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夏目先生が保健室に戻ってきた時には、わたしはすっかり泣きやんで、スカートの白い染みをタオルで拭っていた。
「もういいかしら?」
ベッドを囲んでいたカーテンを開けて現れると、夏目先生が言った。先生に答えたのは、わたしじゃなくて、宇垣くんだった。
「はい。ヘンなこと頼んで、すいませんでした」
「や、いいんだけどさ。……そこの彼女が拭き取ってるのは、牛乳よね?」
いたずらっぽい笑顔を浮かべて、夏目先生はわたしのスカートを指さした。
「え……もちろん、そうですけど」
平気な顔で答えた宇垣くんに、先生は腕を組んでつまらなさそうに「うーむ」と唸った。
「もうちょっと恥ずかしがるとか、戸惑うとか、そういうリアクションはできないのかしら。まァ、健全でいいんだけど。ね、赤崎さん」
矛先がわたしに向けられる。
先生の顔をまっすぐ見れなくて、わたしはスカートに視線を落とした。先生が、このスカートの白い斑を何に例えたのか、わたしにはわかっていた。耳たぶが異常に熱く感じる。
夏目先生……。
そんなこと、言わないでよ。
宇垣くんが……いるのに。
先生は「ムフフ」とおじさんぽく笑った。
「ところで、宇垣くん。そろそろ教室に戻らないと、給食たべ損ねちゃうわよ」
宇垣くんは先生の指摘に、時計を見た。
「あ、ホントだ」
彼の視線が、わたしに向けられる。
「じゃあ、赤崎さん。僕、教室に戻るよ」
「あ……うん」
「赤崎さんは、もう放課後までここにいたほうがいい。帰りのホームルーム終わったら、鞄とか持ってきてあげるから」
あの教室には、戻らないほうがいい。
彼の言葉にはそんなメッセージが隠されていた。夏目先生の手前、いじめに関することを、彼は伏せようとしていたようだった。そんな気遣いに胸がくすぐられたような気持ちになる。
「先生」
「ん、あぁ、彼女のこと? いいわよ、放課後までここに寝かせといてあげる」
宇垣くんは軽く先生に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「……宇垣くんがお礼を言うのも、なんだか不思議ねェ」
クックと夏目先生は笑った。
わたしが言うべき言葉を、彼が言ってしまった。たぶん、きっとそれは宇垣くんの優しさゆえのことだ。
「そんなにヘンですか? ……まぁ、いいですけど。じゃ、赤崎さん」
「あ、宇垣くん。あの、ありがと、ね」
彼のしてくれた行為全てに対して、ありがとうを言った。柏原さんに牛乳をかけられてからまだ一時間も経っていないのに、なんだか、一生分を救われたような気がする。
だから、ありがとう。
「――また掃除の時間にでも寄るよ」
そう言うと、最後に先生に一礼して、宇垣くんは保健室を出て行った。
ドアが閉められた後も、彼の去り際に浮かべていた優しい笑顔が、目の中に焼き付いて離れない。
傍に立っていた先生は、ドアの方を見ながらため息をついた。
「さて……と、赤崎さん。そのタオル、もう使い終わった?」
「あ、はい」
言われてタオルを差し出した。もうスカートの染みはほとんど目立たないくらいになっていた。
先生はタオルを受け取ると、流しのほうへ歩いていく。それから、給湯器からお湯を出して、タオルをごしごし洗い始める。
ジャバジャバ、と。シンクに流れ落ちる水の音。
その水音にかぶせるように、先生の声がした。
「それにしても」
「はい」
「宇垣くんって、真面目よねー。下ネタにも引っかからないし」
「……はぁ」
「あなたにすっごく優しいじゃない。なに、赤崎さんと彼って、付き合ってるの?」
「えッ! ち、違いますッ!」
ビックリして声が裏返ってしまった。
いきなりなんてコトを訊いてくるんだろう、と思わずにはいられない。
「あら、そうなの。なんだか、雰囲気だけ見てると、カップルに見えるわよ」
「そんな……」
雰囲気はカップル。そう言われて、ちょっとだけ、嬉しくなった。なぜだか自分でもわからないけど、嬉しくなった。
でも、よく考えてみると、一気に気分が落ち込む。
とてもじゃないけど、宇垣くんとわたしとでは、釣り合いがとれなかった。もちろん、彼のほうが上という意味合いで。
彼はいつも学年で一位の秀才。
かたや、わたしの成績は中の下。
――恋人になるには、身分違いすぎる。
もし付き合えても、長続きしなさそ……。
ブルーな気持ちになってくる。
けれど、さっきまで宇垣くんに抱き締められていた感触を思い出すと、少しだけ気分が晴れた。
どんなニオイがしていてもわたしのことを好き、と。宇垣くんは耳元で言ってくれた。もちろん、彼のあの「好き」が恋愛の「好き」じゃないことぐらい、わかっている。彼は、普通に人として「好き」と言ったんだ。
けど、それで充分なくらいに幸せだった。
柏原さんの言葉に傷ついても、彼が癒してくれた。いきなり抱き締められた時はさすがに驚いたけど、安心できたのも事実だ。
でも。
わたしから宇垣くんに抱きついちゃったのは、
今になって思うと、恥ずかしい……。
泣いていたせいもあるけれど、自分から彼の胸に頬を押し当てたのは、失敗だった。恥ずかしさで死にたくなる。
「ところでぇ」
夏目先生の声に、弾かれたように顔を上げる。
わたしが一人で一喜一憂しているうちに、先生は洗い終えたタオルを保健室の隅にある小さな物干しにかけていた。
その先生が、わたしのほうをニヤニヤした目で見ている。
「赤崎さんって、羊羹って食べれる?」
「ようかん、ですか。好きですけど、どうして?」
「ムッフッフ~」
口もとを手の平で隠して、先生は笑った。そして、壁際に置かれている大きな冷蔵庫から、ラップのかけられた皿を取り出した。
「じゃじゃーん!」
ラップされているのは、立方体の形をした黒いモノだった。
「先生、それってまさか……」
「そ、羊羹。もらいものなんだけどね、いい加減たべないと悪くなっちゃうから、どうせなら一緒に食べましょ」
先生は食器棚から新しく皿を出すと、ようかんを真っ二つにして取り分ける。
「でも……こういうのって、いけないことじゃ」
「いいの、いいの。赤崎さん、給食たべてないんでしょ。だったら、何か食べないといけないわ。だから、せめて羊羹でも食べておくべきよ。保健室の責任者であるわたしが言うんだから、いーの。あ、緑茶も用意するわネ」
るんるん気分で先生はお茶の準備をする。
断れそうにない。
後ろめたさがある。けど、お腹が減っていたのも、本当のことだった。食べ物の話を出されて、急に空腹が襲ってきた。
先生もああ言ってるし。
いいよ、ね?
結局。
わたしはベッドからおりて、近くにあった椅子を机のそばに持って行って、美味しそうなようかんの載った皿の前に座った。
お茶が出されて、二人でようかんを食べ始める。
「ん~、甘くておいしいわぁ」
夏目先生はあまり先生らしくない。こんなふうに、保健室でも生徒に和菓子を食べさせている。一般的な先生から、かなりかけ離れている。
だけど不思議なのは、わたしはそんな夏目先生を、この学校のどの先生よりも、好きになった。
自由な感じがして、子供っぽい。そんな夏目先生といると、保健室が学校の中にあるなんて、嘘に思えた。この学校に、こんな安心できる場所があるなんて。
「赤崎さん、どう?」
「わたしも……すっごく、おいしいです」
口の中に、ようかんの甘さが心地よく広がった。




