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四時間目は体育だった。わたしは更衣室の片隅で、人目を避けるように素早く着替えをすませて、武道場に入った。
今日から体育は柔道だ。体育は、隣のクラスと合同して行われるので、二クラス分の生徒が集まる。自然と、武道場の中は教室以上に賑やかになる。
授業開始よりやや早めに、いかにも体育教師というガッチリした体格の男の先生がやって来て、号令をかけた。コワモテの先生なので、ちょっと恐い。
「まずはあっちに置いてある柔道着を各自着ろ。帯を締めたら、ここに集合」
先生の指示に、みんなが柔道着を倉庫から持ってきて、各々で着始める。わたしもみんなと同じように、道着を持ってきて着る。
腰の帯の結び方がわからなかった。
したなくわたしは腰の帯を蝶結びにしておいた。他の人の結び方と違うのは、自分でもわかっている。けれど、周りの人達に「どうやるの?」と尋ねることも、できなかった。隣のクラスの人に訊いても良かったんだろうけど、なんとなく訊きづらかった。
わたしはさっさと集合場所に戻る。先生はトイレにでも行ってしまったのだろうか、姿が見えなかった。
「宇垣ぃーッ、これってどーやって締めるんだよ」
みんなが柔道着を着付けている中、冬園元くんの声がした。宇垣という名前が聞こえただけで、思わずドキッとしてしまう。
チラッと、二人の方を盗み見る。
帯を締めていない、前の開いた柔道着を着た冬園元くんに、宇垣くんが歩み寄っていくところだった。
「冬園……帯の結び方ぐらい、知ってるだろ」
「知らねーから訊いてるんだよ。なあ、ちょっと手伝ってくれよー」
ハァと宇垣くんはため息をついたようだった。
「しょうがないなぁ。教えてあげるから、次からは自分でやれるように、覚えるんだよ?」
困ったような顔をしながらも、彼は冬園くんの腰に手をやって、帯を結んであげた。なんだか優しい光景だった。
「センキュ!」
それだけお礼を言うと、冬園くんは他の人のところに飛んでいった。何をするのかと目で追っていたら、まだ帯を締めていない人の帯を使って、その人をコマのようにクルクル回して遊び始めた。あれって時代劇によくあるシーンだよね、と思って――
「赤崎さん」
「わッ!?」
すぐ真横からの、宇垣くんの声に飛び上がった。
いつの間に傍に来ていたのか、彼はわたしのすぐ前に立っていた。
「あ……ごめん、驚かせちゃった?」
「え――ううん、全然、そんなこと」
笑ってごまかす。
「えっと……宇垣くん、どうしたの?」
「ん。赤崎さんが一人でいたから、ちょっと話しかけに来ただけだよ」
何気なく、サラッと宇垣くんは言った。けど、そんな言葉が、わたしには嬉しかった。話しかけてもらえただけで、さっきまでの寂しさが一気に消し飛んでいった。
ありがとう、と口にするのは恥ずかしくて、わたしは曖昧に笑うことしかできない。
と、ふと宇垣くんの身なりに違和感を感じた。彼はこれから柔道するというのに、眼鏡をかけたままだった。
「宇垣くん……柔道の時間なのに、眼鏡かけてて大丈夫なの?」
「ああ、これ? いや、たぶん大丈夫じゃないよ」
「えー、じゃあどうしてかけてるの?」
おかしくて、思わず笑ってしまう。
宇垣くんは苦笑いして、
「今は大丈夫でしょ。つかみ合いとか、技のかけ合いになったら、ちゃんと外すよ」
と、彼はわたしのおへそ辺りに視線を落として、
「それにしても、独創的な結び方だね、それ」
「あ、これ? えへへ、やっぱりヘンだよね。わたし、帯の結び方わかんなくって。訊く人もいないから、こうするしか無かったんだよね」
「……そうなんだ」
宇垣くんは一瞬だけ、笑っているようで笑っていない、そんな顔をした。余計なことを言って、気を遣わせてしまったのかもしれない。
しまったな、と後悔する。
と、彼はいきなり自分の帯を解き始めた。わたしが「えっ」と驚くと、彼は言った。
「じゃあ、教えてあげるよ、結び方」
「教える……て、どうやって?」
ビックリして尋ねると、宇垣くんは笑って
「僕のを見て、それを真似すればいいに決まってるじゃないか。まさか、僕が赤崎さんの腰に手を回すわけにはいかないでしょ」
「う――そう、だよね」
思わず、彼がわたしのおへそ辺りに手で触れているのを想像して、顔が熱くなってしまう。
「じゃあ、まずはね」
宇垣くんはわたしの内心なんて知らないまま、もう一度、わたしのためにゆっくりと帯を結んで見せる。わたしはそれを見ながら、そのまんま真似をした。おかげでなんとか、形だけはそれらしくなった。
蝶結びはやっぱりヘンだった。
「わ……すごい、なんか柔道着っぽい」
「もうちょっと両端を強く引っ張って、強くしておかないと解けちゃうよ」
「そうなの?」
言われたとおりに、帯の結び目をきつくする。
「ありがと。宇垣くんって、物知りなんだね。こんなこと知ってるなんて」
「物知りってわけじゃないよ。柔道って何回か授業でやってるから、覚えただけ」
笑いながら言う宇垣くん。
覚えた……か。
やっぱり、宇垣くんて頭いいんだぁ。
それとも、一、二年生の時にも柔道の時間あったのに覚えてないわたしがバカなだけ?
軽くショックだった。
「あ、先生だ。それじゃ、またね」
武道場のドアの方を見た宇垣くんは、そう言って、すぐ自分の集合場所へ戻っていった。
見ると、先生が出席簿を持って武道場に入ってきたところだった。職員室に出席簿を忘れて、取りに行っていたようだ。
先生の姿を見ると、みんなはしゃべるのをやめて、駆け足に先生の前に集まってくる。
「全員帯を締めたな。よろしい。では、一回目の授業である今回は受け身の取り方と、簡単な寝技だ。まず、受け身だが――」
それから、先生の見本を見てから、みんな一緒に武道場の畳の上で受け身の練習をした。後ろに倒れるのは、頭を打ちそうで恐かった。
一通り、受け身を練習し終えたら、次は寝技の練習だった。
これも、まずは先生が手本を見せるらしい。
「よぉし、冬園、お前ちょっと練習台になれ」
「えー、なんで俺なんすかー!」
「元気が有り余ってるやつのほうが、技のかけがいがあるってもんだ。四の五の言わずこっちこい」
指名された冬園くんは、みんながクスクス笑う中、不満そうな顔で先生のもとまで出て行った。次に、先生に言われ畳の上に仰向けに寝る。
「今回は一番基本の寝技だ。いいか、よぉーく見てるんだぞ」
先生が冬園くんの真横に座り、ゆっくり寝技をかける。
「まず右手は相手の襟もと。反対の手は、このように脇に通して……思いっきり体重をかける!」
「いでででッ! 先生、ちょ、痛いんすけど!?」
「さあ冬園、体を半分ひっくり返して見せろ」
「その前に胸の上に乗ってる肘が痛いんだっつーの! 新手の体罰だろこれ!?」
悶絶しながらもジタバタして先生の腕から抜けようとする冬園くん。けれど、どれだけ畳を蹴って体を回転させて、脱出を試みても、先生はガッチリ冬園くんを捕えたまま。
一分ぐらいが経過した。
結局、冬園くんが息も絶え絶えになったところで、先生は技を解いた。
「この――筋肉、教師……」
解放されたあと、当分冬園くんは動けなかった。畳の上でうつぶせになったまま、恨めしげに先生を見る。
そんな彼の様子など気にも留めず、先生はさっさと起き上がってみんなに指示する。
「今みせた技を、友達とペアになって練習するように」
始め、と先生が手を叩いた。
すると、他の人達が「一緒にやろう」と声をかけあい始める。仲のいい子たちが、当然だけど、二人一組になっていく。そんなただ中にあって、わたしは立っていることしかできなかった。
ペア――か。
声をかけるべき人なんて、誰もいなかった。宇垣くんは男子だし、それに、彼には真っ先に冬園くんから声がかかっていた。
どうしようか。
同じクラスの人達を誘っても、断られるのは目に見えている。だからといって、隣のクラスの人達とも、面識があまり無いので誘いづらい。
こういう〝仲のいい者同士で集まって何かしろ〟という授業が、今はもの凄く苦痛だった。
四月の時なら、と思わずにはいられない。もし四月の時に、こういうことになったら、迷わず瑠璃に声をかけていただろう。
けど今は……。
無理、かな……。
いま声をかけても、断られちゃう、かな。
周りを見る。
瑠璃はまだ相手が決まっていないらしい、一人で周りをキョロキョロ見ていた。
その様子に、ホッとして、勇気づけられる。
あれなら、断られないかもしれない。
一緒のペアに、なってくれるかもしれない。
そしたら、前みたいに話せるようになれる……!
決心する。瑠璃に、声をかけてみよう。
もし彼女に、わたしへの友情が残っているなら、断らないはずだ。わたしは、長い時間を〝友達〟として一緒に過ごした、平泉瑠璃を信じている。
瑠璃の方へ歩いていって――
「ね、瑠璃……」
声を、かけた。
他の方を見ていた瑠璃は、驚いた顔をしてわたしを振り返る。その表情は、険しかった。
「あのさ……わたしとペアに、なろうよ」
瑠璃が息を呑むのが、見つめ合っていてわかった。
わたしはできるだけ自然な笑顔を作っていた。胸は緊張と不安と期待で締め上げられていて、苦しい。
「――あ」
瑠璃は声を洩らして、
それまでわたしと合わせていた視線を、逸らした。
「あ……ねぇねぇ、ごめん、一緒にやってくれない?」
瑠璃は、近くにいた、まだペアの決まっていない人に声をかけた。その人は隣のクラスの人で、いきなりのことに驚いた様子で、わたしの方を心配そうに見る。
「いいけど……赤崎さんが」
「その人はもういいの」
遮るように瑠璃が言った。
その人。
ソノヒト。
足場が崩れていくような気分に襲われて、わたしは息もできずに立っていた。
瑠璃と、そのペアの人が、わたしの近くから離れていく。
その、ひと……。
瑠璃が、わたしのことを、「その人」って……。
視界がかすむ。
名前で呼び合う仲だった瑠璃に、さも赤の他人のような口ぶりで言われた。
泣きたくなる。鼻の奥が、熱くなる。
もうわたしたちには何も無い。
そう突きつけられたようで、寂しくて悲しい。
〝友達〟になんて戻れない。
瑠璃とわたしは、もう、ダメなんだ。
認めたくない事実に、立ちつくす。
気づけば、ペアを作っていないのはわたしのみになっっていた。
「なんだ、赤崎、お前余ったのか」
先生がわたしを見て、言った。
「しょうがないな……。おい、そこの二人、赤崎を入れてやってくれ」
そうして最後は、隣のクラスのペアに、入れてもらうことになった。話したこともない人たちだったので、あとの授業では、当然わたしは何もせずに畳に座っているだけになった。
すごく……惨めな気持ちだった。




