してきていた。ダンジネスには無数のアナウサギがあふれていて、手つかずの食料源になっていた。いかにもキツネらしく、アナウサギに限らずあらゆる獲物の開拓をはじめていたので、鶏の被害を減らす目的で、一九五二年の春早く、大がかりな狩猟隊が組織された。私も加わったが、戦前にはキツネの存在は全く知られていなかったにもかかわらず、なんと三二頭ものキツネが射殺された地域もあった。
一九五三年十一月、フランスから到来したアナウサギ固有の伝染病ーノミによって媒介される粘液腺腫ーが爆発的にひろがり、ウサギの個体群の九九・五パーセントが死亡するという事態が起きた。それにもかかわらず、キツネの個体数には大した変化は見られなかった。ウサギ以外の獲物を利用することができたためで、獲物の中には地上で営巣する私の鳥たちの卵やヒナも含まれていた。そこで、何回にもわたってキツネ狩りが行われ(私も狩猟隊のメンバーに含まれるが)、最終的には大きな効果を上げたため、一九五四年以降には、砂利場の地域全体から外の灌木地帯に至るまで、あらいざらい狩りたてて、やっと六頭のキツネがとれただけだった。