≠無難な転生
「お前は俺の婚約者だろう。何を他の男にうつつを抜かしている。」
目の前の濃紫の瞳は剣呑な光を灯して、まっすぐとシルヴィアに突き刺さっている。
シルヴィアは聡明だ。すぐにその剣呑な視線の意味は分かった。
彼の視線に混じっているのは、強烈な嫉妬だ。しかし、何故。
まさか、彼が自分に恋心を抱いているとでも言うのか。
そこまで考えて、シルヴィアは鳥肌の立った腕を摩った。いや、それはないだろうと。
* * *
シルヴィア・ベルンシュタインは前世の記憶持ちだ。
と言っても、前世の影響を多少なりとも受けているだけで、また異なる別人格であるが。
まあ、それだけならばまだよかった。少し変わった子で済むのだから。しかし、前世の記憶の中には到底無視できない情報があった。
シルヴィアが生まれ育ったこの世界が、前世では乙女ゲームとして存在していたのだ。
その中でシルヴィア・ベルンシュタインの立ち位置は、ヒロインの恋を至るところで阻む悪役のライバル令嬢だった。
この時点でシルヴィアは頭を抱えた。
このままヒロインが、特にシルヴィアとの関連性がある第4王子や、同じ公爵位の貴公子らと恋に落ちれば、シルヴィアにとってのバッドエンドはほぼ確実だ。良くて実家である公爵家からの絶縁、国外追放、バッドエンドの中のバッドエンドでは奴隷や死亡フラグがド派手に立っている。
「これは絶体絶命というヤツね……」
冷や汗が背筋を撫でた。まったく笑えない。
これはヒロイン、アルベルティーナの邪魔をせずとも、物語通りになってしまうのだろうか。
「補正が働かないとは限らないけれど、このまま身を任せるのも何だか癪だわ。」
そう呟くなり、シルヴィアは意思を固めたように拳を握った。
自身のバッドエンドを回避するには、どうすればよいか。無意識にも口角が上がる。
簡単なことだ。
第4王子に関しては、こちらから候補を辞退すればいい。シルヴィアが降りたとしても、まだまだ公爵、侯爵家の令嬢たちはいる。
まだ候補者であるため、数名いる令嬢の中で第4王子から身を引くのも簡単なことだろう。
確かにシルヴィアの生家、ベルンシュタイン公爵家は周りの貴族諸侯たちと比較すれば別格だ。しかし、王位からも遠い第4王子の妻が特別である必要はない。最低限の地位があれば、誰が妻でも構わないのだ。
それに、第4王子自体があまり地位にこだわる男ではない。
この国の第4王子はクラウディオ・ラ・フェーレンシルトといい、王位継承権は第6位である。
この国は年功序列性で女性でも王位を継ぐことができるため、王子といえども王位からは遠い。しかし、軍の総帥を務めており、この国の軍は他の王族ではなく全て彼が牛耳っていると言っても過言ではないのだ。
だからこそ、王位からは遠くとも、令嬢たちにはモテる。正直、王太子よりモテる。
地位、権力、財力ときて容姿までもが良いのだから無理はないが。
そんな彼の婚約候補者というだけでも羨ましがられるのだが、シルヴィアにとっては簡単に放棄できるものだった。
当たり前だ。果てしなく暗い未来が待っている優良物件と、ほどほどの暮らしに穏やかな日々。どちらを取るかと問われれば、シルヴィアは迷わず後者を選ぶ。
「まあ、とりあえず候補者から降りないと何も始まらないわよね。」
思い立ったら吉日。即行動派であるシルヴィアは、早速父の元へ向かった。
とりあえず両親の説得にかかる。と言っても、両親は末っ子であるシルヴィアに蜂蜜のように甘く、大抵はすべて言うまでもなく頷いてくれるのでそう難しいことでもないだろう。
元々、クラウディオの婚約候補者となったのも、「気になる人がいないのなら、候補者に立候補してみてはどうだ」という両親の適当な流れからだった。
始まりがそんな流れだったからこそ、「君が決めたことなら」と両親の同意を得た。これで第一関門はクリアした。
「さて、次は陛下にもお話しなければいけないわ。」
まずは候補者を降りるということを簡潔に手紙に書く。
国王陛下は多忙な方であるから、さっと目を通すだけだろう。すぐに同意を貰えるはずだ。
「クラウディオ王子殿下は大して婚約者に興味もないでしょうし、同意を得る必要はなさそうね。」
それ以前に、シルヴィアはクラウディオを苦手としていた。
シルヴィアも銀灰色の髪に薄い碧の瞳を持ち、冷艶とした雰囲気から《氷姫》と呼ばれているが、クラウディオも近付きがたい鋭利な雰囲気を纏っている。
軽く同族嫌悪とでも言うべきだろうか。
「どうせ数日後には赤の他人なのだし、そもそも簡単に会える人でもないし。」
そのシルヴィアの言葉通り、数日後にはシルヴィアの希望は受理され、晴れて婚約候補者から降りることができた。
シルヴィアをクラウディオの妻にと願っていた王妃からは名残惜しそうにされたが、それは王が諌めてくれた。
これでシルヴィアとクラウディオの間には、何もなくなったのだ。国外追放ルートは消滅した。
思わずシルヴィアは口元を緩ませる。こうやって、一つずつバッドエンドを消していけばいい。
* * *
数日後、シルヴィアは舞踏会を兼ねた夜会に出席していた。
シルヴィアはあまり夜会が好きではないが、夜会は情報交換にも役立つ。出席しておいて損はない。
しかし、既にシルヴィアが第4王子の婚約候補者から降りたことは知られているらしく、貴族子息たちが次々と交流の機会を測ってくる。
《氷姫》と呼ばれ絶対零度のような外見をしていても、上面だけは淑やかな令嬢を演じているため、それに騙される男性は多い。本当のシルヴィアは、どうでもいい他人には非常にドライで、常にブリザードが吹雪いているというのに。
そんな中、一人の貴公子が男性たちの人波を掻き分けてシルヴィアの前に膝をつく。
「シルヴィア嬢、一曲お相手願えますか?」
シルヴィアの顔が僅かに強ばる。
今自分の前で跪いている男性は、大いに見知った人物だ。
しかし、こんな公衆の面前でダンスを踊ったことはない。それはシルヴィアが彼にあまり関わらないようにしていたのもあるし、彼の方もシルヴィアにあまり近付かなかったのもある。
ベルンフリート・ホーエンローエ。それが彼の名前だ。
二十代半ばという若さで公爵家の当主となった実力者で、王族に次ぐ権力の持ち主である。
その美麗な容姿に紳士的な態度で、多くの令嬢たちから絶大な人気を誇るが、中々に貴族らしく傲慢なところが見え隠れすることをシルヴィアは知っている。
また女性に向ける行為は、厚意であって好意ではない。そうすることが最低限の女性の扱い方だと思っているだけなのだ。
「……ええ、喜んで。」
多くの人々が見ている。こんな公衆の中で彼からのお誘いを断るわけにはいかない。
最低限のマナーだけはしておかなければ。そう思い、シルヴィアは差し出された手を取った。
しかし、忘れてはいけない。
彼は攻略対象者の内の一人だということを。そして、彼のルートでは自分が悪役令嬢として登場することを。
同じ別格の公爵家ということで、彼に相応しいのは自分だと勘違いしてヒロインの恋路を邪魔した末に、彼の根回しより実家を追われるというバッドエンドを迎えるのだ。
シルヴィア・ベルンシュタインにとってのバッドエンドの中では、まだマシな方に分類されるが、シルヴィアに自分を痛めつけて悦ぶ性癖はない。よって、この結末も早々に潰しておく必要がある。
彼のフラグさえ折っておけば、他のルートでは自分から深く首を突っ込まなければ、バッドエンドになることはないのだから。
これさえ乗り切れば、この世界での平穏ライフは確立したのも同然。
そう自分を奮い立たせ、ベルンフリートとのダンスが早く終わるようにと願う。
「ところでシルヴィア嬢、殿下の婚約候補者を辞退されたそうですね。」
「ええ。」
ダンスの途中でベルンフリートが口を開く。
やはり、彼からもその話題が振ってくるか。そう思いながらも、真実であるため肯定しておく。
シルヴィアの肯定を受け、ベルンフリートの碧の瞳が細まった。
「何故かお聞きしても?」
「単に、わたしでは殿下の伴侶には成りえないと自ら判断したまでです。」
「どうしてですか?ベルンシュタイン公爵令嬢の貴女が無理なら、他の令嬢でも無理だと思いますが。」
「ベルンフリート様はわたしを買い被りすぎですわ。」
「そうですか?貴女は聡明な姫君だと思いますよ。そんな貴女が抜けて、殿下もさぞ残念でしょう。」
馬鹿正直に、王子の婚約者になったら国外追放の可能性がある、とは言えず、シルヴィアは適当に誤魔化すが、彼の追及は止まらない。
「ふふ、なら僕の婚約者となるかい?」
「ご冗談を。ベルンフリート様にはわたしなどよりずっとお似合いの令嬢が見つかりますわ。」
「……つれないな。」
いきなり口調が崩れたのは気にしない方向でいく。
それよりも、自らフラグを立ててたまるか、とシルヴィアは淡い笑みを浮かべてやんわりと拒んだ。
彼と関わることは、王子の次にやばい。関わるだけでアウトだ。今こうして、踊っているのも本当はしたくないが、こればかりは仕方が無いと諦めた。
フラグが立つから、というのもあるが、それ以前に前々からシルヴィアはベルンフリートに良い感情を抱いていなかった。
彼が美丈夫なのは確かだ。彼の伴侶にと希望する令嬢も多い。
しかし、シルヴィアにとっては胡散臭い笑顔を浮かべて、掴めない人物で油断ならないと思っていた。
シルヴィアは無駄に頭が回るからこそ、自分が読みきれない相手を苦手とする。特に苦手意識を持っていたのが、王子とこの目の前の貴公子であるのだ。
王子は寡黙で無表情、貴公子は笑顔と紳士的という仮面を被っている。シルヴィアが警戒するのも無理はなかった。
「でも、そうだな。このまま君が伴侶を決めなかったら、僕が立候補しようかな。」
「……え?」
その瞬間、ベルンフリートがシルヴィアの手の甲にキスを一つ落とす。
ダンスが終わったと同時に、ベルンフリートは再び多くの令嬢たちに囲まれたため、その真意を問うことはできなかったが、シルヴィアはぽかんと固まったままだった。
なんて不穏な言葉を残して去って行くのだろう。シルヴィアは鳥肌の立った腕を摩った。
「彼には気をつけないと……」
そう呟くシルヴィアを一対の瞳が見つめていたことに気付くことはなかった。
* * *
「ねぇ、テオフィール。わたしに射撃を教えてくれない?」
「……唐突だな、アンタ。」
夜会から一ヶ月が経ったある日。
シルヴィアは昔馴染みである青年、テオフィール・ベーメルにとある相談を持ちかけていた。
射撃。その相談を受けたテオフィールも、怪訝そうに眉を顰める。
銃は男が構えるものだ。公爵令嬢が興味で嗜むものではないだろう。
「貴方しかこんなことを頼める知り合いはいないのよ。」
「そりゃ、そうだろうなァ。アンタはこんなんでも公爵令嬢だし?」
「こんなの、は余計よ。」
「アンタ、外見はともかく、内面が全然公爵令嬢っぽくないんだよなァ。オレみたいなのにも平気で話しかけてくるしよ。」
実はこのテオフィール・ベーメルも攻略対象者の一人である。
テオフィールはいわゆる孤児で、ベルンシュタイン公爵家が支援している孤児院出身という過去から、シルヴィアとも昔からの知り合いなのだ。
テオフィールのルートでは、シルヴィア・ベルンシュタインには死亡フラグが立つ。ヒロインにしつこく悪意ある行為を続けたことで、テオフィールの逆鱗に触れ、彼の手によって殺されるのだ。
しかし、この死亡フラグには回避策がある。
シルヴィアがヒロインに近付かず、彼らの恋路を邪魔しなければ、テオフィールが豹変することはない。つまりは、不用意に干渉さえしなければ、特に問題はないのだ。
そのため、シルヴィアは現時点では問題なしと判断し、今でもささやかな交流は続いている。
勿論、テオフィールの前にヒロインが現れたときは、さっさと退散するが。
「何だよ。殺したい相手でもいるのか?何なら、オレが殺してやるぜ?アンタなら特別料金で請け負ってやるよ。」
「違うわよ。いざというときのために、銃を扱えた方が良いと思って。」
「はぁ?」
テオフィールは王都で活動する人気サーカス団の道化師だが、凄腕の暗殺者として裏の顔も持っている男だ。総合的にどんな武器も扱えるらしいが、その中でも狙撃手としての腕は右に出る者はいないと言う。だからこそ、シルヴィアは避けるべき攻略者の一人であるテオフィールを頼ったのだ。
いざというときには、攻略対象者を撃ってでも五体満足で逃げなければ。
ただし、ヒロインを撃ってはいけない。攻略対象者はみんなヤンデレ予備軍であるため、何が引き金となって病むかはわからないからだ。万が一、ヒロインを危険に晒し、攻略対象者がヤンデレと化してしまえば、シルヴィアが無事生還できる可能性は低くなる。
「……まァ、いい。教えてやるよ。」
「え?本当に?」
「ああ。その代わり、アンタが撃つときは呼んでくれよ。お綺麗なアンタが人を撃つんだ。これほどおもしれーことはねェだろ?」
ニヤリと愉快そうに口元を歪めるテオフィールに、シルヴィアは溜息を一つ零した。
そうだ、この男はこういう人間だった。
「そうと決まれば来いよ、お嬢サマ。アンタに銃の扱い方を教えてやる。」
そう言うなり、テオフィールはシルヴィアの手を引いて歩き出した。
一体どこに行こうというのか。少しばかり困惑したような表情で、シルヴィアは引かれるままついて行く。
そうして辿り着いた先は、人気のない路地裏だった。貴族の令嬢であるシルヴィアには全く馴染みのない場所だ。
そんな中、テオフィールはおもむろに一つの扉を開ける。その先は地下になっているらしく、薄暗い下り階段だけがあった。中からは銃声が響いており、シルヴィアはここが民間の射撃場であることを悟る。
キョロキョロと物珍しさから辺りを見回していたシルヴィアに、テオフィールが唐突に一丁の拳銃を差し出した。
「アンタじゃあ、このくらいが妥当だろうな。」
テオフィールが手渡してきた銃は、シルヴィアが想像していたものよりも小さなものだった。
十分な殺傷力があるわけではないが、護身用としては問題ないらしい。
少しの知識があるとはいえ、まだ銃に疎いシルヴィアにはよくわからなかったが、テオフィールが言うのであればそうなのだろう。
「ほら、そこに立て。背筋を伸ばして、まっすぐと的だけを見るんだ。」
シルヴィアを的の前に立たせると、テオフィールはシルヴィアに密着しながら銃の構え方を教え始める。
普通の女性なら、これだけ異性にと密着すれば何か思うところもあるだろうが、今のシルヴィアはそんなことになど欠片も意識が向かない。
自身に必要なのは誰もが憧れるような色恋ではなく、少なくとも、この魑魅魍魎が渦巻く世界を生き抜けるだけの力。とりあえず、話はそれが終わってからだ。
「………何をしているの、テオフィール。」
不意に肩と腕に添えられていたテオフィールの手が、腰にあることにシルヴィアは違和感を覚え、ジトっとした眼差しでテオフィールを見上げた。
しかし、その視線を受けたテオフィールは妖艶な笑みを漏らすだけ。
次の瞬間、テオフィールは無言でシルヴィアに擦り寄った。柔らかい赤毛がシルヴィアの首筋を撫でる。その擽ったさにシルヴィアは身を捩るが、テオフィールの力は思ったよりも強く、その拘束から逃げ出すことは出来なかった。
「ねぇ、離してくれる?」
「離す意味がわからねェな。」
「わたしは貴方がくっついてくる方が意味不明だわ。流石のわたしでも、貴方の行動は読めない、というか読みたくない。」
恨めしそうな視線を向けられても、テオフィールは笑みを浮かべるだけ。依然、シルヴィアに巻き付いたテオフィールの腕が外れることはなく、それどころか余計に密着しているような気もする。
「なァ、教えてくれよ。誰にその銃口を向けるつもりなんだ?」
唐突に、まるで恋人に囁くような甘い声色でテオフィールが尋ねてくる。しかし、シルヴィアが素直に答えるわけがなかった。
ここで第4王子や公爵の名を出せば、ややこしいことになるのは目に見えている。
そう思い、シルヴィアは目的を語ることはせず、無言を貫いた。
「オレは誰にも言わないぜ?逆にアンタのことを匿ってもやれる。オレを共犯にする方が賢いと思うけどな。」
「………最初に言ったと思うけれど、わたしに人を殺す気はないわよ?」
何を誤解しているのやら。テオフィールはまだシルヴィアが誰かに殺意を抱いていると思っているのか。
そうであれば、そんなものは大いに見当違いだ。シルヴィアに人を殺す気はない。というよりも、人を殺すという覚悟もない。
「……ふん、まぁそういうことにしといてやるよ。だが、これだけは言っておくぜ。」
「何?」
「アンタにこんなことを教えてやれるのはオレだけだ。せいぜい、オレのことを大切にしろよ。」
あの王子よりな、そう呟かれた言葉はシルヴィアの耳に届くことはなかった。
* * *
テオフィールに教えを乞うてから早数週間が過ぎた。この頃には既に護身には問題無いほどの射撃技術を身に付け、一段落ついたため、テオフィールと会う回数も徐々に減っていた。
そんなある日。シルヴィアは母から告げられた言葉に、思わず固まった。
「………お母様。」
「仕方がないでしょう?私だって貴女に伝えなくてもいいと思っていたのだけど、王妃様直々の招待状だもの。お断りするなんて難しいわ。」
「ええ、わかっています。わかっておりますとも。」
しかし、納得はしていない。
何故、第4王子の婚約候補を辞退した自分が、王妃主催のお茶会に招かれるのだろう。いや、これがただのお茶会なら何の問題も無いのだが、招待状の文面からして、メンバーは各王子の婚約者か候補者たちだ。
そこに自分が加わることをおかしいと思うのは当然のことだった。
「じゃあ、お茶会は3日後だからよろしくね。」
「………はい。」
渋々といったようにシルヴィアは母の言葉に頷く。
納得はしていないが、だからと言って断れるものでもない。黙って出席するしか、シルヴィアに選択肢は無かった。
時の過ぎることの何と早いことか。
いつも通りの日々を過ごしていれば、3日など早いもので、今日がお茶会の日だった。正直、関係のない自分が参加することを億劫に感じているが、王妃直々の招待ならば仕方がない。そう割りきって、お茶会を乗り切ることにした。
ちなみに昨日は久しぶりにテオフィールに会って、今回のことを愚痴ってやった。彼は愉快そうに笑っていたが、シルヴィアとしてはこういうときにこそ親身になれないのか、と思う。
「じゃあ、貴女なら大丈夫だと思うけれど、つつがなく過ごして頂戴ね。」
「ええ、では行って参ります。」
ベルンシュタインの屋敷は王都にあるため、言うほど遠い距離ではない。そのため、馬車で20~30分もあれば王宮に着くだろう。
シルヴィアは侍女を一人だけ付けて、馬車に乗り込んだ。
「お嬢様、そのような辛気臭いお顔はやめてくださいませ。折角の王妃様からのご招待なんですよ。」
「そんなに口煩く言わなくてもわかっているわよ。だから、大人しく王宮に向かっているんじゃない。」
「当然です。クラウディオ王子殿下の婚約候補者から辞退して、何をしたいのかと思っておりましたが、王妃様のご機嫌を損ねなくて良かったものです。」
公爵令嬢であるシルヴィアに向かって、ずけずけと遠慮無く口を開く侍女のサーラに、シルヴィアは小さく溜息を吐いた。
彼女は幼馴染であり、姉のような存在でもある。本来ならば無礼とも取れる態度をサーラが取れるのは、シルヴィアが今までと同じように接しろ、と命じたからだった。だが、それを後悔させるような説教だ。
「そもそも、皆お嬢様が殿下の妃となると思っていらしたんですよ。それをまさか、ご自分からかなぐり捨てるとは……。まったくもって予想外です。」
これには海より深い訳があるのだ。
しかし、サーラにも本当のことを言うわけにはいかない。
前世の記憶から、第4王子の婚約者となってしまえば、最悪自分は国外追放だなんて言えるはずがなかった。
本当に笑えない話だ。これが冗談ならどんなに良かっただろうか。
しかし、それはもう回避出来た未来のはずだ。少なくとも、現時点では。
「それも、お嬢様。貴女は最近、テオフィール・ベーメル様と逢瀬をなさっているとか。」
「誤解よ。どこからそんな根も葉もない噂話が流れているの。」
「また、先の夜会ではベルンフリート・ホーエンローエ公爵から迫られていらっしゃたとか。」
「周囲の目の錯覚よ。わたしが彼を避けていたことは、サーラが一番知っているでしょう?」
「ええ、知っておりますとも。ですが、心変わりされた可能性もあるかと。」
そのサーラの言葉を、シルヴィアは無いわねと一刀両断する。
心変わり以前に、彼と言葉を交わしただけで鳥肌ものなのだ。誰が好んで自ら近寄るか。
そんな詰問じみた時間を過ごす内に、王宮に到着したらしい。広大な庭園の傍に横付けされた馬車から降り、シルヴィアはドレスを翻した。
その瞬間。
「―――っ!?」
唐突に凄い力で腕を引かれ、シルヴィアは驚きに目を見開いた。何事だ、と言わんばかりに、勢い良くそちらに視線を向ける。
そんなシルヴィアの瞳に映ったのは、太陽光で艶やかに輝く濡れ羽色の髪糸、こちらを強く見据える濃紫の光だった。シルヴィアにとっては、見覚えのありすぎる容貌だ。
思いもよらない人物の登場に、シルヴィアはただ目を瞬かせている。
「………来い。」
彼はそう一言漏らすと、シルヴィアの腕を引きながら白を基調とした回廊を進む。
お茶会の会場まで案内してくれるのかと考えたのは一瞬で、すぐに目的地が違うことを悟ったシルヴィアは、彼に向かって口を開いた。
「殿下、わたしは王妃様に呼ばれております。」
「………だから何だ。」
「王妃様の元へ―――」
「必要ない。」
シルヴィアの言葉をばっさりと切り捨て、黒髪の王子―――ついこの間まで婚約者(候補)だった第4王子は、感情の読めない視線をシルヴィアに向ける。
これだ、クラウディオのこの視線が苦手なのだ。何を考えているか分からない。
シルヴィアは不可解そうにその柳眉を顰めた。何を考えて、この王子はシルヴィアを攫うようにどこかへ連れて行っているのだろうか。
自分はもう彼の婚約候補者ではないのだから、周囲から疑われるような行動は慎んでほしいのだが。
しかし、そんなことを馬鹿正直には言えない。
結局、シルヴィアには黙って彼の後をついて行くしか選択肢は無かった。
そう思っている内にも、クラウディオは一室の扉の前で足を止めた。
そこでやっとシルヴィアはここがどこであるか気付く。王城の中でも上階に位置し、王族やそれに連なる親族しか立ち入りが許されない王族の居住区域だ。
自分のような者がいる場所ではない。そう思ったシルヴィアは掴まれている腕を振り払おうと捻ったが、残念ながらその拘束が外れることはなかった。
「殿下っ、お放しください!」
「今更気付いたところでもう遅い。賢いお前にしては、気付くのが遅かったな。それとも、こういう展開は予想さえしていなかったか?」
どこか嘲笑うかのような響き。無表情が基本で、口調にも抑揚のないはずの彼にしては珍しい変化だった。
それがまさか、自分に向けられるとは思っていなかったが。
呆気に取られるシルヴィアを気にすることなく、クラウディオはシルヴィアを自室に押し込んだ。
どこか批難するようなシルヴィアの視線も、今のクラウディオにとっては些細なものだった。
「ふん、随分と強気だな。」
自身を睨めつけるシルヴィアに、クラウディオもまた傲慢に笑ってみせる。
どうやら目の前の令嬢は、その目にまた自身の嗜虐心が煽られることなど、露ほどにも思っていないらしい。
「では、言い訳を聞こうか。返答次第では母上の元へ案内してやってもいいぞ。」
「何のことでしょう?」
「シラを切るか。それは賢い選択ではないと思うが。」
責めるような眼差しを向けられても、本当に心当たりのないシルヴィアは訝しげに眉を寄せるしか出来なかった。
彼は何を怒っているのだろうか。この国の王子を怒らせるようなことなど、そんな馬鹿なことはした覚えがないのだが。
そう思っている内にも、クラウディオの眉間の皺は増えていく。
「分からないのなら言ってやろう。あの赤毛の男は誰だ?夜会でホーエンローエ卿にも迫られていたらしいな。どういうことか、説明してもらおうか。」
「………え?」
「誤魔化すことはしない方が賢明だと思うぞ。」
「誤魔化すも何も、テオフィールはただの友人のようなものです。ホーエンローエ公爵の言葉は、いつもの社交辞令でしょう。」
「まぁ、あの公爵はそうかもしれないな。だが、赤毛の男とは随分懇意だと聞いたが?」
クラウディオのその言葉に思わず固まる。
そもそも何故、クラウディオがテオフィールの存在を知っているのだろうか。
確かにテオフィールは王都最大のサーカス団の道化師だが、市井の娯楽など興味が無さそうなクラウディオがサーカスに詳しいとは思わない。そんな彼がテオフィールの存在を知る機会など無いはずだ。
もしかしたら、彼の言う赤毛の男とはテオフィールではないかもしれない。しかし、シルヴィアが知る赤毛の男とはテオフィールだけだ。それをシルヴィアに問うて来るのだから、やはりテオフィールだろう。
「殿下がどこで彼の存在をご存知になったのかは分かりませんが、それは殿下には関係の無いことではありませんか?」
婚約者候補を辞退した女が、誰とどうしていようがクラウディオには関係の無いことのはずだ。
普通に考えればそうなのだが、そのシルヴィアの言葉を聞いた瞬間、クラウディオの表情が変わった。
「……関係無い?よくもそうぬけぬけと言えたものだな。シルヴィア・ベルンシュタイン。お前は俺の婚約者だろう。にも関わらず、ああ堂々と浮気をされては流石の俺も黙ってはいないぞ。」
「………………。」
「何だ、お前はああいう男が好みだったのか?だが、残念だったな。お前は既に俺の婚約者。他の男とどうこう出来る立場ではない。」
「で、殿下?わたしは婚約者候補を辞退したはずですが……。」
先ほどから、この目の前の王子は何を言っているのだろうか。
自分は彼の婚約者候補を辞退し、王や王妃からも許可を得た。最早、自分と彼の間には何も無いというのに。
しかし、クラウディオは口角を上げた。
「そんなものは破棄した。それと同時にお前以外の候補も降ろした。お前が俺の妻になるんだ。」
「―――なっ!?」
「おかしいな。ベルンシュタイン卿には伝えたはずだが、お前には伝わっていなかったのか。」
何だ、それは。そんな話は聞いていない。第一、娘命の父だ。王子との婚約が結ばれれば、一番に報告にやって来るだろう。
「さて、お前の問いには答えた。今度は俺の問いに答えてもらおう。」
普段無表情であるはずのクラウディオが、ニヤリと表情を歪めた。
それだけで、シルヴィアの背筋は震える。きっと、この先に来るのは自身にとって良くないことだ。
―――――――――
いつも通り執務室にて公務に励んでいたクラウディオに突然齎されたのは、思いもよらない情報だった。
四大公爵家の一つ、ベルンシュタイン公爵家の末の令嬢が自身の婚約者候補から辞退した、というものだ。
これには、無口で寡黙、加えて常に無表情のクラウディオも驚きに目を見開いた。
「……どういうことだ?」
シルヴィア・ベルンシュタイン。
銀灰色の髪に、碧の瞳を持つ冷艶とした雰囲気を持つ少女だ。その容姿に、《氷姫》と呼ばれるのも頷ける。
そんな彼女は自分の婚約者候補の内の一人だった。王妃である母は彼女を気に入っており、是非ともと彼女を推している。
しかし、クラウディオ自身も妻になるのは彼女だと思っていた。流石は国内トップの公爵令嬢。表向きには優雅な公爵令嬢ぶりだが、頭脳明晰で兵法にも知識を持っているという。これは、一部隊の指揮をしている彼女の兄情報であるため、嘘ではないだろう。
軍の総督であるクラウディオにとっては、非常に興味深い令嬢だった。
それからだ。彼女を意識するようになったのは。
あまり華美なものは好まないが、彼女の姿を見るためだけに夜会に足を運んだりもした。そんな中で、彼女を熱心に見つめるベルンフリート・ホーエンローエを見たこともある。
それでも、もう彼女は自分のものになるのだ。そう安心していた。
そんな矢先のことだ。上記の情報が舞い込んできたのは。まさか、とは思うが、あの令嬢ならそれぐらいのことはやりかねない。
王子が夜会に出席しても興味すら示さず、最低限の交流だけしてそそくさと帰ってしまう令嬢なのだから。
だが、それでも逃がすつもりはなかった。
妻など誰でもいい。誰がなっても皆同じだ。そう思っていたことは覆そう。
シルヴィアほど、自分の関心を寄せた女はいない。あの女は自分の妻にこそ相応しいのだ。
それからのクラウディオの行動は早かった。
婚約者候補全員に破棄を告げ、再びシルヴィアを婚約者に呼び戻した。これは王も王妃も、公爵も了承済みだ。唯一、彼女の意思は聞けていなかったが。
にも関わらず、当の本人は秘密裏に赤毛の男と城下町に行ったりしていているらしい。
一度だけその男と歩いているシルヴィアを見たことがあるが、楽しそうに笑っていた。自分が見たことのない笑顔を見知らぬ男に向ける彼女に、自分でも驚くほど残忍な感情が湧き上がったのは否定しない。
「お前はその赤毛の男と仲が良いみたいだな。だが、俺は愛人の存在は容認しない。さっさと縁を切れ。」
「ですから、テオフィールとはただの昔馴染みです。殿下が思うようなことはありません。」
そう言って強気に見据えてくる紫の瞳に、クラウディオは満足げに喉を鳴らした。
そうだ、この目だ。意思の強そうなこの紫水晶のような輝きを、自分は気に入っているのだ。
だからこそ許せない。他の男の手に渡ることが。
「ならば、諦めて俺の妻になるんだな。ああ、逃げようだなんてことは考えない方がいい。王族としての権力を使ってでも絡め取るからな。」
普段無表情の人が浮かべる不敵な笑みほど怖いものはない。向けられた不穏な笑みに、シルヴィアは背筋を凍らせた。
その視線の奥に、暗い欲望のようなものが混じっていることにも鳥肌が立つ。
この視線を画面越しに見たことがあった。ヒロインに向けられるヤンデレの目だ。
「(どうしよう……、ここで殿下に楯突くのは賢い選択ではないわ。)」
既に婚約が結ばれ、両者の親の承認もある。それでは、流石のシルヴィアにも回避策は浮かばなかった。
そもそも、相手が王族ならば黙って従うしかない。
ここまでか、とシルヴィアは軽く唇を噛み締める。このまま、ヒロインが現れたときにはバッドエンドを迎えてしまうのか。そこまで考えて、シルヴィアはハッとする。
物語ではまだシルヴィア・ベルンシュタインは、第4王子の婚約者候補止まりだった。だからこそ、ヒロインはクラウディオの正妻に治まることが出来たのだ。
しかし、今はシルヴィアにその道が約束されたこととなる。側妻の存在も考えたが、世継ぎの問題がある王太子ならばともかく、その必要が薄い第4王子が側妻を持つことはあまり良いことではない。制度的な問題はないが、民からの世間体の問題だ。やはり王族であっても、一人の妻に一途な方が好感的なのだ。
それならば、クラウディオが伯爵家の娘を側妻として娶る可能性は低い。
「……何を考えている?また俺を出し抜こうとしているのか?」
黙って考え込んでいることに不審感を抱かれたのだろう。訝しげな視線を向けられる。
そのことにシルヴィアは否定するように、首を横に振った。
「いいえ、わたしに企み事などありません。相手が殿下であるならば、わたしはそれに従うのみです。」
「俺が王子だからか。」
「え?」
「俺が王子だからお前は大人しく嫁ぐのか。俺が王子でなければ、お前は俺を切り捨てたのか。」
彼が王子でなければ。きっと、シルヴィアはこの婚約を断っていたかもしれない。
だが、彼の方もシルヴィアが公爵令嬢でなければ、見向きもしなかっただろう。少なくとも、シルヴィア自身はそう思っている。それではお互い様ではないか。
「ふっ、まぁいい。どうせ、もう逃げられないからな。考えるのも無駄だ。」
クラウディオの暗い紫の瞳が鈍く光る。
その視線には確かにシルヴィアの執着の色が見えた。しかし、何故かは分からなかった。
何故、今まで大した関わりの無かったシルヴィアに固着するのか。
「一年後には式も挙げる。それまで、必要ならば俺の部屋に閉じ込めることも不可能ではないんだ。」
「!」
「大人しく一年後を待てば、そんな強硬手段は取らない。すべてはお前次第だ。」
「………そんな必要はありません。殿下がわたしを望んでくださるのであれば、これほど栄誉なことはありません。お心のままに致します。」
「ならば、その取り繕った敬語を止めろ。」
そのクラウディオの言葉に、シルヴィアは驚いたように目を瞬かせた。
「とにかく、これで婚姻の了承は得たことになる。俺の婚約者はお前だけだ。そして、お前の婚約者も俺だけ。他の男にうつつを抜かす余裕など与えない。」
「ですから―――」
「そうだな。お前が浮気した場合は、とりあえず相手の男は殺しに行こう。」
シルヴィアは顔を青褪めさせる。
断じて今のセリフは笑いながら言うものではない。そうだった。この人も漏れなくヤンデレ予備軍なのだ。それも厄介な『独占型ヤンデレ』と言われるものである。
何故それが自分に向けられているのかはよく分からないが、それを発揮させてはいけない。それだけは混乱する頭でも理解していた。
「(……これからどうなるのやら。)」
もうシルヴィアには未来のことなど予想出来なかった。
ある程度の人生設計も色々としていたのに、それもすべて台無しだ。
それでも、少しずつではあるが知っている物語から離れていくことに安堵を覚えた。
この際、クラウディオに身を任せてみるのもアリかもしれない。少なくとも今は、ヒロインの影も見えないのだ。
ヒロインが現れたときのことは、現れてから考えよう。
そう自己完結して、シルヴィアは溜息を吐いた。