第九十七話 酒宴の戯言
ホランドの本陣は王族の者とは思えない程質素な物だった。広くはあるが簡単な天幕を張っただけで、調度品など一切無く、風や雨避けぐらいしか考えていない、実用性一点張りの陣だ。唯一凝った物といえば敷物に使っていた羊毛の赤い絨毯ぐらいで、一目で手間の掛かった上品な逸品と見受けられた。
ユリウスは丁度昼食を摂っていたようだが、伝令がアラタを連れて来た事を知ると、そのままアラタを対面に座らせた。料理を挟んで、一商人と王子が向かいに座る。アラタはそのまま頭を下げ、声が掛かるのを待つ。本来、目上の者が声を掛けるまでは、目下の者は発言と相手を直視する事は許されない。
「よく来たな、一度会っているがもう一度言っておく。私がこの軍を束ねるユリウスだ。顔を上げて名を名乗れ」
「――――ドナウの商人、オウルです。ユリウス殿下にお会いでき、恐悦至極に存じます」
まずは貴人への定型文で挨拶をする。ドナウでは随分ご無沙汰だったが、忘れたわけではない。ちなみにこの宿営地に来てからはアラタはホランド語を使用している。他にも全員ではないが医師団には何人かホランド語を話せる者もいる。
ユリウスは杯を傾け、一口つけながらアラタの目の前に置かれた杯を指さし、飲めと催促する。中身は緑色の透明な液体だ。これはアラタ達が持ち込んだアブサンだろう。強烈な酒だがユリウスは美味そうに飲んでいる。なかなかに酒に強い身体らしい。アラタもぐびりとアブサンを飲む。
「ふむ、やはりお前はドナウ人では無いな。顔立ちがドナウとも我々ホランド人とも違う。何処の生まれだ?」
ユリウスが不審な目でアラタを見る。今は髭で半分顔を隠しているが、少し注意してみればドナウ人より顔の彫りが浅いのが分かるだろう。
「ユゴス、レゴス以東の都市国家の生まれです。ドナウには二年程前に移住してきました」
「ほう、では何故ドナウに居る?故郷でもないなら、特別思い入れでもあるのか?」
ユリウスは、もっともな疑問を投げかける。故郷を離れて何故、ドナウを選んだのか?他の国でも良かったのではないのか。そう目が訴えていた。
「妻がドナウ人だったもので。後は仕事を任されたのが妻の父、つまりは義父でしたので、その縁でドナウに留まっています」
「そうか、妻の実家か。それならば仕方が無いな。だが、お前は商人では無い。軍人だろう、違うか?」
勝ち誇った顔でアラタを見る。確かにアラタの立ち振る舞いは、軍人あるいは貴族のような教育を受けた者特有の仕草がある。姿勢などはその最たる例で、背を真っすぐにして一定の歩幅を維持して歩く。そして医者と言うのは高い知識を要求される事が多く、唯の平民では決して出来ない職業だ。
「ご慧眼恐れ入ります。確かに私は元軍人です。故郷では二年ほど軍に在籍していましたが、既に退役しております。幸い教育を受けていましたので別の仕事でも食うには困りません」
その言葉に偽りはない。かつては軍人であり、それまでにも高い教育を受け、そのおかげて今もドナウで重用されている。
「お前が我が兵を殺しているのは耳にしている。大した腕前だとな、それだけの腕があれば、まだまだ軍でやっていけるだろうに。どうだ、私の下で働かんか?お前の医者としての腕と、兵士としての力量を買おう。これは名誉な事だぞ」
酒が入って来たのか、顔を紅くしながら楽しそうにアラタを勧誘し出す。単なる戯言なのだろうが、あわよくば手に入れば儲けものと思っているのかも知れない。確かに普通の人間ならば王族に直々に声を掛けられ、勧誘を受けるなど一生に一度も無いのだ。
現に周りの護衛らしき近習はザワザワと騒ぎ出す。すぐ近くに控えている若い男――オレクなど、唇を噛んで悔しそうにしていた。
「―――殿下がその酒を気に入ってくださるのは私も名誉な事でございますが、酒の席でのお戯れは程々にお願い致します。私のような出自不肖の男が殿下のお傍にいるなど恐れ多い」
「ふん、私は本気だ。現にお前達が兵を殺した時、周りは皆殺しにしろと訴えてきたが、私の一存で止めさせた。確かに子供に剣を向けたのはこちらに非が有るが、その後は明らかにやり過ぎだ。お前が殺した二人はまだしも、あのサピン女が殺した二十人はどう考えても行き過ぎている。幾らドナウと和平を結んでいても、単なる一商人の集団を殺さない道理は我が国には無いのだぞ。酒の美味さ一つで見逃すわけにはいかん」
まあ、お前が唯の商人ならの話だがな。そう言ってアラタの立場をからかう。ユリウスは明らかにアラタをドナウの近衛騎士か、軍の上級士官だと見当を付けていた。それを知った上で反応を試しているのだろう。そして、故郷を捨てたアラタに揺さぶりをかけているのだ、『一度祖国を捨てたのだから、二度目も簡単だろう』と。
「なればこそ私は殿下のお誘いを断らねばならないのです。命惜しさに人の縁を切り捨てるような男を傍に置いてはなりません。私の義父も私を信じて仕事を任せてくれました。私の身重の妻も、私の帰りをドナウで待っていてくれます。今の私は随分と背負う物が増えてしまい、軽々しく旗を代えられません」
故に殿下のお誘いはお断りいたします。そこまで口にすると、傍に居たオレクは憤怒の表情を作り、剣の柄に手を当てていた。愛する主の、折角の心を無駄にした無礼者をこの場で切り捨てるつもりだった。
だが、そこに待ったをかける者がいた。
「オレク、剣から手を離せ。――――オウルだったな、小賢しい物言いだがお前の言う通りだ。都合が悪いからと言って、主人を軽々しく変える者など信用ならん。残念な事にホランドにはそういう変節漢も多いのでな。まったく、ドナウにも忠義者がいるものだ。尤も、だからこそドナウは強いのかも知れんな。どうだオウル、お前から見てドナウは強いか?」
「―――少なくともユリウス殿下を梃子摺らせる程度の力はあります。サピンのようにホランドを侮り、油断をするとは思えません。私が言えるのはそこまででございます」
油断、油断か。くつくつと何が楽しいのかユリウスは何度も油断と口にして、心底楽しそうにアラタを見据えていた。そうだ、サピンはホランドを侮り、油断したことで滅亡の道を突き進んでいる。国などと大きな事を言っても、詰まる所油断一つであっさり滅びるものだ。ホランドもそうならない保証はどこにもない。何故か分からないがそれがとても楽しく思えて、笑いが止まらなかった。
(―――精神が不安定になっているな。少しアブサンが効き過ぎたか?)
向精神性と高い中毒性を有するアブサンを大量に摂取すれば間違いなく神経に悪影響をもたらす。過去、地球ではその中毒性を危険視されて禁止された酒だったが、この西方でもその効力を如何無く発揮しているのはこちらの望む所だ。
ただし、軍の司令官が碌に動けないのはドナウにとって利になるが、現状バルトロメイ王子のライバルが消えるのはかなり拙い。可能な限り争いを激化させて二つを共食いさせなければ片手落ち。アブサンの過剰摂取で中毒死などやり過ぎの範疇だ。どうにか量をコントロールしておきたいが、アラタにはそんな権利は無い。
「まあいい、今の私はとても気分が良いからお前の非礼は無かった事にしてやる。私が提示した贖罪も既に果たしたようだしな。―――それで、お前達はこのままサピンが滅亡するまで付き合うのか?」
「いえ、そろそろ薬が底を尽きそうですから、あと十日ほどで引き払うつもりです。もし、薬と酒が入用でしたらドナウに戻ってから追加で届けさせますが?」
「そうだな、この酒は美味い。気に入ったから、あるだけ持ってこい。あと薬も一緒にな。帰る時になったらもう一度顔を出せ、酒の代金と治療の費用を払う。それから、土産をいくつか持たせてやる」
それだけ言うとユリウスは、酔いが回ったと言ってアラタを下がらせた。総大将が昼間から酒を飲んで眠りこけるのは士気に関わるだろうが、長丁場の攻城戦なら多少は見逃されるのだろう。ここで何か言って勘気を被りたくないので何も言わずに陣を退出した。
そういえば酒だけ飲んで食事に殆ど手を付けていなかったと、ちょっともったいない気分になったアラタは相当図太い神経をしている。
何事もなく帰って来たアラタにエリィが駆け寄って抱きつく。心配したのだと、涙声で言われたらアラタも悪い事をしてしまったと、頭を撫でながら詫びを入れる。周りの男から、ずっと不安そうにしていて仕事にならなかったと、苦笑いをしながら説明を受け、父親の帰りを待つ娘というのはこういうものなのかと、まだ見ぬマリアとの子に思いを馳せるのだった。
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アラタが退席した天幕ではオレクがいつまでも不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。本来は美丈夫と呼べる端正な顔立ちなのだが、今の彼の相貌はひたすらに禍々しかった。
このような醜悪な顔を愛する主に見せたくは無かったが、どうしても身の内に溜まりに溜まった激情を飲み下す事が出来ずに居座らせていた。
(あの男め!折角のユリウス様のご恩情を無下にしおって。殿下が御止めにならなければ、この手で斬り殺していたのに)
アラタが座っていた座を睨み付ける。そこは既に空の席だったが、そんな事はどうでも良かった。あの無礼者の残り香すら不愉快でしかない。
だが、当の主より無礼者への誅罰は禁じられているのだが、それがまたオレクを苛立たせていた。これ程主に目を掛けられているというのが許せない。それは紛れも無い嫉妬だったが、自身があのような痴れ者にそのような感情を抱く事自体が耐え難く、許せなかった。
そんなオレクの凶相を見かねたユリウスがオレクを後ろから抱き留めて、首に腕を絡めて頬と頬をすり合わせる。彼は酔っていたが、寝てはいない。酒の入ったユリウスの、いつも以上に熱い肌の温もりを感じ、腹の中に渦巻いていた憎悪が霧散する。それはまるで猫の番のじゃれあいだった。
「落ち着けオレク、あの男はあのままドナウに帰らせてやれ。正確に情報を持って帰ってくれた方が私の為になる。そう何度も言ったはずだぞ」
「―――は、申し訳ありません。ですが、ユリウス様の事となると感情を上手く制御できません。あのドナウ人どもが軍の中で好き勝手出来るのも、貴方の御心あっての事だというのに、それに泥を塗るなど――――」
許せるはずがありません、オレクはそう口にしたかった。ユリウスは半身の忠義ぶりを愛おしく思ったが、王の責務はそれを否と断じた。
「前にも言ったが、仮にあの一団を皆殺しにした場合、いったい何人の死者が我が軍に出ると思う?百では利かん死人が出るぞ。私はそれを望まん。殺された兵には申し訳ないと思うが、二十の兵の魂を慰撫する為に数百の命を犠牲に捧げるなど釣り合わん。腹立たしいが、今はサピン王都の攻略こそ肝要。奴等には医者らしく我が兵の命を救わせるのが最も利になる。違うか?」
確かにユリウスの言う通り、あの一団を皆殺しにするには多大な犠牲を払わねば達成出来そうもない。あのオウルだけなら十人の精鋭をけしかければ首を獲れるがサピン女は別だ。アレを殺すには数百で足りるかどうか―――ホランド十万の兵の中でも、アレに勝る戦士は居ないと言い切れる。それほどに人とはかけ離れた異質な存在だった。
ユリウスは傲慢と称されるほどに自信家で、他者を軽んじる男だが、怒りに身を任せる事無く、合理を選択出来る人間でもある。それは王にとって必須と言える資質であり、オレクの有しないものだ。
だからこそオレクはユリウスの判断に逆らう事は無い。どれだけ不愉快な相手でも、主が殺すなと言えば剣を抜く事は無い。逆に親兄弟であってもユリウスが殺せと命じれば、一切の躊躇いなど持たずに首を刎ねる覚悟があった。
「はい、ユリウス様の仰る通りです。申し訳ありませんでした」
そう、自分はユリウスの忠実な臣下。主の命に逆らってはいけないのだ。だが、だからと言ってオウルへの憎しみが消えたわけではない。いずれこの落とし前は必ずつけると、心の奥底で決意を固めつつ、今は主の温もりを感じていたかった。
アル中の出来上がりです。酒が美味いからと言って呑み過ぎは良くありませんね。ちなみに私はウイスキーとウォッカが大好きなので人の事は言えません。酒が入ると筆がスイスイ進むのでついつい呑み過ぎてしまいます。
それではお読みいただきありがとうございました。




