◆Ⅰ◆
『黒の御使いが紅に現わる。
見過ごすことなかれ。
それは、魔に支配されし世の光となるのだから――――』
◆◆◆
花季、火季、木季、始季の四季の気候を東西南北に有する特殊な森があった。その森は旅人から【ガラナの森】と名付けられていた。
実りの季節を司る木季の気候を持つ森に、白鳥の色を映したかのように流れる白い髪を持つ少女がいる。
彼女の名前はルーチェ。アメジストの瞳で森林を見渡し、歩みを進めていた。
深緑のローブを纏い、手には大切な薬草を詰めた籠を持っている。時折しゃがんでは目当ての薬草を籠に入れていく。
「《イリス》の葉だ。凄い、こんなところに群生していたなんて」
興奮気味に青色の葉を持つ植物に手を伸ばし、いろいろな角度から見て確信を得る。
《イリス》の葉はすりつぶして直接傷口にも塗っても傷薬として役には立つが、主に重宝されるべきは別の使い方にある。
《イリス》の葉を乾燥させ、茶のように水で注入した後、《タギリ》の茎から出る汁を少量加える。この仕上がったものを《ナハム》という。飲めば体力、魔力共に大いに回復することができる。その為、旅には欠かせない重要アイテムとして巷では高値で交渉されている。
「寒い中でしか育たないって聞いていたけれど…。始季の冷気がここまで入ってくるからかな」
そこまでの肌寒さは感じないのだが、と植物採取用の手袋を外して土の温度を確かめる。なるほど、冷たい。
どうやら気候ではなく、土の温度が重要らしい。これは新しい発見かもしれない。家に帰ったら、薬草帳に追記しておこう。
「でも、木季の森でこんなに冷たい土があるのも変な話ね。やっぱり、魔王の目覚めに何かしら影響を受けているのかしら」
ルーチェは独り言のように呟いて手袋を嵌め直し、《イリス》を摘み取る。
全ては採らない。新たに芽吹くのか経過を見るためにも残しておくことは必要だ。
「よし、今日はこれで終わりにしようかな。―――クゥ!」
もうすぐ日が暮れる。昨今、魔王が目覚めたと噂され、夜に魔物が跋扈するようになっている。この地域はまだ明るいうちは魔物は出てこられないが、用心しておくことに越したことはない。
声を張り上げて呼ぶと、森の中から一頭の狼がこちらに駆けて来た。青みがかった白い毛を靡かせてこちらに向かってくる姿はいつも迫力がある。
クゥはルーチェの近くまで来るとスピードを落とし、静かに歩み寄った。籠の中身が気になるのか、すんすんと鼻を動かしている。
「お待たせ。さぁ、家へ帰ろう」
ルーチェより大きな体躯を持つ狼はその言葉に従い、彼女の隣を闊歩する。
乗ってもいいよ、と時折見上げてくるクゥに、ルーチェはゆっくりと首を横に振った。
これまでに何回か繰り返してきたやり取りなので、クゥは少し残念がりながらも彼女に寄り添うように歩みを進めた。
「今日は《イリス》の葉を見つけたわ。家に帰ったら早速、《ナハム》を作ろう。クゥにも少し飲んでみてほしいわ。今よりもっと身体が軽くなるだろうから」
クゥの金の瞳と目が合い、ルーチェは朗らかに笑う。
その様子に、クゥも嬉しそうに尻尾を振った。
クゥは花咲く温暖な季節を司る花季で見つけた狼だ。魔物に傷つけられ、倒れていたところをルーチェが見つけて手当てをした。
それ以来、彼女に懐いており、こうして良き話し相手になっている。
彼女が《ナハム》を薦めるのはクゥに完治しきれていない傷があるからだ。走れるようになってはいるが、時折、手足が痺れるような仕種が見られるのだ。
魔物の攻撃による後遺症の可能性もあるが、《ナハム》ならば幾日服用すればマシにはなるだろう。
満足に走り回れるクゥを見ることが出来るかもしれない。
ルーチェはわくわくしながら家路を急いだ。
その時だ。
――――遠くの方で、天上に昇る一筋の光が見えた。
夕陽が弾けたかのような一瞬の光。次いで、地面が激しく揺れた。
「きゃあっ?!」
思わず、傍にいるクゥにしがみつき、目を閉じる。
地響きの中に、ドサッと重たいものが落ちる音が耳に届いた。
程なくして、揺れは収まり、ルーチェは恐る恐る瞳を開ける。
「ひっ!?」
前方で黒い塊が落ちていた。
クゥも警戒心を露に唸る。
(もしかして、魔物!?)
戦慄しながら、黒い塊に目をこらす。
微かに、焦げくさい匂いが鼻腔をくすぐった。
黒い塊は、動かない。だが、僅かに呻くような声が聞こえた。
「―――…?」
おかしい。大した時間は過ぎていないが、その場から動くこともなくじっとしているなんて。そんな魔物は聞いたことがない。
緊張が次第に困惑になり、ルーチェはクゥに視線を落とす。
いつのまにか、クゥは唸るのをやめて黒い塊をじっと見つめていた。
「あっ、クゥ…!?」
するり、と手の平から抜けたクゥは静かにその黒い塊に歩み寄った。
クゥは魔物と接触したことがある。それなのに、不思議そうに黒い塊を見つめている様子に、ルーチェも何かを感じ取り、勇気を振り絞って後に続く。
傍まで近付いても動かない。ルーチェは恐る恐るその塊を覗き見た。
「うそ、人…!?」
僅かに顔が見えた。その色は肌色。どうやら黒いのはその人が着用しているマントと…これまた珍しい黒い髪のせいだったようだ。
ルーチェは急いで脈を確かめる。
「う…」
「あの、もし…?私の声、聞こえていますか?」
少し身動ぎをしただけで、また意識を深いところに持っていかれたようだ。
目を開けることなく、その人は今度こそ四肢の力を抜いた。気を失ったのだ。
「大変…!急いで手当てしてあげなきゃ…!」
血相を変えてルーチェはその人を背中に担ぎ上げようとする。だが、重い。人並みの力しかないルーチェには多大な労力だ。
(家まで、行ける…?)
今にも地面にくず折れそうなところに、クゥが身体を割り込ませるように進み出た。
「クゥ、あなたがそこにいると、進めない…う、重っ…」
クゥは呆れたような視線を寄越し、尻尾でふよふよと己の背中を指し示す。
ルーチェはしばし考え、その意味をようやく理解した。
「ありがとう、クゥ。助かるわ」
黒い人をクゥの背に四苦八苦しながら乗せ、彼女たちは真っ直ぐに家路を辿ったのだった。