第四章 砲兵隊と野戦病院 4 終戦 戦後
4 終戦 戦後
訓練は続行された。世界の歴史というものは、ある日突然に変わるわけではないからだ。しかし、いくぶんリラックスしたものになった。
砲兵隊の測量技術者の仕事は、大いなるアウトドア指向を持つものにとっては、楽しみを味わうチャンスにめぐまれたものと言える。我々は「セブン・シスターズ(七人姉妹)」の白亜の崖の背後にあるサセックスのダウンズで砲撃をするために、ウォーティング、ホーヴ、ブライトンといった観光名所を結ぶ街道沿いに戦車を走らせた。そして、かつてロンと二人でライからバードウォッチングの旅をして登った山々よりもっと数多くの尾根を上り下りした。食料増産のキャンペーンのため、それほど勾配が急でない斜面には小麦や大麦が作られていた。
渡り途中や、繁殖しているハシグロビタキが虫をとれるような、草刈りを終えた牧草地はまだたくさんあった。しかし、一九四五年の秋、我々が演習をした三二平方キロかその程度の場所で、一日に百羽以上のハシグロビタキを見かけた日は全くなかった。
そこで、昔の地域のナチュラリストたち、たとえばマークウィック、ダドニー、より近い年代ではハドソンなどが発表した記録について、私はまたしても首をひねることになった。ハドソンによれば、食通が好むこうした小鳥は、羊飼いによって一日に一二〇〇羽もわなで捕えられ、列車でロンドンのレストランに運ばれたとされている。使われたわなは、長い馬の尾の毛で輪なわをつくり、ハシグロビタキがのぞかずにはいられないような小さなトンネルにしかけるというものだ。
イギリス人は無慈悲にも、小鳥を珍味として高く評価していた。昔の鳥学者は、捕獲された数が大きければ大きいほど著書に引用するのを好んでいるが、それにしてもこの数はとても信じられない。わずか一世紀の間に、生息地や営巣場所、餌の供給、種の生息域、渡りのパターンが劇的に変化するということでもなければ、こんな数の捕獲は不可能だ。
おそらくはもう少し信頼できるものとして、中世の男爵が保存していた宴会のメニューの記録がある。当時は野生動物が多く、人口ははるかに少なく、また土地の化学的な汚染もなかった。W・E・ミードによれば、ポタージュに入れるものとしてツグミ、ホシムクドリ、ムネアカヒワ、スズメなどが挙げられ、カササギ、コクマルガラス、ミヤマガラスも食卓に上がった。一四六五年、ヨークの大司教の即位式にあたっては、二五〇〇人の客に対して、何千頭にものぼる羊、子牛、豚、鹿に加えて、二〇四羽のサンカノゴイ、白鳥四〇〇羽、白鷺一〇〇〇羽、アオサギ四〇〇羽、野鴨四〇〇〇羽、クジャク一〇四羽、山鶉五〇〇羽、雉二〇〇羽、鶉一〇〇ダース、鶴二〇四羽、千鳥四〇〇羽、エリマキシギ二〇〇ダース、ヤマシギ四〇〇羽、ダイシャクシギ一〇〇羽、鳩四〇〇〇羽が含まれていたとある。そもそも、可能なことなのだろうか。
インドへ向かうわが連隊の人選からはずされ、私は近々に除隊となる員数に入り、ライン川駐屯のイギリス陸軍に配属された。オランダを通過する列車の旅は、止まってはまた走るというのろのろしたものだったが、目をみはるような経験になった。ドイツ軍は侵入する敵を撃退するため、平坦な陸地全体を冠水させていた。このため、多くの鳥が繁殖する場を失った。とりわけソリハシセイタカシギやオグロシギなどだ。当時、私はまだ気づいていなかったが、これらのうちの一部のものは、イギリスの東アングリア地方の海岸で、同じく敵の侵入を防ぐために作られたもっと浅い冠水地帯で新しい営巣場所を見つけるに至った。
第六砲騎兵連隊から砲兵連隊第一〇中隊に出向することになって、私はハンブルグ近くの小さな町、ルーエのヴィンゼンに入った。ドイツ北部の苛烈な寒気の中で、時間の大半は娯楽を作り出すために費やされた。平坦で凍てついた地方は面白みに欠けており、鳥もいなかったが、庭につるした肉つきの骨にくる一羽のシジュウカラは唯一の例外だった。私の小さなすてきな宿舎は川沿いにあり、ポーランド人の船長がこのぜいたく品を分けてくれた。この人のおかげでドイツ語の習得も楽になった。
一九四五年のクリスマスは、戦争の間、国外で過ごす初めてのものだった。我々は幼い孤児一五〇人に生まれて初めてのチョコレートや、どうやって食べるのかがわからなかったオレンジを贈って喜ばせた。私は子供が大好きだった。孤児たちの両親が連合軍側に殺されたことを思うと、無垢な子供たちがまわりに群がり、いっしょになって「きよしこの夜」や「もみの木」を歌ってくれるのは感動的だった。
狩猟隊を組織して、ハンブルグからさかのぼったエルベ川周辺の沼沢地や森に出向き、押収された散弾銃や自分のライフルでキジや鹿、猪などを撃って、獲物を食べたこともある。凍った川の対岸にはロシア兵がいて、双眼鏡で彼らの方を見ている私を監視していた。私はほんとうに鳥を見ていたのだが、ロシア兵は信じてはくれなかっただろう。
兵営の生活は非現実そのものであった。夜はほとんど連日らんちきパーティーだった。道のむこう側のバーでは、シュタインヘイガーのジンのボトルがタバコ一〇本、ウィスキーなら一〇〇本の価格だった。兵営の軍曹がどういう計算をしているか、推して知るべし、である。
私はバードウォッチングに健全さをもとめることができた。行ったことがない場所にぶらぶら旅ができるようにはからうのはむずかしくなかった。デンマークのエスプイェルグに、友人一人といっしょに出かける用事をうまくこしらえることさえできた。ホテルのデンマーク人は下士官づらをした連中で、鳥は少なく、二泊もすれば十分だった。我々はシュレスヴィッヒ―ホルスタインを通り、海鷲の故郷であるプレンのいくつもの湖を経て、ゆっくりと帰還した。
春の到来とともに、ローテンブルグの第三〇地方軍団本部は移動することになった。ブレーメンーハンブルグ間のアウトバーンを出発し、松林の多い地方にあるルフトワッフェの駐屯地に向かった。急傾斜の森林には洞窟が多く、多かれ少なかれ手つかずの部分もあって、莫大な国内の戦利品の貯蔵所になっていた。
私は、この地方の金鉱ともいうべきドイツの警察官の訓練を受け持つことになった。そして、高齢者やまだ若い少年たちにピストルやライフルの射撃を教えた。森の中の空き地で、つい先ごろまで敵どうしだった二〇名の武器を持った人たちといっしょに、ただ一人で過ごしたわけだが、何の問題もなかった。地元の若い女の子が従卒がわりについてくれて、たいへん役に立つ口語体のドイツ語をたっぷりと教えてくれた。まもなく、私はプロシア語の罵声のこっけいな模倣といったしろもので、命令を下すことができるようになった。それでも、母国の軍隊に下すよりもすみやかに命令が実行されたものだ。
わが警察官たちは、正面入り口から朝入ってきて夕方帰る一般人をチェックしていた。女性の労働者たちは、朝に仕事のために入ってくる時は、ほっそりしていてだいたんな態度だが、一日を終えて帰りがけにチェックを受ける時は、まるで妊娠しているようにふくらんだ姿で、こそこそと帰るのだった。こと私に関するかぎりは、彼女たちは再略奪した衣類を胴に巻いたり、スカートやエプロンの下に隠したりして持ち帰ることができた。
途中でおもしろい中断期間があった。連合国側の友好関係を深めるという計画の一環として、私はハイデルベルグを下ったところに駐屯しているアメリカ砲兵隊のところで二週間を過ごした。交替に、アメリカ砲兵隊の将校のひとりがイギリス軍のところに来ていた。アメリカ軍の駐屯地は八〇〇キロ南ではるかに暖かく、ネッカー川の岸、森林におおわれた山々の間にあたり、鳥を見るにはよいところだった。一例をあげれば、ここで初めてカンムリガラを見た。
鳥を見かけるたびに双眼鏡を向けずにはいられない私の様子を見て、アメリカ人たちは、イギリス人の同僚たちよりもはるかにおもしろがった。
「あれがロビンだって?あんなちっちゃいのかい?」
有名なシュロスの上にある森を歩いている時に、いっしょにいた若い陸軍大尉に言われた。まったくそのとおりで、アメリカのロビン(コマツグミ)は、初期のイギリスからの移住者が、赤い胸をしているところから名付けたものだが、ヤドリギツグミくらいの大きさがある種類なのだ。
ローテンブルグの兵舎に戻ってから、除隊祝いのらんちき騒ぎの間に、我々は空きビンをボールがわりにしてクリケットをやった。当時、除隊祝いはひんぱんに行われていた。
ドイツを打ち破った直後のこの一年というものは、よくないことがいくらでもあった。数多くの社会慣例が口実をもうけては破られた。その当時、バードウォッチングがどれほど珍奇なものとして扱われたかと言っても、この趣味こそが、私の足をしっかり地につけてくれていたと私は断言できる。軍隊にいた六年の間に、私は多くの場所で何千人もの人々と出会ってきたが、他のバードウォッチャーは一人もいなかった。
除隊は一九四六年の五月末だった。サリーの郵便局では、かつて所属していた時分とくらべ、仕事や規格の様子は大々的に変わっていた。これまでのゆるぎない公益への忠誠は危機に瀕していた。戦時下という悪しき状況や悪しき時間は、もはや口実として許されるものではない。技術に対する誇りを失ったためだと私には思われた。
状況からの変革を求めた結果、私は昇進して指導要員となった。そして故郷の州やハンプシャーを含むイギリス東部をカバーする南東地域の大きな事務所で働くことになった。
一九四六年から一九四七年にかけての過酷な冬の時期には、記憶にあるかぎり最大の降雪があり、二か月間というもの、大地は雪におおわれた。私はノリッジとイプスウィッチで指導業務にあたっていたが、オーウェル川の凍っていない中央部には、カモがすしづめになっていた。干潮時の泥地はコオバシギ、ハマシギ、アカアシシギ、ツクシガモでわきかえらんばかりだった。フィーリクストウの河口近くにあった小さなアシ原で、私は初めてヒゲガラを見た。ヒゲガラはアシ原という減少している環境に限って生息する種類であり、当時、極端に数が少ない種類になっていた。この年の冬の厳しさで、さらに多くが命を失ったことだろう。
郵便局の再編成という事業は、もっと多くの昇進の機会を与えてくれた。まもなく私はセント・マーティンズ・ル・グランドの郵政省の運営部門で監督官補になり、おもにトラブル対処のため、隔週に各地に旅行することになった。時間の使い方を自分で計画できるというのは、たいへん具合のよいものだ。たとえばリバプールで仕事があるなら、チェスター・ホテルに泊まり、ディー川の河口で鳥を見るチャンスが作れるということである。私は列車旅行が好きだった。一九四七年にクロイドンで大きな衝突事故を起こした列車に偶然にも乗り合わせていて、隣の車両の旅客に多数の死傷者が出たという経験の後でさえ、そうだった。神慮とは、ものごとにかくのごとく働くものであろうか。
しかし、ロンドンの汚染された空気の中で長時間過ごしていたことの必然的な結果として、生来の胸の弱さが表面に出てきてしまった。ずっと恐れていたにもかかわらず、長い間抑制されていたものだ。一九五〇年から一九五一年にかけての冬の殺人的なスモッグの到来によって、私は長いこと患いつくことになった。古きよき郵政省を愛していたものにとって、この職をあきらめ、新しいスタートを切るということは、たいへん厳しい決定であった。まるで再び砲兵隊に戻り、さま変わりした見知らぬチームに入るというようなものだった。
少なくともジョーンと私には、生涯の試合を終わらせるまでにはまだ十分な時間が残っていた。