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ゴミ袋を体育館裏のゴミ置き場に置いて、教室へ戻る途上。真純のことが気になっていたので、智秀は保健室に寄っていくことにした。
ほとんど清掃時間も終わりに近づいている。ゴミ出しに行く時にはまだ中庭を掃除していた生徒たちの姿が、帰り道にはもう見えなくなっていた。掃除が終わってしばらくすれば、帰りのホームルームが始まってしまう。
急ぎ足で保健室に向かう。
渡り廊下を通り、角を曲がった。そこで、智秀の足はぴたっと止まった。
保健室のドアの前に、女子生徒が立っていた。
平泉瑠璃だった。しばらく廊下の角から盗み見ていたが、彼女は保健室のドアと向き合っているだけで、ドアに手をかけようとはしない。
きっと、赤崎さんに、会いに来たんだ……。
直感で、思った。
靴に画鋲を入れるような、ひどいことをしても、平泉瑠璃の心には、まだ赤崎真純に対する友情が残っているのだ。だから今、ああして保健室まで来ているに違いなかった。
彼女は長い間、突っ立ったまま、進もうとも退こうともしない。入りたいけど入れない。そんな葛藤が、その横顔から見て取れた。
何が彼女を押しとどめているのか、判らない。柏原美里への恐怖心か。
智秀は、思い切って、彼女の方へ歩いて行く。近づいてきた智秀の足音に、彼女は敏感に反応した。
「っ――宇垣くん!」
「平泉さん。赤崎さんに、会いに来たんだろ」
ただ確認するような口調で問いかける。
返ってきたのは、刺々しい声だった。
「……保健室に来る理由なんて、他にもあるのよ。男子には、言えないことよ」
「そうなのか。じゃあ……なにも躊躇わずに入ればいいじゃないか」
敵意にも似た視線が、しばらく無言で向けられていた。しかしやがて、平泉瑠璃は何も言わずにきびすを返し、走り去っていった。
彼女の後ろ姿が廊下の角に消えたのを確認してから、智秀はため息をつきながら保健室のドアを開けた。
「失礼します」
「ん? あら、宇垣くん」
保健室の教諭が、椅子に座ったまま、こちらを見た。
「お見舞いかしら?」
「……まぁ、そんなものです」
教諭のニヤニヤした視線を受けながら、ベッドの方へ向かう。智秀の声が聞こえたのだろう、真純はベッドの上で上体を起こしていた。彼女は智秀を見ると、嬉しそうに言った。
「宇垣くん、会いに来てくれたの?」
「うん、ちょうど通りかかったから。給食たべてないだろうけど、どう、お腹は空いてない?」
そう尋ねると、真純は女性教諭のほうをチラッと見て小さく笑った。
「あれ、なにかあったの?」
「うーん、それは…………ヒミツ! ね、先生」
教諭も同調して「そう、ヒミツヒミツ」と面白そうに言った。何かを隠しているようだったが、あまり深く訊くのもやぼに感じられた。
「宇垣くんこそ、ちゃんと給食たべれた?」
「ああ。僕のほうはしっかり食べたよ。ちょっと急いで食べたから、午後はお腹が痛かったけどね」
真純と話しながら、智秀はホッとした。
よかった。
あんまり暗くなってなくて。
あんなことをされた後なので、深く傷ついているのではないかと、心配していた。しかし、その心配も、どうやら杞憂だったようだ。
ひとまず、胸をなで下ろす。
「宇垣くん。もうそろそろホームルームが始まる時間じゃない?」
真純と話をしていると、教諭が言った。
時計を見る。と、ホームルームまであと3分に迫っていた。多くは話せなかったが、真純の様子を見られただけで、充分だった。
「じゃあ、ホームルーム終わったら、鞄持ってきてあげるから」
「うん……ありがと」
真純に笑いかけて、ドアの方へ歩いていく。保健室を出る時には、しっかりと教諭に「失礼しました」と一声言った。
廊下に出て、後ろ手にドアを閉めて、教室に向かう。廊下や階段には、帰り支度をする生徒たちの喧噪が満ちていた。
その音を聞きながら、一人で階段をのぼっていく。
真純のことを、考えていた。
彼女の元気な姿に、安心した。
けれども、一方で不安にもなった。また明日になったら、今日のような出来事が起きて、あの笑顔が今度こそ崩れるかもしれない。そんな、不安な考えが、脳裏をずっとよぎっている。
確信があった。
きっと、このままではいじめは無くならない。
今日の柏原美里の顔。
真純の姿を見て笑っていた、彼女の冷たい笑顔。
柏原美里はいじめをやめたりしないだろう。真純がもう二度と学校に来られなくなるまで、いじめを続けるだろう。そんな、確信だけがある。
いじめを止める方法――。
宇垣智秀が真純と一緒にいることで、他のクラスメートたちが自然と、いじめを止めようと動き出す。密かに期待していたそんな考えも、今となっては、ただの虚しい妄想だったとしか思えない。
冬園が言った。クラスの中で、宇垣智秀は段々と浮き始めている、と。
彼らはいじめを良しとは思っていないだろう。その認識は間違いではないと思う。けれど、冬園の言葉を聞いて、わかった。
クラスメートは、自分の気持ちよりも、周りの視線を優先させた。
だから、無言のうちに、彼らが動きだしてくれるとはもう思えない。そこまで宇垣智秀は、楽観的にはなれない。
では、どうするべきか。
教師に頼る。それも、方法としては存在する。けれども、大人が介入していじめが無くなったとしても、それは表面上でのみのことだ。クラスメートの気持ちが真純に対して開かれなければ真の解決とは言えない。
それに、もし教師に頼ったら、真純の両親にいじめの件が露呈してしまう危険性もある。それは、真純自身の最も願っていない状況になるということだ。
だから、できることなら、大人の力に頼らずにこのいじめを解決したかった。
――まるで、坂だ。
目の前に、坂があるように思える。高く、ほとんど直角で、壁と言ってもいいような坂。上りきることが不可能な、坂道。
それは目の前に横たわる様々な問題が見せる幻だった。
集団の中にいる安心感。
集団を抜け出す恐怖感。
集団から爪弾きにされる孤独感。
越えなければいけない坂道が、宇垣智秀の眼前にそびえている。迂回路も、逃げ道も、無い。
ただ。
それでも、坂道の先に何があるのかが、ハッキリ見える。真純の笑顔。だからなんとしてでも、この壁を登り切らなければならない。
宇垣智秀は真純に言った。
〝本当はみんな、いじめをダメだと思っている〟
あの言葉を、彼女は信じると言ってくれた。
だから、宇垣智秀も、最後まで自分を貫こう。信じてくれる彼女のためにも。
この坂を――
この壁を――
息をつめて、一気に駆けのぼる。
教室へと続く階段を、智秀は一段飛ばしで駆け上がっていった。




