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「ハァ―――」
塾に着き、自分の席に座った途端に、宇垣智秀の口からため息が出た。
気分が暗い。
学校の帰り道、真純は終始笑顔だった。それを見ているのが、心苦しくてしょうがなかった。靴の中に何も入っていなかったことで喜んでいた赤崎真純。
本当は、違う。
画鋲は入れられていたのだ。友達だった、平泉瑠璃によって。宇垣智秀が事前に取り除いただけで、いじめが全く無かったわけではない。
その真実を知らないままに喜ぶ真純の姿が、見ていて痛々しかった。
だからって、本当のコトを教えるわけにも……。
画鋲が入っていたこと。そして、平泉瑠璃がそれをしていたこと。これを赤崎真純に、敢えて教えずにしておいた。
自分のあの選択が、彼女にとって、本当に良いものだったのか。今になって不安になってくる。真実を隠していたのは、彼女を傷つけることが嫌だったから。しかし、それで問題が解決するかどうか……。
僕は恐くて、逃げたんだ。
赤崎さんがまた泣くのが、恐くて。
言うべきことを言わずに――。
自責の念が這い上がってくる。
と、
「宇垣ィ!」
冬園の声が聞こえた直後。
後頭部に衝撃が走り、思わず身体が前のめりになった。見なくても、わかる。冬園元が背後からラリアットを喰らわせてきたのだ。
「冬園、いきなりどういうつもりだ!」
頭をさすりながら、いつの間にかすぐ横に立っていた冬園に抗議する。しかし、彼は悪びれた様子も見せず、口を尖らせた。
「そりゃこっちのセリフだ。宇垣こそ、どういうつもりなんだよ」
「……は?」
どうやら冬園も怒っているだった。
が、なぜ怒られているのかわからない。何か彼の逆鱗に触れるようなことをしただろうか。
四月に給食のけんちん汁を机にこぼしたことをまだ根に持っているのか、と不安に思っていると、
「メールの返事をなんで返さなかったんだァ!」
「……メール?」
大仰に冬園は「そうだ」と頷いた。
思わず、智秀はまたため息を吐き出した。そんなことぐらいでなぜラリアットを喰らわねばならないのか。怒るのを通り越して呆れる。
「ああ、ごめん。ケータイ、親に取り上げられちゃってて。使えないんだ、今。それで、用件はなんだったの?」
「今回の予習範囲!」
またため息。
冬園元という男は、授業の最後に先生に言われる次回の予習範囲を、毎週訊いてくるのだ。いつもなら塾がある日の学校で尋ねられるのだが、そういえば、今日は訊いてきていなかった。
この塾では、クラスが別々でも授業の進度は一律なので、予習範囲もだいたい同じだ。だから、冬園は「宇垣に訊けばいいや」という考え方をしてしまっている。
智秀はしかたなく、机の上に置いていたテキストを開いて、冬園に見せた。
「今日の範囲は――」
教えてあげようとすると、冬園は両手を合わせた。
「ああ、もう時間が無い。頼む、お前のノート写させてくれ!」
「ええぇ、それはダメだろ」
「いいじゃねーか、友達だろ、俺たち、な!」
とびきりの笑顔を浮かべて見せる冬園。
――でも、
ケータイ使えないことを教えてなかったから、
ちょっと悪い気がするなぁ。
今回は、自分にも非があるかもしれない。そう思って、しかたなく冬園にノートを渡す。
「ホントは自分でやるもんだよ?」
「オゥ、センキュー、渋谷いちまるきゅー! さっそく写させてもらうぜ」
冬園はひったくるようにノートを受け取ると、教室を飛び出ていった。嵐のように騒がしい男だ。
授業開始五分前になったら、ノートを返してもらいに行こう。
そう決めたところで、背後から別の声がかかった。
「あーらら、冬園くん、また予習忘れちゃったの?」
振り返ると、見知った少女がいた。同じ学年で、他校に通っている若町思重だ。
「ほんっと、冬園くんって進歩しないねー」
なかなか酷い言いようだが、本当のことなので庇うまい。
「若町さんは、冬園と同じクラスだったよね。どうしてここに?」
「んー、暇つぶし。どうせあの教室にいたって話し相手いないし」
若町思重は、この塾に同じ中学の人がいない。そのせいで、話し相手がいないのだ。
「冬園としゃべったら?」
「ああ、彼はイヤ。なんか挑発してくるし」
「……そっか」
冬園元とこの若町思重は、なぜだか知らないが、仲が悪い。深刻な険悪関係というわけではないけれど、なにかにつけて口喧嘩をしている。見ている側としては、ほほ笑ましい程度のケンカだ。
たしか、去年は〝目玉焼きに何をかけるか〟で大揉めした気がする。
「でも、冬園くんって、宇垣くんがいなかったら、きっと今ごろ塾から追放されてるわよ」
「そこまで言う」
大げさな言い方に、思わず笑ってしまう。
「ホントのことよ。予習範囲を毎回のように聞き逃すなんて、そうとうのアホよ。予習してなかったら、先生の心証も悪くなるし」
この塾では、授業の前に生徒が予習をしているのかを講師が毎回チェックする。当然、予習をしていなければ、怒られる。冬園が予習を少しでもやってあるように見せようとするのは、そういう理由があってのことだ。
「冬園くんは幸せよねー、宇垣くんを友達に持って」
「……それは、僕が便利な友達ってことかな」
「うーん、それもあるけど。宇垣くんって、ほら、変な話だけど、時々女の子よりもかわいいじゃない。だからビジュアル的にも申し分ないって意味もあるわ。もちろん、攻めが冬園くんネ!」
時々、この人はワケのわからないことを言う。
女の子よりもかわいいって……。
本当に、変な話だ。
「僕は正真正銘の男だよ」
「知ってる」
思重はケタケタ笑った。
それからしばらく若町思重としゃべっているうちに、授業が始まる五分前になった。
教室に戻る思重について、ノートを取り返しにいくために冬園のところまで行くと、案の定、冬園はノートを手放そうとしなかった。
「お前、俺はまだ写し終えてねーんだぞ!」
「知らないってば、そんなの。僕だってそのノート無いと困るんだ」
「ああ、ったく、マジで切れる五分前だぜ! エム・ケー・ファイブ!」
そんなこんなで、結局、冬園からノートを取り戻した時には、授業開始一分前になっていた。
ちなみに、冬園は半分ほど写しただけだった。




