◆Ⅳ◆
『夕の日が沈む時、それは来る
御使いの新しき道を示す合図を見逃すな
運命を知る乙女の役目はいよいよ果たされる』
◆◆◆
ギルドの者が来てから更に二日が過ぎた。
ルーチェも次に発注するための薬を作る傍ら、ユリウスの看病もつつがなくこなしていた。
ユリウスはあいかわず無口だが、意外と表情豊かだ。そして、案外子供っぽいということを最近感じているルーチェである。
「ルーチェ、この続きはあるか」
ユリウスが片手に持っているのは赤色の革表紙の本。それを認めて、ルーチェは苦笑する。
「あるよ。でも、読書は食事が終わってからね」
言いながらさりげなく本を受け取ると、目に見えてユリウスは不機嫌になる。
完全にお預けをくらって拗ねている様子に怖さはなく、むしろ微笑ましい。
「……」
「そんな目で見てもダメよ。食事がすんでからじゃないと持ってきても渡さないから」
このやりとりもユリウスが食事を抜きそうになるほど口をすっぱくして言ってきた言葉だ。
ユリウスの表情も読めるようになってきたルーチェと同じく、彼女の意地でも意思を曲げない性格を少しずつ理解してきたユリウスも諦めのため息をひとつ吐き、しぶしぶ彼女の言葉を受け入れた。
その様子に満足そうに頷いたルーチェは食事の準備を整え、ようやく食べ始めた彼を認めてから、彼の所望している本の続編を探しに屋根裏部屋に移動した。
「…これで、最後の本」
赤色の革表紙の本を手に取り、ルーチェは憂いの一言を落とした。
淡く朝日の光が差し込むその場所でルーチェは一度瞳を閉じ、ゆっくりとまた目を開けた。
ずっと、待ち望んでいたことだと心に言い聞かせて。 真っ直ぐと自分の行く末を見据えた瞳にはもう、迷いはなかった。
ゆったりとした足取りでその場を後にした彼女を階段下でクゥは待っていた。
「あら、どうしたの?クゥ」
いつもユリウスが食事を取る時は、彼の傍にいるというのに。
彼が現れる前である日々でも屋根裏部屋に続く階段の下で待っていたことなどこれまで一度もなかった。
意外に思いながらルーチェはクゥの頭を撫でてから歩きだそうとすると、クゥも同じように歩きついて来る。
まるでじゃれつくようについてくるものだから進みづらいことこの上ない。
「あの、クゥ?歩きにくいのだけど」
それでも、クゥはこちらに一瞥をくれただけで尻尾は彼女の足にまとわりつかせている。
ルーチェはいつもと様子の違うクゥに戸惑っていたが、試しにクゥに視線を合わせた。
そこで、ようやく彼女はクゥの意図に気付いた。
「そう…、クゥも選んだの―――」
それ以上は言葉が出なかった。
ふさふさとしたその首元に腕を回し、ギュッと抱きしめた。
クゥン、とクゥもルーチェの首に寄り添うように顔をこすりつけ一声鳴いた。
まるで心配するな、というように優しい声だとルーチェは思った。
名残惜しげに離れると、幾分か互いにスッキリとした気持ちになったようだ。クゥも先ほどよりもさっぱりとした顔つきになっている気がする。
「行こうか」
ゆったりとした歩みで廊下を進むも、あっという間に目的地に着いた。ユリウスが寝ている部屋だ。
「遅い」
不機嫌な声で出迎えられた。
よくよく見てみると用意した食事はすっかり空っぽになっていて、本当にやることがなくなったようだ。
ルーチェが思っていたより時間が過ぎていたようだ。
「ユーリが食べるの早すぎるのよ。ちゃんと噛んでる?」
「余計なお世話だ。あと、食べるのは普通だ」
「足りなかったら、もう何個か作ってあげるけど」
「充分だ」
本当に、よく応答してくれるようになったと思う。
ノルマを達成した相手にこれ以上何かを言うこともない。ルーチェは素直に持ってきた本を彼に手渡した。
「これで母さんの本は全部終わりよ」
「ほかにはないのか」
「うん。それで全部。まさかあんなにあった我が家の本を短い間に読破しちゃう人がいるなんて、驚きだわ」
「…そうか」
「そんなに面白かったの?」
心無しか沈んだユリウスに思わず尋ねてしまった。
「これは世界にそうそうない代物だ。多くの研究者が追い求めてきたと言ってもいい。魔術を使うものは皆、喉から手が出るほど欲しいだろうさ」
「…ユリウスも、欲しい?」
「…欲しくないわけがない」
もの凄く欲しいようだ。
少し感情を押し殺したような声音はルーチェの胸に切ない疼きをもたらした。
「そう―――」
今はそれだけしか言えず、ルーチェは穏やかに微笑んだ。
彼の言葉に嘘はなく、彼の発する言葉は全て彼の気持ちに直結している。
ひねくれているようにも聞こえるが、誰よりも素直な性分だということはもう、知っている。
だからこそ、彼女は嬉しかったし、確信もした。
―――あぁ、やはり。この人だ、と。
静かにユリウスに近寄って持ってきた本を手渡す。
ユリウスも素直に受け取るとすぐに本を開いた。
「ねぇ、ユーリ。怪我が治ったらどこに行くの?」
「…行くべきところだ」
それは安全な場所ではないことは彼の表情を見ればわかった。
行く先を教えてくれる気なんてさらさらないことも彼女は勘づいていた。
「外の世界は、美しい?」
ルーチェの唐突で無邪気な問いかけに一瞬の間が空いた。
そして、ゆっくりとユリウスは傍らの椅子に腰掛けているルーチェに視線を移した。
「お前は、この森から出るのか?」
「さあ。でも参考までに」
「やめておけ。あのギルドの者も言っていただろう。もうあちこちに魔王の手が伸びてきていると。この森はまだ何らかの加護が生きている。むやみに出るな」
「あら、心配してくれているの?」
「そうじゃない。だが出るな」
「じゃあ、あなたが連れて行ってくれる?」
「なぜそうなる」
「…なんとなく」
ユリウスから返ってくる言葉は予想通りだった。ルーチェはまるで言葉遊びをしているようでとても心地いい気分を感じていた。
ユリウスも何か感じ取っているようで、途端に拗ねたような物言いたげな表情になっていたが、ルーチェはあえてそれを見なかったことにした。
「ねぇ、ユーリ」
「なんだ」
「幸せの色ってどんなのだと思う?」
「知らん」
即座に切って捨てたユリウスに臆さず、ルーチェは言葉を重ねていく。
「知ってる知らないじゃなくて、ユーリはどんなのをイメージする?」
「……わからん」
「ふふっ」
たっぷり考えてくれたようだが、やはりぶっきらぼうに返ってきた言葉にルーチェは笑いを堪えきれなかった。
笑われたことでやや気分が下がったのか、ユリウスは反撃とばかりにこちらに挑むような視線を向けてきた。
「そういうお前はどうなんだ」
「私?私は―――…」
一瞬口を開きかけて、少し迷った後に口を噤んだ。
そして、懐かしむように切ない表情でようやく口を開いた。
「私も、わからないわ」
静かにこちらを見つめる緋色の瞳から視線を逸らさずに、ルーチェも自信を持って答えた。
クゥン、と傍らに座っていたクゥが切なく鳴いた。
彼が納得していないことなどルーチェにはわかりきったことだった。
ルーチェは何食わぬ顔をして、さっさとユリウスの食器を片付けに動き出す。
ユリウスもそれ以上は追求せず、手元の本に集中し始めたのだった。