◆Ⅴ◆
『月と星が空に満ちる時
暦の乙女は別れを告げる
火の鳥の示す場所へ御使いを誘え
新たな旅路は安寧の眠りへと繋がる』
◆◆◆
お気に入りの深緑のローブを身にまとい、漆黒の手袋を嵌める。薬草を詰めるための籠を持って、ルーチェは扉に手をかけた。
キィ、といつもは気にしない蝶番の音がやけに耳に響く。
ゆっくりと足を進めようとした時だ。
「何処へ行く」
低く冷淡な声が彼女を捉えた。無意識にハッと息を詰め、次にゆっくりと吐いたルーチェは外とは反対側を向き、リビングに佇んでいるユリウスを認めた。
「何処って、外よ。取りに行かなきゃいけないものがあるの。明日、クルトさんが来るから…」
「そんなものは明日にしろ。もう陽が暮れる。これより先は魔がつ時。奴らの時間だ」
「大丈夫よ。陽が完全に沈み切るまであとちょっと時間があるわ。すぐに戻ってくるから―――」
「ダメだ」
断固として譲らない意思を見せるユリウスにさすがのルーチェも困惑を隠せなかった。
彼の忠告にも取れる言葉を無視することはできる。今のルーチェにはむしろ、彼の言葉を無視しなければならない事情があった。
しかし、真っ直ぐと見つめてくる緋色の瞳から目が離せない。
「魔王の力を見くびるな。お前のような無力な人間はすぐに闇に呑まれる。油断は禁物だ」
ユリウスの言いたいことは分かる。
まだ【ガラナの森】は魔王の支配下ではない。しかし、徐々に影響が出ているのは確かで、ルーチェも危険性を薄々感じている。
だから、ルーチェは急いでいた。こんな言い合いをしている時間はない。
今日でなければ、間に合わない。
「それでも、私は行かなくちゃ。大丈夫よ。行くところは花季の森で、比較的近いところだから」
「おい―――」
「ユーリは出て来ちゃダメよ。気温の変化に身体がついて行けなくて、また倒れるハメになるんだからね」
やっと視線を外せたルーチェはいつもよりそっけなく言い放って、玄関から駆け出した。
外は陽が沈みかけているのもあり、少しの寒気を感じる。
今までここまで肌寒いことはこの周辺ではなかった。花季の森に通じる道なら、尚更だ。
あそこは花が芽吹く場所。だから温かい気候になっていなければおかしい。
どうやら思ったよりも魔王の影響は早く手を伸ばしてきているのかもしれない、とルーチェは考えを改める。
「でも、だからこそ、今日でなくてはならないのよ」
自分に言い聞かせるようにルーチェは言葉を落とした。
そうだ。ずっと、この日を待っていた。自分に課せられた唯一の役目を果たすこの日を―――。
花季の森に足を踏み入れると、そこには湖のように辺り一面に色とりどりの花が咲き誇っていた。青々しく茂っている森に囲まれた花々。
オレンジに染め上げられた景色に見入ることもなく、ルーチェは一直線に目当ての場所に足を向けた。
花々に埋もれるようにあったひとつの切り株に近づき、ルーチェは籠の中からスコップを取り出し、根元を掘り出していく。
逸る気持ちを抑えながら懸命に掘り進めていくとやがてスコップの先に硬いものが当たる。
―――あった。
そこからはあまりスコップの先が当たらないように慎重に掘っていく。やがて、ソレは全貌を明らかにした。
両手に持てるほどの硬質な箱が陽に照らされて光を反射させた。
箱の中央に【白虎】の紋章が彫られているのを認め、ルーチェはようやく一息吐いた。
「これで、やっと―――…」
土の中から取り出そうと箱に手をかけた瞬間だった。
花々を蹴散らすように風を切る音が耳に届く。同時に、氷塊が背筋に滑り落ちるような感覚を覚え、咄嗟にその場から身を引いた。
すると、目の前に黒い影が滑り込んできた。
「魔物…?」
四足で立っている黒い影。一見すると豹のような姿。瞳が血の色のように赤く、光っている。
ぐるるる、と牙を向いており、殺気が禍々しく影のように揺らめいているのが見える。
「そんな…、まだ陽は沈んでいないのに」
目の前の事態にルーチェは固まってしまう。
先程の攻撃はどうやら間一髪で避けられたようだが、次はそうはいかないだろう。
足が使い物にならないことは痛いほどわかっていた。
魔物特有の“金縛り”をかけられたのだと瞬時に理解するも、どうしようもない。
恐怖で心が支配されそうになった時、目の前の魔物は一度体勢を低くした。
―――来る…!
思わず歯を食いしばって目を伏せたその時だ。
ギャン、と耳障りな声が聞こえたと思ったら、次に悲痛な雄叫びが辺りに響き渡る。
何が起こったのか、とそろそろと目を開けると、何かを振り払うかのように激しく悶えている魔物を認めた。
「下等な魔物風情が。大人しく炎に焼かれろ」
耳にしっくりとくる低い男性の声。それと同時に、魔物は天を仰ぎ、やがて力尽き倒れた。その姿は灰になるように少しずつ身を削られていき、とうとう魔物の形がなくなった。。
先程の緊迫感が嘘のように、穏やかな風が流れ、花弁が数枚その場を舞った。
「だから、油断は禁物だと言っただろう」
「ユーリ…」
声のする方に振り向けば、見慣れた漆黒の髪に緋色の瞳を持つ麗しい人がそこにいた。
夕陽を背にしてゆっくりとした足取りでこちらに歩み寄って来る姿はいっそ神々しいほどだ。
いつもと違うのは、初めてあった日と同じ服装だということ。そして、クゥが彼のもとにいるということだ。
あぁ、今度は私が助けられたのだ、と緊張が溶けた頭でそう思う。
ユリウスは漆黒のマントを緩やかに靡かせてルーチェの傍に来ると、目線を合わせるようにしてしゃがんだ。
「怪我は」
ふるふると首を横に振って応える。
憮然とした表情だが、緋色の瞳には心配の色が見え、ルーチェは居た堪れなくて思わず視線を逸らした。
「なんで、ここに?」
「お前ひとりだったら今頃死んでいた」
「そう、だけど…」
出てきちゃダメ、と言いおいた筈なのだが…。
命が危機的状況であったため、ユリウスの言葉を撥ねのけることは出来ず、まして叱りつけることもできないまま、ルーチェは続ける言葉に迷った。
穏やかな風が、ルーチェたちの頬を撫でていく。陽はすっかり姿を隠し、辺りは静かな夜の空気に変わっていく。ルーチェの傍に、クゥが寄り添ってくれる気配がした。
魔物とは違う、温かなクゥ。そういえば、この子はこの場所で拾った。
息も絶え絶えに、それでも生きようと懸命に希望を捨てないままこの場所でうずくまっていた。
あれから、あっという間だったことを今にして思った時だ。
その静寂を破るように、ユリウスが口を開いた。
「俺はもう、治った」
「うん」
「もう庇護される必要はない」
「…うん」
知っている。毎日、看病をしていたのはルーチェなのだから。一番、彼の様子を気にかけていたのは他でもない、彼女自身なのだから。
「なら何故、俺を連れて行こうとしない」
その言葉は意外で、ルーチェはゆっくりと彼に視線を戻す。
あまりにも予想外だったという反応が気に食わなかったようで、ますます彼の眉間には皺が寄っていった。
その様子が、あの家で過ごしてきた日々を思い起こされて、ルーチェはフッと微かに笑った。
―――あぁ、やっぱり。これで、終わりなんだな。
「これは、私の役目だから」
「役目?」
「そう。私の役目なのに、あなたに手伝ってもらうのはおかしいって、なんとなくそう思っていたの。理由はもう一つあるけど、それは言わないことにするわ」
不機嫌な顔なんてちっとも怖くない。これが最後だとわかっているから、愛おしさがずっと大きくルーチェの胸にこみ上げてくる。
「お前の役目というのは、あの箱か」
未だ土の中に埋まっている箱に視線を移してユリウスは言う。
「そうよ」
ルーチェはゆっくりと立ち上がり、箱に手を伸ばす。
丁寧に箱を持ち上げて開けると、中には一枚の黄金の羽と一冊の琥珀色をした革表紙の本がそこに収まっていた。どこにも傷がついていない様子に安堵のため息を吐いた。
―――いよいよだ。これで私は…。
切なく疼く胸をなだめながら、ルーチェはユリウスに向き直る。
ユリウスもつられるように立ち上がり、ルーチェを見ていた。
緊張が二人を繋ぐ。しかし、それは不思議なほどに穏やかで安心する緊張感だった。
「気高き漆黒を持つ御使い…勇者様の力になるあなた様にここにあるものを譲り渡すのが、私の役目です」
一瞬、驚きに目を見張るユリウスに、ルーチェはゆっくりと箱ごと中身を差し出す。
「…何故、俺だと。いや、この際それはどうでもいい。それよりも、いいのか。仮にあいつらのもとに戻ったところで俺が力になるとは限らんぞ」
「いいえ。あなたはきっと力になる。母さんの予言がそう言ってるわ」
「予言…?もしかして、お前の母は【予言の魔女】?」
「そうよ。残念ながら、私は母さんのようにはなれない運命だったけど。だから、分からなかったでしょう?」
魔力を持つものは自然と相手が魔力持ちなのかそうでないのかがわかるようになっていると聞いたことがある。
だからユリウスがルーチェのことを『無力な人間』と評したのも間違いではない。
ルーチェは紛うことなき【徒人】だ。薬の知識はあるが、戦う力など持ち合わせていない者。
ユリウスは驚き冷めやらぬ様子だったが、次第に落ち着いてきたのかいつもの冷静な表情に戻っていった。
「ねぇ、これを受け取ってくれるでしょう?あなたはそのためにここに来たのだから」
「全ては魔女の…いや、運命の通りに俺は生かされたというわけか」
「いいえ。運命は変えられる。あなたはそれを知っているし、勇者様も知っている。あの魔王でさえも運命に抗おうとしている」
「魔王も、だと?」
「そう。だから、これをあなたの手に渡らせまいと魔物を遣わした。この書は四方を司る宝のひとつ。魔王を眠りに誘うためのなくてはならない大切な予言がここに入ってるわ」
「琥珀色…そうか。【予言の魔女】の使役神は白虎。珍しい琥珀色の瞳を持っていたという」
「彼は彼女の後を追ったわ。残ったのはこの書とその想いだけ。―――だから、持っていって」
真っ直ぐにルーチェはユリウスを見つめている。
ユリウスも、やがてひとつ息を吐き、箱の中身に手を伸ばした。
すると、琥珀の書は淡く輝き、手の平に収まるほどの小さな琥珀色の光が書から抜け出てきた。
その光の玉は導かれるようにスッとユリウスの胸の中に入っていった。
「…なるほど」
「どうかした?」
「いや、この書の役目はここで終わったようだ。どうやら、この書は持って行かなくていいらしい」
「そんなはずないわ。大切な宝玉がこの中に収まっているって、母は言っていたもの」
「お前はあの光が見えなかったのか?」
「?―――…もしかして、宝玉の明け渡しは完了されたの?」
「そのようだ」
ユリウスが嘘をついている様子はなかった。生真面目に頷くものだから、ルーチェは言葉を飲み込む。
自然と、書に手が伸び、ユリウスもあっさりと書をルーチェに手渡した。
「私には、魔力なんて見えない。この瞳は、視界に映してくれない。だから、あなたの言葉を信じるわ」
書を抱きしめるように持って、ルーチェは真っ直ぐとユリウスに言った。
ユリウスは何か口を開こうとしたが、手元の黄金の羽に視線を移す。
途端に、鳳凰の羽から光が放たれた。
夜空の星が瞬くように、眩しく温かな光だった。
しかし、その光はルーチェには見えない。ただ、ユリウスの周りに風が強く渦巻きだしたのを肌で感じていた。
足元にくっついていたクゥがルーチェを見上げて一声鳴いた。
名残惜しげに尻尾で彼女の足を撫で、ユリウスの傍に駆け寄る。
「おい―――」
「クゥも連れて行ってあげて。きっと、力になるわ」
そう、クゥもこの日のためにきっと、この場に居続けてくれたのだから。
泣きそうになるのを堪えて、精一杯笑いかけた。
「さようなら」
鳳凰の羽が、彼らの求める場所へ導いてくれる。
そしてきっと、新しい未来を開いてくれるのだとルーチェは確信していた。
風が、一際強く吹いた。もう、目を開けてはいられない。
最後まで彼らを見送りたかったのに―――。
「――――、――――…」
耳に落とされた彼の声。その言葉に思わず目を開けると、もうそこには誰もいなかった。
風が流れて木々や花々がそよそよと歌を歌う。
満月が空にかかり、星たちが広がるその下で、ルーチェはまるで夢を見ていたかのような錯覚を覚える。
鼓動のとくとくと打つ音がなんだかやけに耳につく。
抱えていた書を見つめ、あれは夢ではない、と思い直せるには充分な時間があった。
ゆっくりと、その場に膝を着き、鼓動をなだめるように書を抱きしめていた。
しばらく、そこから動けそうになかった。