第九十話 政争
――――――政治とは夜に動く物である。
己の利益を最大限追い求める者達が競争相手となる他者を蹴り落とし、繁栄を掴み取ろうとする活動を政治と呼ぶ。勿論全ての人間を蹴り落として己一人が全てを手に入れる事は土台無理な話なので協力者を作り、お互いの利益のすり合わせを行うと事こそ、より効率の良い手段と言えるだろう。政治とは強欲にケーキを奪い合いつつ、皿のケーキの取り分を妥協するという矛盾に満ちていた。
人一人では何事にも限界がある。人間社会に限らず、群れを成す動物はその事を理解し、集団を形成する事で効率よく生活水準を満たしているのだ。
ドナウ王国王都フィルモアの表通りの貴族の邸宅が並ぶ一角に、多くの者が出入りする大きな屋敷があった。
何も珍しい事は無い。昨日、ドナウ王国第一王子とレゴス王国第三王女の婚儀が行われたばかりなのだ。外国からやって来た祝いの客の多くは今朝方に出立したが、国内貴族となれば特別急いで帰郷する必要は無い。久しぶりの王都を満喫したいと思う者や、何かしらの流行品を手に入れたいと、しばらく滞在する者も多い。
だが、夜遅くに人目を避けるようにこそこそと周囲を警戒しつつ、外套をすっぽりと被って顔を隠した集団が何人も屋敷へと入っていくは、如何にも怪しいと誰もが口を揃えて指を差しただろう。
そんな不審者の集団が、およそ二十人程度集まった屋敷の食堂らしき部屋は、外の夜の闇とは正反対に、海獣の油でこれでもかというほど照らされた室内は、昼間と同等の光源と壁や調度品が金銀で装飾され、その照り返しで目が眩みそうだった。
そして屋内のテーブルの一番奥側に、とある男がふんぞり返っている。三十程度の男は集まった人間の中で誰よりも華美な衣装を身に纏い、そして誰よりも肥え太っている。昼間のような明るさに彩られた場所では、その顔色の悪さが良く目立った。恐らく相当な不摂生な生活を送っており、内臓を幾らか痛めているのだろう。
その男が集まった客人に大仰に挨拶をし出す。
「皆さま、夜分にお集まりいただき、感謝致します。無事にエーリッヒ殿下の婚儀も終わり、ほっと一息ついた事でしょう。大国ホランドを打ち負かし、次期国王陛下もご成婚なされた。ドナウにとって嬉しき事が続き、このマンフレート=ザルツブルグ、始祖フィルモの祝福を一身に受けている気分です」
そのような切り出しから始まった挨拶は、言葉を重ねるごとに熱を帯びつつ王家への称賛と功績をひたすらに並べ続けていた。それはマンフレート自身に流れる血を誇る為の儀式なのだろう。―――――王家は素晴らしい、だからその血が流れる自分も同じぐらいに素晴らしい。虚構に満ちた理論だったが、誰もそんな事は気にしていない。何時もの事だと思い、大半の客人はその無価値な言葉を聞き流していた。彼等にとって重要なのは、この男を持ち上げ続ける事で得られる自己の利益だけだ。こんな豚でも、ドナウ最大の塩の生産地を預かる大領主なのだ。適当にゴマを擦っておけばお零れに与れる。彼等の繋がりなどその程度でしかない。
五分はひたすらに自画自賛の演説に費やしたマンフレートは満足し、自慢が終わったのを見計らって、ほぼ全ての客人が拍手喝采を送ると、その事を真に受けたマンフレートは満足げに笑みを浮かべる。この男は客の誰もが自分を心から敬愛し、崇拝していると思い込んでいる。知らない事は幸せだと言う言葉は真理なのだ。
客の中で唯一拍手も何もしなかった男が、その様子を見て顔には出さなかったものの、内心は呆れかえり鼻白む思いだった。
(相も変わらず愚物よな。二十年も前に勉学を教えていた頃と何も変わらぬ。血統と矜持だけは一丁前の癖に、何一つとして学ぶ気を見せない怠惰な姿勢。他者への無関心さ、己こそ絶対的な強者であるという驕慢。まったくよくもこんな塵が王家の縁戚に生まれたものだ。これではまだ幼いカール殿下の方が余程有能に見えるわ)
大勢の客の一人として招かれたルドルフ=デーニッツは、マンフレートを完全に見下した感想を抱いていた。彼はかなり昔にマンフレートの教師をしていたが、彼のあまりの傲慢さに何度となく教えるのを辞めようと考えた事が有る。
才能が無い、物覚えが悪い程度なら、ルドルフもそこまで突き放したりはしない。
彼は努力する人間には比較的親切にする事が多い。自身が知に対してひたすらに貪欲であり、学ぼうという姿勢を示す者には一定の理解と共感を覚える性格だからだ。彼がまだ若い頃、教育を受け持った貴族の子女の中にも出来の悪い子は何人も居たが、必死になって学ぼうとする子には、喜んで理解出来るまで辛抱強く付き合っていた。
だからなのか、かつて教え子だった者には領主や官僚になっても、変わらずルドルフを先生と呼んで慕ってくれる者がかなり多かった。
だが、マンフレートにはそれが一切ない。むしろ王家の血を引く自分に対して口煩い大人だと内心不快に思っていた。互いに嫌う相手であれ、必要ならば握手を交わすという処世術を学んだ事は評価してやらなくも無いが、聞くに堪えない演説を聞く限り根本的には変わりようが無いらしい。
そういう意味では現在12歳のカール王子は同じ王家の血を引きながら非常に素直であり勉学にも意欲的だ。以前は好きな芸術以外はあまり熱心では無かったが、最近は自分から政治や剣術を学びだし、新しい建築技術に興味を持ったようで、よくレオーネや建務省の官僚に教えを乞うのをよく目にする。
理由を尋ねると、兄やレオーネに追いつきたいという対抗心だという。年上の二人は、よく政治や経済、外交について盛んに議論しているらしく、その隣で一緒に居ても話に着いて行けないのが悔しかったらしい。歳が離れているのだから仕方の無い部分はあるだろうが、それでも少しでもいいから早く二人に近づきたいのだという。
レオーネは兎も角、兄のエーリッヒ王子には、あまり強い対抗意識を持たれると王位継承権を争う姿勢と見られるために宜しくないのだが、本人達は至って兄弟仲が良いので外野がとやかく言う訳にはいかないし、折角の勉強への意欲を削ぐ様な真似もしたくない。怠惰で傲慢なマンフレートとは大違いだ。
そのような塵であっても、ザルツブルグ家の当主には違いは無い。一国の塩を管理する経済力はかなりの物であり、王家の血を引くという求心力も無視して良いものではない。本人が如何に愚かであっても、家を傾けるほどの下手を打ちさえしなければ、利用価値は非常に大きい。
(あるいはハインリヒなら傾けてしまっても構わないと思ってるしな。公然と国が介入する口実が生まれるのは財政面から見ても相当利になる)
ここには居ない同朋の腹の内を見透かしているが、ルドルフにとって不利益な思惑ではないので、特に気にしていなかった。
問題はこのふんぞり返っている豚をどう乗せるかだ。そして如何に言質を取らせないよう、言葉を選ぶかが重要と言える。
「とても心地良い言葉でしたなザルツブルグ殿。この老人、年甲斐も無く感じ入ってしまいました」
「―――ほう、デーニッツ殿にそう言って頂けたのなら、勉強した甲斐がありました。尤も、私のような貴い血を持つ者は大した事をせずとも習得出来ましたがな。貴殿のように寝食を惜しみ、書物を読み耽る様な無駄は致しませぬ」
ははは、と自分の父親と同じぐらいの歳のルドルフを馬鹿にしたような笑いを上げる。それを聞いて、激怒しそうになったルドルフだったが、ここで怒りを出しては何もかもが台無しだと思い、寸での所で怒りを引っ込めて、流石は王家の血筋ですなあ、と心にもない賛辞を贈る。
「私のような凡人にはそのような勉学の方法が似合いなのですよ。さて、慶事続きで喜ばしいドナウですが、何やら毛色の良くない鼠が王家に入り込んでいるように見受けられますが、皆さまはどうお思いか」
今まではマンフレートの聞くに堪えない演説に白けきっていたが、その言葉を聞き、途端に周囲の雰囲気が切り替わる。客の多くは苦虫を噛み潰したような苦悶を浮かべて唇を噛む。
さらに屋敷の主はそれに留まらず、憎悪と恐怖が混濁したような顔になっていた。かつてアラタに恐れを抱いた記憶が段々と蘇って来たのだろう。そして、貴種たる己を辱めた唯の下賤な平民が心底憎いのだ。だからこそルドルフは、この塵を利用する気でいた。
「ふん!あの平民が一体どうしたというのかね!?デーニッツ殿はあのレオーネと仲良くしていると専らの噂ですが」
誰もアラタの事を言っていないのだが、勝手に周りは鼠と聞いてアラタの事を思い浮かべていた。単に王家に入り込んだと言うだけならば、昨日結婚したオレーシャにも当てはまるのだが、彼等の中ではアラタ=鼠というのは決定事項らしい。
その認識が明け透けて見えていたのでルドルフは、自分の策が十分に通じると確信を持ち、ほくそ笑む。
「誤解があるようですが、私はあの男を不快に感じていますよ。二年前はホランドの外圧がどうしようもないほどに強かったので、緊急処置として、あの平民を利用したに過ぎません。しかし、今はその外圧も随分と衰えを見せている。となればあの平民は既に不要な人材なのですよ。それがどうしてかマリア殿下と婚姻してしまい、今は随分と好き勝手に振る舞っています。私達長官や官僚の中にもそれを許していない者は大勢居ます。誰しも生まれの定かでない者に首を垂れるのは不愉快なのですよ、もちろん私もその一人です」
ルドルフの言葉は嘘ではない。大なり小なりアラタへの反発心は貴族なら持ち合わせているからだ。それ以上にアラタの存在がドナウにとって有益なので妥協しているだけであり、成り上がりかつ新参者への妬みの感情というのは誰しも少しぐらいは抱くものだ。強いて言えば軍部や近衛騎士は純粋に力を信奉する者が多いのでアラタへの風当たりはかなり弱いのだが、それとは別に、強さへの悔しさは感じている者は大勢いる。
自分の末の息子のように、純粋に学徒として尊敬の念を抱く者も少数は居るが、ルドルフから見れば青臭い事この上ない。かつては自分にもそういう時代があったのは認めるが、一門の長となれば綺麗なままではいられないのだ。
「貴方方も私と同じように、あの男の事を快く思っていないのでしょう?特にザルツブルグ殿は相当腹立たしいと感じているのが顔に出ておりますよ?」
「当然だろう!王家に下賤な血が混じるのだぞ!!これが愉快な出来事である訳が無かろう!聞けば、既にマリア殿下が懐妊されたという。あのような下等な平民に穢されたなど、始祖フィルモへの冒涜だ!!」
マンフレートは、アラタが力ずくでマリアを組み伏せて事に及んでいると勝手に思い込み、憎悪を滾らせている。それは貴様の事だろうがと、多くの客は内心ツッコミを入れていたが、そんな事は怒り狂っているマンフレートには知る由も無い。マンフレートが家の力と武力を背景に領内で好き放題やっているのをここに居る全員が知っていた。この男はでっぷりと肥え太った外見に似て、性欲も旺盛であり、領地の平民や家臣の娘などを手当たり次第に抱いては捨てている。中には子供を身籠った女性もいるのだが、この男は正妻以外の子には興味が無く、知らぬ存ぜぬを突き通していた。
側室のアンナにも等しく愛情を注いで、三人で仲良く暮らしているレオーネ家とは大違いだ。マリア王女が父である王に報告に来た時も、二人は仲睦まじい様子で誰がどう見ても幸せそうにしていたのだ。政治的には別として、それにケチを付ける者など普通は居ない。
どこまでも人として屑だとルドルフは感じていたが、どうせ他人の家の事だからと大して興味を持たなかった。重要なのはどうやってこの屑を良いように誘導するかだ。
「そうでしょう、そうでしょう。それは始祖への冒涜でしょう。となれば何かしらの災厄がドナウへと降りかかっても仕方がございませんな。例えば、ザルツブルグ殿の領地に疫病が流行ってしまい、塩の供給が滞ってしまっているとか」
アラタへの怒りを撒き散らしていたマンフレートは、ルドルフの言葉に一瞬だけ呆気にとられたが、およそ何を言わんとしているのかを理解する。
「ほほう、それは有り得そうな事ですな。始祖が下賤な血を入れるのを望まなかったが故に我が領地は祝福を受けられずに疫病が流行ってしまった。あり得る話ですな」
マンフレートはほくそ笑んで、内心口煩いと思っていた年寄りの評価を少しだけ改める。ルドルフ自身は今の発言は相当危ういと思いつつも、この塵にはこれぐらいあからさまに言わないと、理解も察しも出来ないと判断し冒険をしている。
周りはそんな事あるかよと、二人のやり取りを呆れた目で見ていたが、わざわざ間に入って要らぬ苦労を背負いたくないと、貝のようにひたすらに口を噤んでいた。中には察しの良い者が拙いと感じていたが、今さら抜け出せないのと、ザルツブルグ家に寄生する身で相応に恩恵を受けている以上は義理だけは通さねばと、悲観的な想いと義務感で着いて行くつもりでいた。
ドナウ中に塩を供給しているザルツブルグ家が塩を絞るという事は、ドナウ中が塩に餓える事を意味する。それは公然と王家に向かって喧嘩を売っていると思われても仕方が無い。一体どういう理由で学務長官であるルドルフ=デーニッツはマンフレートを焚き付けるというのか。
「その疫病の元凶であるあの平民が居なくなれば、疫病も治まるという事でよろしいかねデーニッツ殿?」
「さてそれはザルツブルグ殿のお考え一つかと、私のような老人は考えております故」
ここに来て客の全員がアラタ=レオーネを排除する方向に自体が動いていると確信したが、既にマンフレートはやる気満々だ。こうなっては誰も止められないと、腹を括るしか無かった。彼等もアラタへの敵愾心は相応に持っているので、公然と反対する気はない。気がかりなのは、この要求がアラタへの嫌がらせではなく、国を預かる王へ喧嘩を売る行為だと捉えかねないという非常に厄介な行動だという事だ。
そうなっては身の破滅だが、今からザルツブルグ家と手を切った所で、自身の家と領地が立ち行かなくなる事から、最初からマンフレートとは一蓮托生なのだ。
ただ、気になるのが何故今ルドルフがこちらに接触してきたかだ。この老人とマンフレートには大した縁など無い。幼少期に教師をしていたというだけで、特別親しくしている訳では無い。にも拘わらず、ルドルフがわざわざ会いに来たというのが不安でしか無かったが、従属するだけの彼等には選択など最初から存在しない。
(ふん、良い気なものだ。まあ、精々楽しく踊り続けるがいい。踊り切って疲れ果てた頃には貴様は終わりだ。恨むなら自身の怠惰と傲慢を恨むがいい)
ルドルフは馬鹿のように高笑いをするマンフレートに興味を無くし、内心で次の行動を見据えている。このままこの塵と沈む気など一切ない。可能な限り早くこいつらと手を切って、知らぬ存ぜぬを突き通すのみ。単にここに居るのは昔の師弟関係から酒飲み話をしたかったと言い張るだけだ。自分は何も指示など出していない、言質も取らせない。こいつらが勝手に馬鹿をしたのだと、偽り無く言い切れる。
祝杯を挙げようとするマンフレートに、年寄りは疲れたのでさっさと寝ると言い、屋敷を辞したルドルフは一仕事し終えた満足感に浸りながら自身の屋敷へと戻るのだった。
その途中ルドルフは、あんな血統だけの屑に比べたら平民のアラタの方が百倍マシだと思い、可笑しさで笑いたくなってきた。彼は謙虚で努力を怠らないアラタの事はそう嫌いではない。
(だが、新参者にこれ以上力を与えたくないというのも事実だ。だから少しだけ足を引っ張らせてもらうぞレオーネ)
仮にその言葉をアラタが聞いたのならば、きっとこう返したに違いない。
「味方同士で争える程度に余裕があって羨ましいよ。俺の故郷の人間は生きるか死ぬかでそれすら出来ないのだからな」
日本人には岩塩はあまり馴染みがありませんが、世界的には地層や塩湖からそのまま切り出した岩塩の方が主流です。寧ろ昔の日本のような塩田方式による精製は物凄く労力と手間の掛かる手法でした。塩水には事欠かないのに大陸内部の人間以上に塩に餓えるとはおかしなものです。
それではお読みいただきありがとうございました。




