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保健室は、扉の鍵が開いていたが、中は無人だった。担当の先生の姿が無い。
「職員室にでも行ってるのかな。先生が帰ってくるまで待とう」
「……うん」
入ってすぐ右手にあるベッドに、二人の鞄を置いておく。
真純は手当てを受ける人が座る丸椅子に座った。智秀は彼女からやや離れた場所に、パイプ椅子を持ってきてそれに座った。
保健室内には、消毒薬の独特の匂いに満ちている。開いているブラインドから、中庭の様子が見える。運動場から遠いため、下校する生徒たちの喧噪が、静かな室内に囁き声のように届いている。
真純は暗い顔をして、黙ったまま、床に視線を落としていた。
その横顔に、声をかけてみる。
「足、大丈夫?」
「あ――うん。もう、痛くないよ。さっきまで、ジンジンしてたけど。ごめんね、心配させちゃって」
一転して、真純は明るい表情を見せる。その笑顔が痛々しい物に見えて、智秀は次の言葉を失う。
そして、二人がお互いにまた黙ると、真純の表情はすぐに陰った。明るく振る舞おうとして、できなかったらしい。
そして、智秀自身、そんな彼女にかける言葉が見当たらなかった。
静かな空間に、壁にかかっている時計の秒針の音が規則正しく響く。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろうね」
秒針の音と同じくらい小さな声で、ふいに真純が呟いた。時計をぼんやり見ていた智秀は、それで彼女の方を振り向く。
「わたしって、そんなに邪魔なのかな……」
掠れて今にも消えてしまいそうな声だった。
真純の双眸は智秀を見ておらず、床に向けられたまま。その瞳が嵐の湖面のように波打ったかと思えば、次の瞬間には、彼女の目尻から頬にかけて雫が一筋伝っていった。
「いたいよ」
涙を流しながら、訴えてくる。
「痛い、よォ……!」
足の痛みは無いと、真純はさっき言った。今の彼女が感じているのは、もっと精神的なものだろう。
――たった、画鋲の一刺し。
それが傷付けたのは、彼女の足だけではない。
体よりも心の方が、何倍も傷付けられている。自分を否定されたと感じる時が、最も苦しくて、寂しい。宇垣智秀には、彼女の気持ちがわかる。父親に否定されるたびに、やるせない気持ちになる。
だから、あの画鋲を仕組んだ犯人の目的は、ほぼ達成されているはずだ。真純に精神的な苦痛を与えるには、あれだけで充分だったのだから。
智秀はパイプ椅子を離れ、真純の前で中腰になる。
「赤崎さん」
いつかのように、ハンドタオルで彼女の涙を拭う。
嗚咽とともに、小さい肩が震えている。彼女は両手を握り拳にして、スカートの膝上に置いていた。
「誰も、赤崎さんのことを邪魔だなんて思ってないよ」
「うそ……だって、みんな、わたしのこと、無視するんだよ」
とぎれとぎれに答えが返ってくる。
彼女の頬にタオルを当てながら、言う。
「それは、きっと、みんなが周りの人を気にしているせいだよ。みんなと同じようにしてれば、浮かないから、安心できるんだよ。僕も、ちょっと前までそうだったから、わかるんだ」
誰も止めないから、自分も止めない。
そうすることでクラスメートたちとの一体感を感じ続けて、安心していた。なぜあの時、宇垣智秀は群れを飛び出せなかったのか。今ならわかる。倫理や道徳よりも、多数派の意思に身を預けていたほうが楽だったからだ。
「みんなも、本当は赤崎さんのことを気にしてるんだよ。ただ、それを表に出すと、周りと違うことになる。それが嫌だから、みんな赤崎さんを無視しているんだ。だから、誰も赤崎さんのことを邪魔だなんて思ってない」
そう、確信していた。
真純が泣いたままの瞳で、見返してくる。そこには疑惑の色が表れていた。本当にそんなふうにみんなが考えているのか、という疑惑。
智秀は優しく、そんな真純に諭すように言う。
「嘘っぽく聞こえるかもしれないけど、僕の言うことを、信じて欲しい。――僕もみんなと同じように、赤崎さんを無視してた。けど、今はこうして赤崎さんと話せている。みんなだって、キッカケがあれば、僕みたいに一歩を踏み出せるはずなんだ」
青樹叶が背中を押してくれたから、クラスメートの輪から飛び出して、赤崎真純の味方になったように。他の生徒だって、自分の心に正直に動くことができるはずだ。
「だから、赤崎さんには信じて欲しい。僕のことも、クラスのみんなのことも」
向けられる濡れた瞳を、しっかり受け止める。
しばらく見つめ合っていると、真純はひと言だけ小さく「うん」と、喉を鳴らしたように応えてくれた。そしてまた一筋、涙がこぼれた。




