◆Ⅵ◆
『この書に記された内容は覚えた?』
母は優しく娘に語りかけた。幼いルーチェは迷わず頷いた。
母は満足そうに微笑んだ。しかし、すぐに悲しげな表情になってしまって、その様子にルーチェは首を傾げた。
『ねぇ、ルーチェ。この書は、この世界の未来の希望そのものよ』
知っている。それは何度も聞かされた言葉。
大好きな母の言葉を疑ったことなんてなかった。
『あなたは運命の人に逢うわ。でも、長い年月がかかるでしょう。その間は寂しい想いをするかもしれない。つらい、と何度も泣きたくなるかもしれない』
『大丈夫だよ。だって、母さんがいるもの!』
その時のルーチェは、母親がこの世から去ることなんて全く考えたことなどなかった。
【予言の魔女】と言われた母からしてみれば、この時より自身の寿命は知っていたのかもしれない。ルーチェの無邪気な言葉は何よりも母を傷つけたことだろう。
母は少し閉口したが、気を取り直したように言葉を紡いだ。
『この書は来るべき日のためにここに埋めておくね』
花季の森に、花畑に埋もれるようにひっそりとある切り株の根元を掘った後だった。
どこからか取り出した黄金の羽根を本の隣に収め、箱の蓋を閉めた。
母が土の中に丁寧に箱を置いたのをルーチェはしっかりと見ていた。
その様子が、まるで宝箱みたいで、そして母親とのふたりだけの秘密のようで、ルーチェは埋めてからもわくわくとした気持ちを抱いていた。
『この書が、ただの紙切れになるときは必ずやってくるわ。その時は、ルーチェ、あなたの役目も終わり。そこからは新しい道を進みなさい』
『新しい道?』
『そう。怖がらずに、前に進むのよ』
『…もしかして、私、迷子になっちゃうの?』
『いいえ。迷っても、ちゃんと見つけてくれる人がいる。そんな不安そうな顔しないで』
『なんだか、母さんの言ってることわかんなくなってきっちゃった』
『そうね。まだあなたには早すぎたかもしれないわね。でも、許してちょうだい。すべてを語れない私を。あなたに重すぎる役目を残してしまう不甲斐ないこの母を―――』
懺悔のような言葉だった。しかしその言葉は、ギュッ、と抱きしめられた温もりに緩やかに溶けていく。
青い空の下、ルーチェは温かい母の背中に手を伸ばし、『大丈夫だよ』と嬉しそうに微笑むのだった。
◆◆◆
ぼんやりとルーチェは目を覚ました。
ガタゴト、と地面を駆ける振動が身体を揺らしているが、地面に敷いた枯れ草が緩衝材になって思ったより痛くなかった。
ゆっくりと身を起こすと、少し暗い部屋が視界に映る。
左を向けば、御者台が見え、馬車を操っていた男が気付き、こちらに向き直る。
「ルーチェさん、おはようございますッス」
「おはようございます、クルトさん」
今にも雨が降りそうな怪しい空模様が彼の背中ごしで見えた。それでも、彼が笑うと周りが華やいで見えるから不思議だ。
「ごめんなさい、私、結構寝てましたよね」
「いやいや、イイんッスよ。女性に無理させたらオレがおやっさんにドやされるッス」
「ほぅ、クルト。オレ様をダシにするたぁいい度胸じゃねぇか」
クルトの隣に腕組みをして腰掛けているの男性がドスの利いた声をさりげなく割り込ませる。逞しい腕に、大きな身体、赤茶色の髪を無造作にターバンに詰めている壮年の男性は剣呑な眼差しをクルトに送る。一瞬だけクルトは固まり、そのままの笑顔で続けた。
「いやだなぁ、おやっさん。オレはこれでも紳士ヅラが許されてるんッスよ。おやっさんのこと抜きでもホントはルーチェさんは大事な人ッス。だから無理はさせませんよ」
「最初からそう言え青二才」
どこまで本気なのかわからないが、自身のことを気遣ってくれているその優しさに、ルーチェは控えめに笑った。
「まぁ、こいつの言うことも分からんでもないがな。お嬢ちゃん、ホントに無理してねぇか?先の村で夜通し看病で駆け回ってたんだ。男二人の馬車で警戒するなというのもなんだが、休めるうちに休んどかねぇと身体がもたねぇぞ」
「おやっさんはどうかわからないッスけど、少なくともオレは寝込み襲うなんてことないッス!」
「お前は一回【ゲルナの魔窟】に放り込まないとわかんねぇらしいな」
「それ死ねってことッスかね、おやっさん。超レベル高ぇッス」
「あの、私は大丈夫です。こうして王都に連れて行ってくださっているだけでもありがたいことなのに」
師弟の息をつかせる暇もない応酬に、かろうじてかけられたルーチェの言葉はまた師弟によってかき消される。
「なぁに、それこそ気にすんじゃねぇよ。あんたは貴重な薬草をオレ様たちに分けてくれてるんだからよ。ギブアンドテイクってやつさ」
「そうッスよ、ルーチェさん。まぁ、オレは薬草なくてもルーチェさんと一緒なら…」
「おっと、クウガの群れだな。おい、クルト行ってこい」
「マジ空気読まねぇヤツらばっかで困るッス。完全にノしてやる」
土を駆っていた馬たちを停め、クルトはヒラリと御者台から降り立ち、腰元に佩いていたトマホークに手をかけた。
「オレを怒らせた報いは全身全霊で受けてもらうッス。―――覚悟!!」
いつもの調子で彼は言って、次の瞬間にはその場から姿を消していた。
ここから距離を空けたところで微かに獣の叫び声が聞こえてきて、思わずルーチェは耳を塞いだ。
【クウガ】というのは猪のような姿で二足歩行で手には鉄棒を持っている魔物のことだ。
きっと、クルトはそれらを排除するために向かったのだろう。薄暗い森の中では武器の軌跡が辛うじて見えるだけで戦っている者たちの様子はよく見えない。
しばらく交戦の音が響き、ドサッと鈍い音がしたのを最後に辺りはもう一度静寂に包まれた。
「骨のない奴らッスね、ホント」
ため息を吐いて、言いながら返ってきた彼は返り血も浴びていないようで、僅かにターバンから青灰色の髪が飛び出ていたのを抜いて変わりないようだった。
その様子に、ルーチェは心底安堵する。
「なんか、好きな人に心配されるのってグッと来るッス」
「お前はしばらく走ってこい。そらっ!」
おやっさんが馬に鞭を打ち、いきなり出発した馬車の揺れにルーチェはこらえるために縁に掴まった。
「おやっさん、それは抜けがけって言うんッスよ!」と距離が離れたところからクルトの声が微かに耳朶を打った。
「あの、クルトさんが…!」
「あいつのことは気にしなくていい。たまにゃ、シゴいてやらんとな」
こんなやりとりも実は初めてではなく、何度も(それも頻繁に)あることなのだが、おやっさんは気にすることなく、むしろ馬のスピードを速めるのだからルーチェはいつもハラハラする。
それでも、結果的にはクルトは追いつけるのだから、ギルドで働く者の体力には驚かされるばかりである。
「だから言っただろ。あんたは気にせず休みな」
わりと必死の形相のクルトがやっとこさ御者台に乗り込んだのを見計らっておやっさんは朗らかに笑う。
恨めしそうにおやっさんを見たクルトは、しばし呼吸を整えた後、もう一度馬の手綱を持ち、運転を変わったのを見て、何か癒しの薬草はないものか、とルーチェは自身の鞄の中身を探す。
―――ルーチェが今こうして、ギルドの移動馬車に乗せてもらっているのにはワケがある。
ユリウスとクゥが新たに旅に出たのを見送った後、ルーチェは自分の家に戻り、久しぶりの一人っきりの夜を過ごした。
明朝に目を覚まし、薬を作り終え、身支度の準備をしていた。
【ガラナの森】を守っていた白虎の守護はユリウスに明け渡した。だから、この森も時機に魔王の下僕たちに支配されていくことは想像に難くなかった。
そうなる前に、ルーチェはこの森を出なくてはならないことを母から教えられた。他でもない、ユリウスに渡そうとしていたその書に書いてあったのだ。
ユリウスの言っていた『なんらかの加護』というのはほかならない白虎の力だ。それも少しずつ時が経つに連れて弱ってきているのを母は感じ取っており、だからこそ書の隣に鳳凰の羽を置いたのだ。
種は違えど、四神は昔から仲が良い。互いに力を補ってくれることを母は知っていた。
見つからないように、時が満ちるその時まで娘を守ってくれるように、願いをかけたのだ、と。
魔力を封じ込めた書は基本的には【徒人】であるルーチェには読めない。しかし、魔力を失った器となった書は予言が書かれていたであろうページはごっそりと白紙になっており、唯一ルーチェが読める文字だけが残っていた。
そこに母の推測と願いが書かれており、ルーチェは何の疑問もなく行動に移した。
最後の薬をクルトに渡した後、クルトはルーチェのいつもと違う様子に首を傾げ、理由を問うて来た。
素直に答えると、目に見えてクルトは慌て、『じゃあ、ルーチェさんも一緒に来るとイイッス』と提案され、あれよあれよと言う間にギルドの馬車に乗せてもらえることになったのだった。
初めて対面したおやっさんは“ビル”と名乗り、ルーチェを快く迎えてくれた。
どこもかしこも魔王の魔手が伸びてきていることを言い、それなら王都はまだ治安はマシだということで、特に目的地を定めていなかったルーチェはこれ幸いにと言葉に甘えることにした。
途中に寄った村や街で、魔物による汚れによって病が流行していたり、旅人がケガをして倒れていたりといろいろあったが、それらを癒すのにルーチェの薬草とその知識は随分と役に立っていた。
ルーチェは鞄の中から水色の小瓶を取り出し、御者台のクルトに寄っていく。
「クルトさん、この薬を…ポーションほど濃くはないのですが、体力回復ぐらいにはなるかと」
「マジで!?イイんッスか!?」
「はい、どうぞ」
「うわっ、ルーチェさんマジ天使!!」
「いえ、それほどのものじゃないのですけど…」
クルトもその恩恵に預かっている一人で、絶大な感謝をルーチェに向けているのだが、ルーチェは謙遜するばかりであまりクルトの好意は伝わっていない。不憫だな、とビルが思っているのは誰にもわからない。
「お嬢ちゃん、見てみな。もうすぐ王都だ」
ビルが顎で前方を指し示したのを見て、ルーチェは視線を移す。
空は暗く、曇天が広がっているのにも関わらず、王都を囲む白い外壁は不思議と明るく見えた。
王都は【玄武】の力を司っていると言われている。
だから、王都も山に沿うようになだらかな坂になっていて、頂上に白い王宮が建てられている。
空から見ると、王都が甲羅で王宮が亀の頭に見えるように作られていると言われている。
「あれが、王都…」
ルーチェは期待と不安を滲ませて前を見つめる。
そして同時に、ユリウスが最後に放った言葉を思い返した。
―――待っていろ。必ず迎えに来る。
ごめんなさい、と何度も心の中で謝った。
私はこの森から出なければ。【ガラナの森】には、いられない。
ここであなたを待てない私を、どうか許して欲しい。
だって、生きたい。生きて、あなたにもう一度会いたい。
どれほど時間が経とうと、今度は私があなたに会いに行く。
この世界が救われるその日をただただ信じて。
自分のできることをしていこう。それが、ひとつの役目を終えた自分の新しい道なのだから―――。
ルーチェの鞄の中から、一冊の本が転げ落ちた。
琥珀の書に朱と金に輝く羽が挟まっている。ルーチェはその書を拾い上げ、胸に抱えた。
―――きっと会える。大丈夫。そうだよね、母さん。
密やかな想いごと抱きしめるように、ルーチェはアメジストの瞳を閉じた。