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幸い、隣のクラスからコーンコロッケを一つ譲ってもらうことは簡単だった。隣のクラスの担任に事情を説明すると、快く「持って行きなさい」と言ってくれた。
「失礼しました!」
持っていた皿にコロッケを載せると、落とさないよう気をつけながら、廊下に出た。
と、すぐ隣の自分の教室を見ると、担任の教師がドアの前にじっと立っていた。さっきまでどこかへ行っていた担任は、教室に入る様子も無く、キスができるくらい顔をドアに近づけていた。
「戸塚先生」
不思議に思って、声をかけてみる。と、担任は不意を突かれたように驚いてこちらを見た。
「宇垣……」
「どうしたんですか? 教室に入らないんですか?」
「ん、あぁ――その」
曖昧に口を動かすだけで、担任は何も答えようとしなかった。智秀が返事を待っていると、耐えきれなくなったように言った。
「ちょっと、手洗いに行ってくる」
そう言うと、担任はさっさと廊下を歩いていってしまった。逃げるような、駆け足で。
なにしてたんだ、あの先生?
担任の不審な様子がどうにも気になったが、気にせずに自分の教室へ入ることにする。
ドアを開け、一歩踏み込もうとした。
直後
「――――」
その異様な雰囲気に、息が止まった。
ざわついていた。楽しいおしゃべりで、ではない。
クラスにいた全員が、教室の後ろの方を見て、口々に何かを話していた。
その視線の集まる先。
ざわめきの渦中。
「あ……」
すぐにわかった。彼らが見ているのは、赤崎真純だった。彼女は遠目にもわかるほど、髪が白い液体に濡れていた。
真純は俯いていた。そして、彼女のそばに、柏原美里が立っているのが見えた。
「赤崎さん!」
コロッケののった食器を一番近くの生徒の机に置いて、駆け寄る。ざわめきが大きくなる。
「あらら、宇垣クン」
柏原美里は、面白そうな眼をして智秀を見た。その手にあるモノに、智秀はすぐに気づく。
空の牛乳瓶……!
それだけで、全てが把握できた。
「赤崎さん」
真純はチラッとも視線を寄こさず、白いまだらが浮かんでいる自分のスカートを、ただ力なく見下ろしている。呼んでも返事をしてくれない。
智秀は柏原美里を睨む。
「柏原さん……これをやったのは、柏原さんだな」
「事故よ、事故。ちょっとつまずいちゃってね、牛乳かけちゃったの」
悪びれる様子もなく、牛乳瓶を目の高さまで持ち上げて見せる。その、堂々とウソをつく姿に、思わず怒鳴ってしまう。
「何が事故だ! フタまで開いてて、それで事故なわけがない!」
「じゃあ、証明できる? あたしがわざとやった、て。わたしが、わざと赤崎さんに牛乳ぶっかけた、て」
笑い混じりの、挑発。自分がその場に居合わせていなかったことが、腹立たしい。
他の生徒たちは、関わり合いになりたくないような眼で興味津々に真純を見ている。彼らなら、あるいは柏原美里の行為を見ていたかもしれない。
彼女を問い詰めることが、できるかもしれない。
しかし、今はそんなことよりも、優先すべきことがある。
「赤崎さん、保健室行こう」
まずは何よりも、この教室から真純を連れ出すことだった。
真純は立ち上がろうとしなかった。まるで石になってしまったかのように固まっている。痛々しい姿だった。
智秀は真純の片腕を掴むと、強引に立たせて、教室の後ろのドアから廊下へ出る。傍観者たちの話し声と、柏原美里の勝ち誇ったような笑いが、背中に聞こえていた。
廊下に出ると、トイレから戻ってきたらしい、担任教師と鉢合わせた。
「あ――」
担任は智秀と真純を見て、驚いたというよりも、焦ったような顔をした。まるでコレを知っていたというような。
まさか――。
さっき教室に入らなかったのは、
ドアの隙間から、中を見ていたからか!?
予感がよぎった。
さきほどの担任の、不審な行動の理由。それは、ひょっとしたら、真純が牛乳を浴びせられたのを見て、教室に入ろうにも入れなかったからかもしれない。
あの場面に担任として立ち会えば、もう「知らない」と言って責任から逃れることはできなかったはずだ。
胸の奥で、担任に対する憤怒の炎が生じた。
「あ、赤崎は、どうしたんだ?」
緊張した様子で、問いかけてくる。しかし、丁寧に答えることもせず、智秀は一言だけ。
「保健室に連れて行きます」
「そ、そうか……」
担任が曖昧に頷くのを確認してから、真純の腕を掴んだまま歩き出す。真純は顔を俯かせたまま、引っ張られるままについてくる。その足取りは弱々しく、小さな石ころにでもつまづいて転んでしまいそうだった。
「階段、気をつけて降りようね」
すでに他のクラスは給食を食べ始めていた。廊下に溢れた各教室の賑やかさが壁や床に反響して、うるさいくらいだった。
そのうるささが、今は遠い。
まるで真純と二人きりで、世界と隔絶されたような気分だった。
「失礼します」
ノックして保健室に入る。
自分の机で弁当を食べていた保健室の女性教諭は驚いた顔をして真純を見た。
「どうしたの彼女?」
すぐに箸を置いて口に入っていたものを全て飲み込むと、教諭は椅子を立ち、真純の前まで歩み寄ってきた。
「その……赤崎さん、牛乳をかぶっちゃったらしくて」
「えっ、じゃあ、すぐに拭かないと。とりあえず……そうね、そこのベッドに座ってて」
「はい」
智秀は真純の腕を引いて、カーテンで囲める真っ白のベッドに彼女を座らせた。ベッドは全て空いていて、他の保健室利用者はいなかった。
「それにしても、どうして牛乳なんかかぶったの?」
古いタイプの給湯器を操作して、お湯をシンクに流しながら保健室教諭が訊いてきた。
「……ちょっと、事故で」
「ふーん、事故、ね」
タオルをお湯で濡らし、きつく絞ると、教諭はそれを持ってきて真純に差し出した。
「これで拭きなさい」
真純は自分の膝に視線を落としたまま、何も答えず、タオルを受け取ろうともしなかった。
「先生」
智秀が教諭に眼で合図した。先生が拭いてあげてください、と。
「ん? ……ああ、そーいうことね」
教諭は頷いて、智秀にタオルを渡した。
目が点になる。
「え」
「きみが拭いてあげるんでしょ」
「ハ? あ――はい」
完全に誤解だったのだが、肯定した。
タオルを返すと、真純に触れたくないと思っているように、真純自身の目に映ってしまいそうだったからだ。
ただでさえあんなことをされた後なのだから、真純にはいつも以上に優しく接してあげなければいけない。
智秀はベッドに腰掛けている真純の前に立つ。彼女を見下ろしながら、
「じゃあ……赤崎さん、失礼」
タオルを広げ、頭頂部をすっぽり包むように被せた。人の髪を拭いた経験など無かったから、力加減に気をかなり遣いながら、髪の毛に付着した牛乳を拭う。
しばらく、そうして彼女の頭を拭いていると、
「―――っ、く」
真純の肩が震え始めた。タオルで顔が隠れているので見えないが、泣いているようだった。教諭もそれに気づいたはずだ。
「先生……」
「うん?」
「すみませんが、ちょっと外してもらえますか」
ふぅ、というため息が聞こえた。
「じゃあ、わたしは職員室で食べてくるわ」
「……ありがとうございます」
「あんまりヘンなことしたらダメよ」
茶化すようで、どこか「ガンバレ」と元気付けてくれるような口調だった。
教諭は智秀と真純のいるベッド周辺をカーテンで仕切って、保健室から出て行った。
ドアの開く音。そして、閉まる音がカーテン越しに聞こえると、保健室で真純と二人きりになった。
彼女は、もう肩どころか、体中を震わせていた。できるだけ洩らさぬようにつとめているらしいが、その嗚咽はさっきよりも大きく聞こえている。
「夏服でよかったね。あんまり、牛乳の白が目立たないよ。スカートも、洗濯すれば大丈夫だよ、きっと」
髪を拭きながら、言った。それぐらいしか、言葉が見つからなかった。わざわざ二人だけの場所にしてもらったのに、いざとなると、どう慰めてあげればいいのか判らなかった。
歯痒さを感じながら、無言のまま、彼女の髪を優しく包むように拭く。
「――こんなもんかな」
充分なところで、タオルを真純の首周りに回した。彼女の髪はすっかり元通りの黒色に戻っていた。
「髪の毛には、もう牛乳ついてないよ。あとは、どこか拭いて欲しいところ、ある?」
顔を俯けている真純に、優しく問う。
彼女はまだ泣いていた。
どうしよう……。
泣いているばかりで、一言も口にしないので、いよいよ困った。その時だった。
「ごめん……なさい」
嗚咽の合間を縫うように、彼女はポツリと呟いた。
「どうして、赤崎さんが謝るんだ? 赤崎さんは何も悪いことはしてな」
「宇垣くん、に」
彼女の声が遮った。耳を澄まさなければ、この保健室の静寂の中でも、聞き逃してしまうような声だった。
智秀は聴くことに集中する。
「宇垣くんに、迷惑、たくさんかけてる、から」
「迷惑?」
「――わたしと、いっしょにいて、迷惑、でしょ」
すぐに答える。
「迷惑だなんて、思ってないよ」
「うそッ!」
叫ぶように、真純は呟いた。
「うそだよ、そんなの……だって、だって」
「だって?」
「―――――わたし、いま、牛乳くさいし」
ふと智秀は笑った。
「赤崎さん。赤崎さんは、牛乳くさくなんてないよ」
「……無理しないで、いいよ。ホントは、こうやってわたしといるのも、嫌なんでしょ」
頑なな彼女の姿勢に、言葉を失う。すでに言葉は赤崎真純に届かないのかもしれなかった。
だから、智秀は
「え……!」
真純の肩を抱き寄せた。
「あ、う、宇垣くん!?」
驚きの声がすぐ耳元で聞こえる。真純の顔は、今、宇垣智秀の頭と隣り合っていた。
「なに、なんで、こんな……」
真純は困惑していたが、離れようとはしなかった。智秀の両手が、彼女の脇の下をくぐって、背中に添えられている。触れるか触れないか、という僅かな強さで、真純を包んでいる。
「あ、だめ、そんなに顔近づけたら、くさいよ!」
思い出したように真純の両手がお互いの体の間に割り込んできて、引き離そうとする。けれど、その力は弱い。
彼女の全身から立ち上る、鼻孔をくすぐる甘い匂いに、智秀は小さく笑って見せた。
「いい匂いしか、しないよ」
「え……」
「全然、くさくなんてない。赤崎さんからは、いい匂いしかしない。だから、牛乳かぶったくらいで、そんなに落ち込まなくても大丈夫だよ」
赤崎真純は、暖かくて、柔らかい。抱き締めているだけで、優しい気持ちになれた。
「それに、赤崎さんから牛乳のにおいがしてても、僕は赤崎さんのこと、好きだよ」
「―――」
牛乳が下着にまで染み込んだのだろう。彼女の背中に回した指先に湿っぽい感触があった。
「赤崎さんは、僕の言うこと、信じられない?」
体を離して、真純の顔を正面に捉える。真純は目尻から涙を幾重にもこぼしていて、その跡が頬にくっきり浮かんでいた。
その顔が、ほんのわずかに横に振られた。
「ううん……」
真純は両目を力一杯つぶって、堰が切れたように、声をあげて泣き出した。
そして、今度は、彼女の方から抱きついてきた。




