6
聖堂内の電灯は全て灯っていなかった。天井から吊るされた、ロウソクを象った電球をのせた小さな丸いシャンデリアの灯も消えていた。
それでも、聖堂内には、歩いたりする分には不自由の無い程度の明るさが満ちていた。屋外の街灯や家々の明かりなどが、ステンドグラスを通ってきているので、全くの暗がりではない。
薄暗く、自分の足音以外には物音のない静かな聖堂。不気味とは思わなかった。かえって今は、その静謐さが心地良い。
叶の言ったとおり、宇垣智秀以外の者は誰もいない。
祭壇に一番近い、最前列の長椅子に腰掛ける。そこが一番光の当たっている、明るい場所だった。
椅子に座ってしばらくすると、後ろのほうから、ドアの閉まる音が聞こえた。
振り返ると、青樹叶の姿が暗闇の中にぼんやりと見えた。
「お待たせ」
彼女は椅子と椅子の間を歩いてきて、宇垣智秀の隣に腰掛けた。
「叶さん……」
ステンドグラスを通過してきた弱々しい光に照らされているせいで、彼女のほほ笑みは暗闇の中にぼんやりと浮かんでいて神秘的に見えた。
「それで。今日はどうしたの?」
顔を向けて、叶はこちらを見てくる。
反射的に、その暖かい笑顔から視線を外した。
「あ……えっと――」
視線を自分の足下に落としたまま口ごもる。いきなり正直に「ロザリオを奪われました」とは、とてもではないが、言えなかった。
ちらっと横目で、叶を見てみる。
「うん?」
小首をかしげて、彼女は宇垣智秀の返事を待っていた。
優しいほほ笑みが――
澄んだキレイな瞳が――
じっと向けられている。
青樹叶は、嫌な顔を一つも見せていない。こんな非常識な時間に訪れても、こうして宇垣智秀の話を聴こうとしてくれている。
以前、叶は言った。自分が宇垣智秀の助けになれているのなら嬉しい、と。あの言葉は社交辞令ではなく、本心からの物だったと、今でも確信できる。
青樹叶は、優しく、明晰で、清らかな女性だ。
昨日の冬園の話ではないが、宇垣智秀にとって、青樹叶は〝神〟のような存在だった。宇垣智秀は畏れ敬いつつも、その力に頼っている。
僕は――なんて物を喪ったんだ。
あのロザリオは宇垣智秀には過ぎたる物、と。
彼女を前にして、より一層、そう痛感した。
だから、涙が溢れてきた。
「え――!?」
智秀の頬を伝う雫を見て、叶が驚いた。
「どうしたの、悲しいことがあったの?」
答えられない。口を開けば、嗚咽を洩らしてしまいそうだった。
唇を一文字に結んだままでいると、叶が肩を寄せてきた。肩に腕が回されて、眼鏡が外されたかと思えば、次に頬に柔らかな感触があった。宇垣智秀の肩を抱きながら、叶が自分のブラウスの袖で涙を拭ってくれていた。
嗚咽をできるだけ押し殺して、口を開く。
「ごめんなさい、叶さん――僕は、叶さんの」
そこまで言ったところで、嗚咽のために声が出なくなった。それでも、叶は子供をあやすように、穏やかな声で言ってくれる。
「うん、大丈夫。ゆっくりでいいから。大丈夫よ」
「叶さん――僕は」
言葉が途切れそうになるのを、なんとか押さえ込み、
「僕は、叶さんからもらった、ロザリオを、父に取り上げられました」
「え」
ぴたっと、涙を拭いていた叶の手が止まった。
怒らせた。
「ごめんなさい……叶さん」
目をつぶって、心から謝った。目の奥が燃えるように熱い。彼女への申し訳なさと、自分の不甲斐なさとに、涙が止まらない。
瞼に押し出されるようにして、瞳を厚く覆っていた雫が一気に頬をこぼれ落ちていった。それでも目は開けられない。青樹叶の顔を見るのが恐かった。
「お父さんに、取られちゃったの?」
感情の読めない、抑揚の無い声で問われた。
「はい……」
「そのことを、わざわざ言いに?」
「はい……」
答えてから、長い沈黙があった。
静まりかえった聖堂。頭蓋骨の内側で、かみ殺した嗚咽が反響していた。
そして、叶が息を吸ったのを耳で感じ取った。
「智秀くんは、謙虚で、いい子ね」
耳を疑いたくなるほどの、優しい声音だった。
「えっ……?」
驚いて目を開けようとしたのと、体が前に引き倒され、顔全体に布の感触が押しつけられたのとは、全くの同時だった。
鼻孔を甘い匂いがくすぐる。
眼鏡をかけていない目を開けると、視界いっぱいに白色が広がっていた。彼女のブラウスの、白。
宇垣智秀は、叶の胸元に顔を押しつけていた。自分の意志によるものではなく、背中と後頭部に回された彼女自身の手によるものだった。
「か、叶さん……!?」
鼻の頭が、服の上から彼女の豊満な胸の間に埋まっていた。頬にはそのバストの柔らかい感触。
顔を離そうと体を後ろへ引いたが、叶が回している両腕にしっかりと抱き締めていたので、不可能だった。
未体験の女性の柔らかさと香りに智秀の頭が真っ白になる。
「いいのよ」
すぐ頭上に、叶の声が聞こえた。
「謝らなくても、いいのよ」
その声に、恐る恐る、視線を上げる。
「……叶さん。怒って、ないんですか?」
「ええ」
嬉しそうにさえ、叶が答える。
「智秀くんは、あのロザリオをいつも持っていてくれたのよね」
「はい……いつも、学校の制服の、胸ポケットに」
そう、と叶は頷いて、
「あのロザリオは、あなたの助けになった?」
「も、もちろんです。クラスの、いじめられてる女子の味方になるって決めた後、何度も挫けそうになりましたけど、その度に叶さんのロザリオが、助けてくれました」
いつの間にか、涙も嗚咽も止まっていた。
不思議だった。こうして抱き締められているだけなのに、心が穏やかになっていく。嵐に荒れていた湖が、静かになっていくように。
「そう言ってもらえるだけで、もう充分よ。わたしのいない場所で、わたしがあなたを助けていた――それで幸せ。だから、怒ることなんて何も無いの。それにね、智秀くん、ロザリオはあれ一つじゃないんだから。そんなに悲しまなくてもいいのよ」
「けど……」
彼女の胸に顔を押しつけたまま、首を横に振った。頬がブラウスの生地を擦った。
「叶さんからもらった、ロザリオなんですよ。あれは、世界にたった一つだけのロザリオなんです」
それを、奪われてしまった。
なにも父親と母親だけのせいではない。これには宇垣智秀にも、非がある。制服のポケットではなく、机の引き出しなどに隠しておけば、ひょっとすると見つからなかったかもしれないからだ。
「僕が――もっと、上手にやっていれば」
叶の手の平が、後頭部をそっと撫でた。
「じゃあ、新しいロザリオ、あげるわ」
「ホ、ホントですか!? あ――でも、また同じようなことになったら、僕はもう叶さんに合わせる顔がありません……」
「大丈夫よ」
笑いながら、彼女は言った。
「今度のロザリオは、無くならないわ」
「え?」
叶の両腕が外されたような感覚がして、ゆっくりと顔を離した。
彼女はほほ笑んでいたが、ふと、恥ずかしそうに目を伏せた。
「ねぇ、もう一度、聞かせて」
「……何をですか?」
「わたしのことを、信じているかどうか」
至近距離で視線が交わる。
叶の瞳は、恥ずかしがっていながらも、どこか真剣だった。
「――信じてます。僕は叶さんを、信じています」
神様に誓うように、彼女の双眸を見返して言った。
彼女は「うん」と静かに頷いた。
「じゃあ、ロザリオをあげるわ。智秀くん、目をギュッと閉じて」
「え……?」
「いいから。目を閉じて」
ロザリオを受け渡すだけで、なぜ目を閉じなければいけないのだろう。不思議に思ったが、彼女の言うとおりに、瞼を閉じた。
ややあって、額にかかっていた前髪が、彼女の手でどけられた感覚があった。
そして、額の中央に、柔らかくも湿っぽい何かが触れた。その時に、驚いてつい目を開けてしまった。
眼前にあったのは、青樹叶の喉元だった。そして、彼女の顔は、ありえないほど宇垣智秀の額に近づいていた。
それで、理解した。
叶が自らの唇を、宇垣智秀の額に触れさせていたことに。
「ええぇ!?」
反射的に体を後ろへそらせた。
叶は恥ずかしそうに瞳を伏せていた。
「か、か、叶さん、今のって……まさか」
「――うん。そうよ。智秀くんのおでこに、キス、したの」
恥じらうように言った叶。
言われた智秀の顔が、ひどく熱くなる。
「ロザリオとキスがどう関係してるんですか!?」
「その、ね。智秀くんは、知らないだろうけど……」
叶は目を伏せたままで説明する。
「キリスト教では、信者になる時、頭に水を注いでもらうの。洗礼って言うんだけど。そうしてもらうことで、神の霊がその人に与えられて、それまでの罪が許され、新しい人に生まれ変わるの。つまり、洗礼っていう儀式は、神の恵みを与えてもらって、神と一緒に生きるようになることなのよ」
「……それが、今のキスと、どういう関係があるんですか」
顔の熱さを感じながら、問いかけた。
叶は歯切れも悪く答える。
「その……なんとなく、似てるでしょう。ほら。頭に水を注ぐのと、おでこにキスをするのって」
「―――――――」
キテレツな返答に、絶句する。
慌てたふうに叶が「だからね」と説明を付け加えようとする。
「わたしは、智秀くんに、いつも一緒にいるっていう証拠をあげたかったの。ロザリオみたいな物じゃない、目に見えない証を」
「あ」
そういうことか、と納得する。
ロザリオに触れなくても、彼女の存在を身近に感じていられるようにする。それが、彼女が与えようとした、新しいロザリオ――誰にも見えない、触れられない、無くならない十字架。
「それにね、智秀くん。ロザリオっていうのは、それ自体は全く神聖視されるべきものじゃないのよ。ロザリオは、神に心を向けるために用いる、ただの道具」
愛おしい物に触れるように、叶の右手が宇垣智秀の額に当てられた。
「一番大切なことは、いつも神が見守っていてくださると信じることよ。智秀くんの場合なら、いつでもわたしが傍にいるって思うこと。ここにキスをされたことを思い出しながら、ね」
そこで叶は、イタズラっぽく笑った。
「それとも……智秀くんは、こんなこと、すぐに忘れちゃう?」
「ま、まさか!!」
心臓の鼓動が、まだうるさい。
こんなにドキドキしてるのに、
忘れるなんてことできないよ。
意地悪を言われたような気分だった。
仕返し半分で、言い返してみる。
「叶さんは……こんなふうに、人にキスすること、よくあるんですか?」
「ひどいわね」
少しだけ悲しそうな顔をして、叶は頬を膨らませた。
「キスしたの、あなたが初めてよ」
智秀は両耳まで熱くなった。




