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真純の涙が止まり、ようやく普通に話せるようになった頃には、下校完了時刻まであと十分という時間になっていた。
「先生を待ってたら時間過ぎちゃうな、これは」
「ごめん……わたしの、せいで」
泣き腫らした眼の真純が、申し訳なさそうな口調で言う。
「宇垣くん、消毒なんてしなくてもどうってことないから、もう今日は帰ってもいいと思うんだけど……」
「でも、画鋲が刺さったんだよ? 壁に穴開けるような針がだよ? そのままにしておいたら、不衛生でしょ」
「それは……まぁ、そうかもしれないけど……」
真純も否定はできないようだった。
保健室の先生は、いない。
けれども消毒用の道具は一式揃っている。
僕でも消毒くらいはできるな。
消毒のための道具が入っている、キャスター付きラックを真純のすぐ横に移動させる。その様子を彼女は不思議そうに見ていた。
「う、宇垣くん、なにするの?」
「僕が消毒する」
一瞬の沈黙があって
「え――ええぇっ!?」
彼女の驚きなど無視して、彼女の目の前に片膝をつく。
「宇垣くんが、わたしの、あ、足を消毒って、ええ!?」
「そんなに驚かなくてもいいでしょ。僕だって、消毒の仕方くらい知ってるよ」
「そ、そこじゃなくって!」
彼女の足下に跪いたまま、その顔を見上げる。
この体勢は……女王と召使いみたいだな、まるで。
真純は不思議なぐらい、顔を赤くしていた。
「だって、消毒って、触るんでしょ……?」
「うん。じゃないと消毒できないよ」
「そんな、の――」
もごもご口ごもる真純。彼女は恥ずかしそうに顔を俯かせて、自分の胸元に視線を落としている。
なんでそんなに恥ずかしがるんだろ?
顔を真っ赤にしている真純の様子に、疑問を抱かずにはいられない。けどそれよりも、なによりも、時計が気になっていた。
「ほら、時間無いから。足見せて」
要求する。
と、真純はスカートの裾を押さえた。
「スカート……」
「え?」
「スカートの中、見えちゃうよ……」
一瞬、どうしてスカートの内側が見えるだろう、と考えて、すぐに納得した。たしかに、今の立ち位置で脚を上げられたら、ひょっとするとスカートの内側が見えてしまうかもしれなかった。
「でも、女子ってスカートの下に体操服の……ええっと、クォーターパンツ、履いてるんじゃないの?」
無駄な知識を冬園からもらっている宇垣智秀だった。
「そっ、それでも、見られるのはヤなの!」
真純は断固として反対する。
けれど、画鋲が刺さった場所をそのままにしておくと、後々悪化しそうで恐い。破傷風という病気にかかるのではないだろうか、と心配してしまう。
時間が無い。
どうすれば彼女が納得してくれるか。
必至に考えて、その末に――
「じゃあ眼鏡取るよ。それなら、スカートの中は見えない。僕、視力悪いから。それならいいでしょ」
「そ、そんなので……」
彼女が承諾するかどうかの前に、智秀は早々に眼鏡を外して、上着の胸ポケットに差し込んだ。一気に視界がぼやける。
ホントは外したくないんだけど。
この場合、しょうがないか……。
彼女の顔を見上げた。
すると、真純は「あ」と声をもらした。驚いたような声だった。何に驚いたのかは、見当がつく。
「目つき、悪いでしょ」
苦笑い混じりに言う。
「あんまり良い人相にならないから、できるだけ人前では眼鏡外したくないんだよね」
「そう……なんだ」
心ここにあらずな、気の抜けた返事だった。あまりの驚きに声も出ないというような感じだ。
そんなに僕の裸眼は恐いのかな?
……軽くショックだ。
さっさと終わらせよう。
智秀は床につけていない方の膝をポンと叩いた。
「はい、靴下脱いで、ここにのせて」
「……う、うん」
とうとう観念したらしい。真純は右足をスリッパから引き抜き、履いていた白いソックスを脱いだ。
そして、
「お願い、します……」
裸足になった右足を、おずおずと智秀の膝にのせた。
足の裏の全面がよく見える。けれども、眼鏡を外しているせいで、この近距離にあっても画鋲の作った傷は見つからない。
やむを得ず、智秀は眼前にある彼女の右足の踵を持って、目の前まで足の裏を持ってきた。そうすれば、彼女の足の裏がクッキリと輪郭を伴って見えた。
「わ、わ! なに、なに、なにしてるのぉ!?」
悲鳴を上げた真純に、智秀は彼女の足の裏をじっと凝視したままで答える。
「や、眼鏡外したら、あんまり見えなくて。こうしないとよく見えないんだ」
「で、でも、だからって……こんなの」
真純は自分の顔を両手で覆った。その指と指の隙間に、彼女の瞳が見える。しかし、その表情はぼやけていて、確認できない。智秀は彼女の足を見ることに集中する。
小さくて、かわいい足だ。魚の目やひび割れなどが一つも無い、滑らかな質感の、少女の足の裏だ。
「画鋲が刺さったのは、どのあたり?」
「う……中指の、付け根のちょっと下あたり」
彼女の証言をもとに、視線をそこへ向ける。範囲が絞られたとは言え、探すのは針の先ほどの小さな傷だ。少なからず時間がかかる。
じっと智秀が傷跡を眼で探しているうちに、真純が両脚の太腿あたりを落ち着きなく擦り合わせ始めた。
「ねぇ、宇垣くん……わたしの足、ヘンな匂いしない?」
「ん、全然しないよ。どうして?」
「どうしてって、気になるからに決まってるじゃん。他の人が、そんな風に顔を近づけてるんだから」
智秀は嗅覚に意識を集中させてみた。言われてみれば、靴下に特有の、汗の立ちこめるような臭気が僅かながら漂っている。けれども、それはクサイというほどではない。彼女の思い過ごしだろう。
そうこうしているうちに、智秀は不自然なところを彼女の足の裏に見つけた。それは予想通りの、微々たる穴だった。
「これだな……よし」
彼女の右足を、膝の上に戻す。
ようやく見つかったことに、真純はホッとしたように尋ねてくる
「あったの?」
「うん。そのラックから、消毒液とティッシュ取って」
真純から二つを手渡してもらう。
ティッシュを四つ折りにして、傷のすぐ下あたりに当てる。
「ちょっと染みるよ」
言って、消毒液の三滴を傷口に落とした。
直後、真純は「んッ」と喉を鳴らして、身体を一度だけ僅かに震えさせた。やはり染みたらしい。
足の裏を伝って垂れる液を、ティッシュで受け止める。それから傷口に残留しているものを優しく拭き取った。
「あとは、絆創膏だね。四角い絆創膏ある?」
「四角いの……あ、うん。あるよ。ハイ」
刺し傷用の、ちょっとした絆創膏をもらって、それを傷に被せて貼った。
これで終わり……だな。
ふう、と智秀が一息ついた。
まさにその時、ドアの開く音がして、
「女王様プレイ?」
――第三者の声が保健室内に響いた。
ギョッとして、声のしたドアの方を真純と同時に振り返った。そこには、白衣姿の女性が立っていた。保健室担当の教諭だった。
「夏目先生……なんですか、女王様プレイって」
「あらやだ、知らないの? 最近の男子中学生にしてはウブね」
保健室の先生は、ドアを閉めて、スリッパを鳴らしながら歩いてくる。
この先生は、容姿が若々しく、はすっぱな話し方をすることで有名だ。頭の硬い先生が多いこの中学校では、珍しい種類の人だ。
そのせいもあってか、女子生徒から人気がある。
また、一部の男子生徒からも絶大な支持を得ている。
男子の誰かが「あの先生にヒールで踏まれたい」と口にしているのを聞いたことがある。どういう意味なのかはサッパリわからないが。
「そんな格好してたら、誰だって、ヘンなことしてるように思うわよ」
「ち、違いますッ!」
真純が否定して、サッと足を引いた。
「わたし、足を怪我しちゃって……それで、先生を待ってたんですけど、いつまでも来られないから……」
「ふむふむ。なーるほどね。で、宇垣くんは?」
視線が向けられる。
「僕は赤崎さんの付き添いです。すいません。勝手に消毒薬とティッシュを使わせてもらいました」
「あー、そんなの別にいいわよ。あ、でも一応、そこの紙に怪我人の名前とかクラスとか書いておいてちょうだい」
乱雑に物が置かれた先生の机が指さされた。
立ち上がって、眼鏡をかけて見てみると、『保健室利用者名簿』と表紙に書かれた帳簿がポンと置いてあった。
「あ、宇垣くん、それならわたしが……」
「いいよ。僕が書いておくから。赤崎さんは座ってて」
椅子から立ち上がろうする真純を制し、帳簿を開いた。空白の記入欄を埋めていく。
「赤崎さんって、主席番号、何番だった?」
ちらっと彼女の方を見て尋ねる。
「二十二番」
真純は膝を折り曲げ、靴下を履きながら答えた。
「ふぅーん、怪我したのは足の裏なのね。しかも、下駄箱で刺し傷……。彼女、なにやったの?」
〝怪我の種類と部位〟という欄を記入したところで、脇に立っていた先生が両腕を組んで不思議そうに言った。
「あ、それは……その」
真純がしどろもどろに、なんとか答えようとする。彼女の性格からして、おそらくウソを言おうとしているようだったが、智秀はそんなふうにごまかそうとは思っていなかった。
「画鋲が落ちていたんですよ」
「う、宇垣くん!」
非難するような真純の声が飛んできた。
「いいじゃないか。ホントのことなんだから」
堂々と言い返した。
「下駄箱にたまたま転がっていた画鋲を、赤崎さんが踏んだんですよ、先生」
「へぇ~、たまたま……ね」
視線を先生と合わせる。それだけで、こちらの言いたいことが伝わったような気がした。
「――なるほどね」
ふっと先生は、薄く笑顔を浮かべた。
「で、その画鋲はどこにあるの?」
「これです」
ポケットからそっと六個の画鋲を掬い上げ、先生に見せる。
「けっこう落ちてたのね。いいわ、その画鋲も衛生上、いちおう消毒しておくわ。机の上に置いておいて」
「はい」
言われたとおりに、机の空いている場所に画鋲を密集させて置く。真純がその様子を、複雑そうな表情をして見ていた。
ところで、と言って先生は時計を見上げた。
「もうそろそろ校門閉まっちゃうけど、急がなくていいの?」
「あっ……」
真純と同時に声を洩らした。
壁の時計を見ると、すでに下校終了時刻から五分も経過していた。
急いで帳簿に記録を書き込んで、鞄を引っ掴む。
「行こう、赤崎さん!」
「うん!」
「じゃ、先生、失礼しました」
一礼して、真純と一緒に保健室を飛び出した。




