◆Ⅱ◆
『黒の御使い目覚めるその時は
白の乙女も暦に身を落とす。
怖れることはない。
それは、遠き日に交わした約束の導きなのだから―――』
◆◆◆
倒れていた人は、男性だった。肩より下ほどの長い髪を持っているから女性と思っていたが、怪我の様子を見るために服を脱がせて胸が逞しい様を見てしまったのだ。赤面してしまったのは誰にも言えない。
彼は重症だった。《ナハム》を用いて、ようやく体力の回復はできたが、意識はまだ呻く程度で、覚醒には至っていない。火傷と裂傷は酷いもので、完治するためには二週間以上はかかると見られた。
ルーチェはこまめに薬を塗ったり、ガーゼを変えたりと彼の看病に勤しんだ。
幸い、ルーチェは薬草に詳しく、自身で薬を作ることもできるので、彼の治療で困ることは何もなかった。
なんといってもルーチェが住んでいる家は《ガラナの森》の中心部。四季のそれぞれの境目に当たる場所で、足りない薬草があればすぐにその場所へ行き、採ってくることができたのだ。
朝、昼、晩と彼が回復に向かうようにあれこれと手をつくした結果が功を奏し、彼が意識を取り戻したのは、発見されてから一週間と四日が経った後だ。
「う…、ここ、は…?」
「やった…。意識、取り戻した…!」
緋色の瞳がゆっくりと姿を現したのを見て、ルーチェは堪らず歓喜の声を上げた。それが相手の頭に響いたのか、再度呻くように眉根を寄せられたので彼女は慌てた。
「あぁっ、ごめんなさいっ。ちょっ、だめ、まだあなた酷いキズなのよ。寝てなさい…!」
そこかしこ身体の痛みを感じるだろうに、彼はあろうことか起き上がろうとしていた。
患者は安静第一、とばかりにルーチェは彼の額に手を置いて寝台に戻した。
「誰だ…?」
「っ…」
地面を這いずるような低い声音に驚き、急いで彼から手を離す。
しかし、相手は怪我人。看病してる側が怯えてどうする、と自身を叱咤して彼に向き直る。気を取り直して改めて彼を見ると、やはり身体が思うように動かないことに気付いたのか大変不機嫌な表情をしていた。
「私はルーチェ。あなた、ここの森で倒れていたのよ。悪いけど、勝手に看病させてもらったわ。まだ完治には程遠いからそこから動かないで」
「森…?」
「【ガラナの森】よ。知ってるでしょ?」
「あぁ。そんな辺鄙なところに…」
辺鄙で悪かったね。
ルーチェは生まれも育ちもこの森なので、故郷を悪く言われたようでむっ、とする。
事実、【ガラナの森】は入ると不吉なことが必ずその身に降りかかると言われている。
その原因は既にルーチェは知っている。
なんてことはない。温度差による体調不良ということだけだ。
人は気温の変化に敏感だが適応力はあまり高くない。
だから、火季の森のように暑いところからいきなり始期の森のような寒いところに入ればすぐに体調を崩してしまう。
ルーチェはその気温に応じて体温を調節する薬草を事前に飲んでいるため変調はないが、新しくこの森に足を踏み入れる者は事前の備えなしで来ることが多い。それ故、自然と不吉な噂が広まったのだ。
そんなことを知らない人にとやかく言われるのは癪だが、ここよりも住みやすい地域があるのも事実だ。
しかし、【ガラナの森】の良さをつらつらと並べたとしても相手は怪我人。聞くことにも体力を使うものだ。むしろ、それはきっと彼には必要のない知識で、無駄な体力の消耗に繋がってしまうだろう。
彼を休ませることを第一に考え、ルーチェは食事を持ってくるために席を立った。
「スープぐらいだったら食べられると思うの。持ってくるから待ってて。―――…と言っても、まだ動けないでしょうけど」
言い置いてドアを開けると、するりと狼が入ってきた。クゥだ。
これは、丁度いい。
「クゥ、彼が動かないように見ていてくれる?」
もとからそのつもりだったのか、尻尾をふりふりしながらベッドの近くへ座った。
(珍しい…)
クゥは魔物と接触したこともあり、警戒心が非常に強い。それは、人であっても同じようで、たまに来る旅人たちには、あんなふうに自分から喜んで駆け寄ることはなかった。
彼だけだ。看病をしている間も、大人しく扉の前に待っていて、一段落するとこうして部屋の中に入り彼を見つめるのだ。
まるで恋する乙女だ。―――クゥは雄だが。
いきなり大きな狼が入ってきて彼は驚いたように目を見開いていた。
だが、軽快な足取りで寄ってくる狼が自身を害するものではないとわかったようで、凍てつくような瞳が少し温かさを宿したように見えた。
動物は好きなようだ。
ひとまず安心して、その場を後にした。
次に戻ってくると、彼はちゃんとベッドに横たわっていた。しかし、目に飛び込んできた光景にルーチェは唖然とした。
(あらまぁ、クゥったら。動かないように見ててって言ったのに…)
彼は痛むであろう腕を伸ばして、クゥの頭を撫でていたのだ。これでは、怒るに怒れない。
仲良くなるのが早すぎやしないだろうか。
お互いに、何か共鳴するものを感じ取ったのかもしれない。
まぁいっか、と一つ息をつき、気を取り直して入室する。
「お待たせ。スープ、持ってきたよ」
「…どうやって食べればいい」
「私が食べさせてあげるから、あなたはそのままでいいよ?」
「……」
え、イヤ?
イヤだろうな。人に頼る性分ではなさそうだ、と薄々思っていたがあながち間違っていないのかもしれない。
だが、今更だろう。
「あなたを発見してから私が食べさせてあげてたから、大丈夫よ?」
「……」
冷たい眼差しは相変わらずだ。クゥに対する温かさをほんの少しでも分けてほしいくらいだ。
これでは埒が明かない、ということで説得は早々に諦めた。
枕をもう一つ差し入れて彼の頭の位置を調節する。それからスープをひと匙掬って息を吹きかけて、彼の口元に寄せる。
「はい、どうぞ。口を開けて」
躊躇うように一度口を引き結ばれた。しかしそれは一瞬で、次にゆるゆると口を開けてくれた。こぼさないようにゆっくりとスープを差し入れる。
「……」
「…熱かった?」
「………いや」
それはよかった。
病人食なので、あえて味については聞かない。
果たして次も食べてくれるだろうか、と恐る恐るスプーンを口元に寄せると、今度は素直に飲んでくれた。
なんだろう。可愛い。
もう成人に至っているであろう彼に思うことではないだろうが、とても可愛い。
繰り返し与えて、皿の中身もあっという間になくなってしまった。
彼はやっと終わったと安堵している様子だが。
「後は《ナハム》を飲んで。二口で終わるからね」
予想はしていたが、そんなにげんなりしなくてもいいと思う。
綺麗な顔をしているから不機嫌さが余計に際立って、軽く心が挫けそうになる。
薬が苦手だと思うことにして、少量のカップに《ナハム》を入れ、彼の口元に運ぶ。
貴重な薬だからこそ、慎重にカップを傾けて少しずつ彼が嚥下するのを見る。
息継ぎもして、言った通り二口で終わった。
「お疲れ様。全部飲んでくれてありがとう」
口の回りを手巾で拭きながらお礼を言った後、枕を外してもとの高さに戻した。
久しぶりに栄養となる食事も摂れたから、回復はより早くなるだろう。
その為にも休養を、と布団も綺麗に均した。
「さぁ、あとはゆっくり休んで。クゥも暫く一緒にいてくれるだろうから、安心して」
それに肯定するかのように、クゥは鼻先をベッドの上に置いた。
パタパタ振っている尻尾が時折ルーチェの足に当たっている。地味に痛い。
食器を片付けようと席を立って、クゥの頭を撫でる。
今度は彼に無理をさせませんように、と少しの祈りを込めて。
「……礼を言う」
ぽつり、とこぼされた言葉は確かにルーチェに届いた。
あまりにも意外だったので、思わず彼の顔を見直したが、残念ながら彼は既に目を閉じていた。
「次に目が覚めたら、名前を教えてね」
それまでは、おやすみなさい。
クゥにするように彼の頭を撫でて、ルーチェは微笑んだのだった。