◆Ⅷ◆
夢中でユリウスにしがみつく。体験したことのない感覚に怖さはあるが、彼の腕の中は不思議と安心できるものだった。
ルーチェは自分の髪がストン、と落ち着いたのを感じ、ゆっくりと瞼を開ける。
途端にクラッ、と眩暈がルーチェを襲った。崩れ落ちないように彼が腕の力を強めてくれたのが幸いし、ルーチェはなんとかその場に踏みとどまることが出来た。
「立てるか」
「…ええ」
足に力を込め、ようやく彼の腕から身を離す。
チラリ、と見えた景色には色とりどりの花々が咲いていた。見覚えがある景色―――【ガラナの森】の花季の森だと気付くのに時間はいらなかった。
「この地で忘れ物をした。だから、お前をここに連れてきた」
淡々と語っているがつまりは魔術を使って転移した、ということだろうか。
魔術のことはよくわからないが、先程の眩暈は確実に転移が関係していたのでは、と疑問に思う。
若干恨めしく思いながらも間近で見た彼はやはり、美しかった。
夕日の色を映したかのような緋色の瞳、頬の線は少し細くなったのだろうか、微かな疲労が見える顔だった。
思わずルーチェは彼の頬に手を伸ばした。そっと触れたその手を、彼は振りほどかず、彼女の好きなようにさせていた。
「…ユーリ」
「なんだ」
「ホントに、ユーリ?」
「俺以外の何者に見える」
ひねくれたような答えの後、彼は仕返しと言わんばかりに「ルーチェ」と呼びかけた。
「はい」
「ルーチェ、だな」
「はい」
名を呼ばれることがこんなに嬉しいことだとは思わなかった。
まるで互いに無事を確かめ合うように名を呼べるこの“今”が夢のようだ。
「今、帰った」
「はい―――、おかえりなさい」
それが限界だった。目尻から一筋の涙がこぼれ、次から次へと雫がルーチェの頬を伝っていく。
それを拭うように今度はユリウスがルーチェへと手を伸ばす。
温かい体温を手の平から感じられ、あぁ、彼は生きている、と歓喜が胸を満たした。
「無事で、よかった…」
「それは俺のセリフだ」
少し拗ねたような声音に、ルーチェはぼやける視界の中、彼を見つめた。
「魔王を倒して扉も閉めて…やっとお前に会えると思ったら家はもぬけの殻。一瞬、心臓が冷えた」
「ごめんなさい、ここにいちゃダメだって言われてたから…」
「わかっている。俺がこの森の守護を全てもらったからだな。それはわかっている」
念を押すように繰り返し「わかっている」という言葉に僅かに違和感を覚えたルーチェは不安げに見上げた。咄嗟に自身の頬に触れているユリウスの手を自分の手で触れると、なんだか少し冷たいように感じた。
「白虎の守護はもとの場所に戻った。ここは以前より豊かになるだろう」
「うん」
「危険なものはもう何もない」
「うん、あなたたちが魔王を倒してくれたから…」
あぁ、そうだ。私はそのことでお礼をずっと言いたかったのだ、とふと思い出す。
「ありがとう、ユーリ。お蔭で、私も母も救われたわ。大変な思いをさせてしまってごめんなさい。それでも、世界に光を取り戻してくれて、本当にありがとう」
心からの謝辞をユリウスに向けると、彼は少し動揺したようだ。緋色の瞳が僅かに揺らいだのを認めた瞬間、フイッと顔を逸らされた。
「それはクゥに言え。結果的にあいつらに辿り着けたのもクゥのお蔭だ」
「そうだ、クゥ。クゥはどこ?」
「どこって、そこに…」
そこまで言って、ユリウスはハッと口を閉じた。
その様子にルーチェは嫌な予感に襲われ、違う涙がこみ上げてきそうになった時だ。
―――グルルルル…。
獣の声が聞こえた。気遣うような、優しい声だった。
「―――クゥ?」
辺りを見渡しても、その姿は見えない。困惑するルーチェを前に、ユリウスは額に手を当てた。
「クゥは神上がりをした」
「神上がり?」
「魔王との決戦の時に俺に宿った白虎の力がクゥにも宿ってな。ただの動物から“神獣”になったんだ」
「…クゥはオオカミだったはずだけど」
「神上がりはその器から抜け出さなければならない。だからといってオオカミからトラになるなんて聞いたことはなかったが、実際にあったんだから認めないわけにはいかない。クゥはクゥだからな」
なんだか唐突なことに頭がついていかない。
しかし、クゥはクゥだと言う言葉はルーチェの心にストンと収まった。
「そうだね…。でも、そっか。神獣になっちゃったから、私が見えないだけなんだ」
ルーチェにはそれだけが気がかりだった。
ユリウスが無事なら、今の声を聞いた限りでもクゥは無事だということはわかる。それでも、無事でよかったとあの金の瞳を見てこの手で抱きしめたかった。
「ねぇ、クゥは今どこにいる?」
「お前の足元」
「しゃがんでも、ぶつからない?」
「…大丈夫だ」
ゆっくりとしゃがんで、いつもクゥと視線が合う方へ手を伸ばす。
「見えているのか?」
「ううん、ここら辺かな、って思って。でも、ここにいるんだね」
ユリウスの驚愕の声に振り向かず、じっと見えないクゥを見つめる。
トラになったから、本当はこの辺りは頬ではないのだろうけれど―――。
「クゥも、おかえりなさい。無事で、よかった」
―――ガルル…。
風が、ルーチェの手を撫で、確かに声が聞こえた。
あぁ、きっと今、クゥに触れられたのだ、と直感した。
もう触れることはできない大切な友達。神上がりは以前の記憶をなくすと言われているけれど、クゥは覚えてくれていたようだ。
それほどの絆が、彼と築けたのだと思えば、感慨深かった。
ゆっくりと手を離し、ユリウスに向き合う。
「ありがとう、クゥにも会わせてくれて。これで、心残りはないわ」
涙の滲む瞳を微笑みの形にして、ユリウスに伝えると、彼は怪訝そうな表情をした。
「それは困る」
「え?」
「まだ俺の要件は済んでいない」
「あっ、忘れ物って…」
最初にユリウスが言っていたことを思い出し、ルーチェは今度は首を傾げる。
―――忘れ物…とは?
「ルーチェ、お前は言ったな。『ここにあるものを譲り渡すことが自分の役目』だと」
「うん」
確かに言った。家の中にあった魔術の知識の数々。母と一緒に埋めた宝箱。花季の森で拾ったクゥ。ルーチェの手元にあったものは全て、渡した。
いつか光ある未来を迎えられるように―――。
「ここにあるもの…“お前”をまだもらっていない」
「―――…ぇ」
咄嗟に声が出なかった。聞き間違いかと思った。
自分に都合のいい夢が見せたものでは、と。
「俺は、ルーチェ、お前がほしい」
「ま、待って、ユーリ。もう魔王は倒されて世界は平和に…」
「だから、お前に求婚している」
一気に頭に血が駆け巡った。
そして、聞き間違いではなかったことを悟る。
真剣な緋色の瞳は吸い込まれそうなほど澄んでいて、ルーチェに見たことのない熱を向けているのが感じられた。
―――求婚、と彼は言ったのか。
こんな綺麗な人が、私に―――…。
「な、なんで…」
「それは言った。お前が欲しいからだ」
「そ、そういうことじゃなくて…」
「?」
「…私はともかく、ユーリにとっては私たちが関わったのはとっても短い時間だったはずよ。それなのに、これから生涯を共にする相手をそんな衝動的に決めるのは―――…」
「御託はいらない。応えは」
「御託って…」
「俺は言った。お前は俺をどう思う」
その問いかけはズルイ。と思ったルーチェは悪くなかったはずだ。
だが、なんだか責められているようにも、急かされているようにも感じられ、思わず口を噤む。
「…私は母のように【予言の魔女】みたいに凄くない」
「知っている」
「クゥも見えない、魔術の書も読めなくて…本当に普通の“人”なの」
「何が言いたい」
「…私は、あなたの見ている世界を一緒に見られない。見たくても…見られない」
「…」
見られないことは、ユリウスの心に寄り添えないことが出てくるということだ。
一番の苦悩だってそこにはあるだろう。彼ほどの力を持つ者は特に。
ルーチェの瞳は見えざるものは見えない瞳。それは宿命であり、変えることができない事実だ。
だが、ルーチェの心は溢れる想いに突き動かされるように、止めておかなければならない言葉を言ってしまう。
「―――それでも、傍にいて…いいの?」
「―――…当たり前だ」
そっと、けれど少し強引に抱きしめられる。腕を引っ張られた反動で手に持っていた琥珀の書が手から離れたが、ルーチェはそのことに気付かなかった。
晴れ渡る空、彼の少し赤くなった耳が見える。
トクトク、と彼の鼓動の音なのか自分のモノなのか区別がつかないほどの距離にルーチェもドギマギとする。
「…王都ではユーリは偉い人だって聞いた」
「それがなんだ」
「偉い人には偉い人がいい、って聞いたことある」
「抽象的すぎてよくわからん」
ルーチェ自身もよくわかっていないところもあり、閉口してしまう。
そうすると余計に鼓動が聴こえてしまうから堪らなかった。
羞恥を感じていた―――その時だ。
「俺は、お前がいい―――」
耳元に落とされた言葉はルーチェに衝撃を与え、同時におおいなる歓喜を呼び込んだ。
「私も、あなたがいい」
ようやくギュッと抱きしめ返すことができたルーチェは嬉しそうに瞳を細めた。
―――母を失ってから長い時間を孤独に過ごしてきた。
母が残したのは御使いのために贈る品々。そして、それを遂行するための予言の数々。
たった一人で守ってきた予言。
“いつか来るその時まで”―――その言葉だけを胸にルーチェは生きてきた。
一日の終わりにまだ来ない、と悄然したこともあった。
彼は知ることはないだろう、初めて会えた時のあの喜びを。
やっと、予言に解放されるとわかっていながら、彼と離れることに耐えなければならなかった苦しみを。
―――けれどもこの瞬間、それら全ては優しい想いに包まれた。
互いに瞳を合わし、ゆっくりと唇が触れ合う。
―――あぁ、幸せだ、と涙が頬を伝うのを感じながら思う。
静かに想いを交わす二人を花々が祝福するように風と共にゆらゆらとそよいだ。
二人の傍から一匹の神獣が書をくわえ、少し距離を置いたところでゆっくりと腰を下ろした。
書は最後のページを開けて地面に広がった。
◆◆◆
『どうか、この子が生きていく未来では
優しい世界になっていますように。
この子の瞳に映る景色が
幸福な色にそまりますように―――。』