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第四章 砲兵隊と野戦病院 3 野戦病院

3 野戦病院 


 数日後、意外なことに私は野戦病院に入院していた。

 装備を再び整えてヨーロッパの海岸に上陸するための手順として、我々の連隊はアルジェに向かって長い行軍を始めていた。トラックに二人ずつ乗って、交替で眠るか運転をしていた。一〇分間の喫煙休止の時、道路ぎわの岩の間からタイミングよく出てきたアラビア人は、避けるわけにも行かない。私はナツメヤシのごたまぜを買った。荷台に戻って、それをぜんぶ食べてしまったのだが、気分が悪くなって、後部板から身を乗り出した。そして、車の排気ガスを肺まで思いきり吸い込んで、意識を失った。

 私は天国で目覚めた。そうであるに違いない。私の上にはあざやかな真珠色の霧がただよい、その中から愛らしい若い天使たちがほほえみかけているではないか。目の焦点が定まってくると、六人の顔がわかった。口紅やマスカラ、アイシャドーのたぐいはつけていないが、明らかにコルゲートの類を使っているようだった。人間であるはずがない。そして全員が、パラダイスへの歓迎の輝くような微笑みを浮かべていた。

 その朝じゅうずっと私は頭がくらくらしていて、昼食をスプーンで食べさせてもらっている間にようやく意識がはっきりしてきた。そして自分が天国ではなくて、岩だらけの山ぎわにあるアメリカの野戦病院のテントにいることを発見した。

 何年も後になって、私はテレビ番組のM*A*S*H(移動陸軍外科病院)をたいへん楽しみにして見たものだ。この一団は、いたって行きあたりばったりの奇怪なしろものであった。一日たつと、私はこれまでにないどころか、これからもないほどの申し分ない健康状態を取り戻したが、なんと彼らは鉛中毒という名目(まあ仮病みたいなものさ、と言っていた)で、恥ずかしげもなく、私を三週間も病院にとどめおいた。なんでいけないの、と彼らは言うのだ。神が見放したもうたこの戦争で、あなたはもう十分にひどい目にあって来たでしょう、イギリス人さん。

 我々の連隊がどこにいるのか、私には見当もつかなかったし、私についての問い合わせもなかった。恍惚状態の私が書いた手紙は、本国で銃後のつらい生活を送っているジョーンにあてたものとしては、少々配慮に欠けていたかもしれない。

「こんなすばらしい扱いを受けて、かわいい看護婦さんたちを眺めていられるなんて・・・・この六か月というもの、英語を話す女性の声を聞いたのは、これが初めてなんだ。食事も最高だ。七面鳥、チキン、アスパラガス、ホウレンソウ、フルーツサラダ、グレープフルーツ、アイスティー、チョコレート風味の麦芽飲料なんかが毎食のようにつくんだよ。大豆ソーセージや缶詰の牛肉とはだいぶ違っている。それに、いいかい、アフリカの月光のもとで、なんと屋外映画まで見ることができるんだ」

 決して誇張したものではなく、それどころか、じっさいはこれ以上の待遇だった。運動のためという名目で、看護婦さんがパジャマ姿の私を山ぎわへのハイキングに連れ出してくれるのだが、家への手紙には、そこでのバードウォッチングがたいへんすばらしかったと書いた。双眼鏡は路上のどこかにいる私のトラックの中に残したままだというのに、だ。

 アルジェリアのむき出しになった茶色の丘陵地帯は夏のはじめで、病院のテントはだいたい四八℃内外の暑さだった。七月一日のこと、私はバケツに何杯もの水を浴びせかけられて目をさました。ベッドのまわりの横木には、キャンディや巻きタバコやきざみタバコの箱、パイプなどを下げた花づながとりつけられていた。きらきらした目の小柄な看護婦さんがタオルでふいてくれたが、笑い声や抗議がストップしたところで、奇妙にセクシーな声でささやいた。「ハーブ、まあ、なんてことでしょうね。今日はあなたのお誕生日よ。今夜、私のテントにいらっしゃいね。立ち入り禁止のサインのところから五番目よ。五番目のテントよ、わかった?」

 これ以上もてなしのよい病院はないだろう。食事どき、病院のスタッフや歩くことができる負傷兵は、どの階級の者も等しく列をつくってならぶ。輝くばかりに白く、ピンクの指先をした栄養士の女の子がふたり、内気さを見せまいと精一杯の努力をしながら、食事の容器の前に立っていた。掲示には大きな文字が華麗な極彩色で、「みなさん、お静かに!量は少なめ?ふつう?大盛り?」と書かれていた。

 私の前に並んだ、見るからに憔悴しきったアメリカ空軍の軍曹は、フランクフルト・ソーセージの大盛りを頼んだ。仕切りのついた皿にたっぷりと盛りつけてもらってから、彼は「もっと」と言った。アメリカ製のずっしり腹にこたえるソーセージを、この人はなんと二二本も手に入れて、クリーム入りのマッシュポテトの山盛りといっしょに皿に盛り上げた。私はあっけにとられてしまって、いっしょに腰かけたものの、数がかぞえられないほどだった。彼は四本までは平らげたものの、残りは出口のところの大きなゴミ缶にあけてしまった。

 表面的には、私はたぶん質朴なイギリス兵のままであったが、心中では、気楽そのものといったアメリカの新しい友人たちの生き方のとりこになってしまった。少なくとも病院のスタッフについては、常軌を逸したというべき気楽さを装うのは、人間の血肉を探りまわる仕事に対しての、いうなれば楯の役を果たしているものだった。この人たちを愛さずにいられるわけがない。

 私は彼らの似顔絵を描いていた。できばえがよいわけではなかったが、すぐに順番待ちのリストができた。陸軍少佐殿が言うには、「私の番がまわってくるまで帰っちゃいかんぞ。いっそアメリカ軍に入らんかね。あんた、もう半分がたは、罰あたりのヤンキーになっとるじゃないか」

 誘惑的なことばだった。しかし私はイギリス鉄道運輸局の役人に招請されて、谷をずっと下ったところにある小さな鉄道の駅に行った。アルジェの近くのブリダまでの通行証をもらったが、そこで自分の連隊の位置を教えてもらったり、合流しようとやってみることができるだろうとのことだ。

 私が乗るはずの軍用列車の座席はキャンセルされており、水を積み込むために停車したタンク車によじのぼって、タンクの鋼鉄の腹の下に横になれる空間を見つけた。親愛なるアメリカ医療隊が用意してくれた食物が入った荷物からは切り離されてしまったので、所持品と言えばフランの詰まった財布、AB六四番の認識手帳、水筒、そして缶詰の食料の小さな包み、あとは着ているカーキ色のシャツとショーツという軍服に米軍の作業帽、そして大きな古い野戦外套だけだった。この外套を残してくれたことはありがたかった。鉄道の平たい荷台や砂漠の砂は、日没後の冷え込みがきつかったからだ。

 チュニジアに戻っていたわが連隊に合流するまでには、一六〇〇キロにものぼるジグザグな工程と、三週間にわたる冒険行が必要だった。列車やトラックにヒッチハイクし、トアレグの駐屯地に一泊したり、ゴウムの大隊と一夜をともにしたこともある。誰も余計なことはたずねなかった。にやっと歯をむき出して笑うフランス系アフリカ人の小銃兵たちの旧式な鉄砲は、ターバンに届くほどの長さだった。私がなんでも食べることができたのは、たいへん都合がよかった。たとえば焦げた山羊肉とか、腐ったチーズのようなしろもの、またヨーグルトと呼ぶべきものらしい食べ物などだ。

 

 六週間の不在の後に、ようやく第一七二連隊本部に歩み入った日のことは、思えばいかにも当然ながら、典型的なイギリスらしさをあらわすものである。

「いよう、ジャミー・バスタード(こん畜生、抜け目のないやつめ)」ジミー・メイルが言ったものだ。測量隊のテントの中で、私が食べ物や女の子のことを話している間、彼は目に正しい理解の色を見せて言った。「うまいこと、やりやがったもんだなあ」

 私は早い時期のウォスビー・テストを受けそこねていた。ウォスビー・テストというのは陸軍省選抜部(War Office Selection Board)の頭文字をとったもので、士官候補生訓練部隊の予選にむけて、故郷に送られるのが適当とされるものの選抜試験である。しかし、次のーそして最後のー機会にちょうど間に合った。まさしくジャミーと言われてしかるべきである。町長のオフィスで最初の面接を待っている間に、前のグループが合否を記された封筒を受け取るのを見た。兵士のうちの二人は頬に涙を流していた。ああ、自分が受け取る時にはどんな気持ちだろうか。

 やがて私はジョーンの待つ家にあてて、もうすぐ驚かせてやれるはずだと書き送ることができた。九月のはじめ、第一七二連隊から合格した三人と、他の連隊からの合格者たちは、列車に乗ってアルジェへと戻った。輸送船に乗り込む時、スティーブ(教師で、私の測量仲間でもある副砲手のスティーヴンズ)が言った。「おい、わかるか。こいつはまた、あの反吐だらけの腐りかけたおんぼろ船のオルビト号じゃないか。おれたちが乗ってきた船だよ」

 ジブラルタル港に停泊していた神経のぴりぴりする五日間を別にすれば、故郷への旅は快適だった。この時はイタリアの小型潜水艦を追いつめていたのだが、この連中は我々の船に、まるで笠貝のようにしつこい機雷を貼りつけてくれたものだ。実のところ、この遅延は私にとってはむしろ幸運というべきものだった。秋のジブラルタルと言えば、鳥を見るにはヨーロッパでも最高の場所の一つである。ワシやノスリ、そのほかの猛禽類が、上昇気流に乗ってロックとシエラ・デ・オファンから湾を横切り、モロッコへむかって狭い海峡を滑空して行くのがよく見えた。

 北アフリカの茶色と黄色の景色ばかりを見慣れていた後では、リバプールから南へ向かう列車の旅は、わが故郷がいかに緑豊かであるかをあらためて思い出させてくれるものになった。ケントの北部丘陵のへりにあるロッサムが、第一四八士官候補生訓練部隊の予選基地であり、すばらしいイギリスの庭園の光景がひろがっていた。ああ、神様、ありがとうございます。しかし、私の中の半分は、アフリカにいるわが連隊とともにあることを望んでいた。

 わずか数日ではあるが、休暇が許された。ジョーンは、もし男の子ができたらアブダルと名前をつけなくてはね、と言ったものだ。私は砂漠のアラビア人同様に、ほとんど全身にわたってまっくろに日焼けしていた。


 十一か月にわたる士官候補生としての訓練の最後の数週間は、湖沼地方での実戦訓練だった。山々は小ぎれいに雪を頂いていた。この訓練においては、教師の主たる目的は、訓練生を寒くてみじめな状態におくことにあった。

「頭、保て、けつをさげろ!」背中のすぐ上を機関銃の実弾がすじを引いていく中、雪中や皮膚がちりちりするような冷たい流れの中を這って行く間じゅう、彼らはどなり続けた。我々はもじもじ這っては腹で溝を掘った。軍の教練に対する軍曹の自信のほどには感心せざるを得なかった。効果を上げているのだから、信用すべきだというわけだ。

 冬の雪山ではほとんど鳥が見られなかったが、見慣れないワタリガラスやノスリなどは見る価値があった。「こらっ、ミスター・アクセル、このけしからん気のふれたバードウォッチャー野郎め、とっとと露営地に戻って服を乾かして来やがれっ」

かくのごとく、彼らはまことに感動的なまでに丁重な心遣いを示してくれるのであった。神のご加護を。

 私はサセックス海岸のショアハムに駐屯しているイギリス砲騎兵隊第六連隊の連隊測量士官に任じられた。ぴかぴかの新しい測量要員部隊とともに、二五ポンド砲をチャーチル・タンクに乗せて、我々は東南アジアの島国への海上侵攻に備えて訓練を受けていた。

 ジャングルの戦場における測量実践にもっとも近い適当な場所と言えば、アシの生えた沼沢地か、ニュー・フォレストの胸までの高さにしげったワラビの中だった。私にとっては新しいけっこうな土地だったが、ほとんどが町そだちのわが兵隊たちにとってはおそるべき場所である。我々はみな、どんなおそろしい土地で測量データをとることになるのかと気にしていた。そして、どこに送り込まれるにせよ、こんな深く茂った植生の中で測量するということになれば、砲騎兵部隊そのものの装備の再検討を緊急に行う必要があると考えた。

 ところがある日、思いもよらないことには、司令官殿が信号塔の一つにあらわれた。悪いニュースを予期したが、なんとこう言われた。

「ヒロシマがある種の原子による爆弾で壊滅したそうだ。ジャップは近々のうちに降伏するだろう。我々は出かけなくてすむよ」


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