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「宇垣くん」

女子の声がして、机に広げていた本から目を上げると、図書館の出入口に真純の姿があった。彼女はこっちに駆け寄ってくるとすまなさそうな顔をする。

ちらっと時計を見ると、下校終了時刻まであと三十分になっていた。図書館内には、もう受付係の生徒しか見当たらない。いつの間にか、他の利用者は帰って行ったようだ。

「ごめん、待たせちゃったよね」

「いいや。おかげで、塾の予習と学校の宿題が両方できたよ」

彼女に笑顔で答えながら、本を閉じる。その表紙に真純が視線を落とした。

「『星座大百科』……宇垣くんって星座が好きなの?」

「いや、べつに。時間が余って、たまたま手に取った本がこれだったんだ。読んでみると面白いよ」

本をもとあった場所に戻して、真純と一緒に図書館を出た。

――下校完了時刻まで、あと三十分です。部活動をしている生徒は、後片付けを始めてください――

ふいに流れた校内アナウンスが、薄暗い廊下に反響した。

特に真純と話すこともないまま、下駄箱に着くと、運動靴に履き替えた。

昇降口を出る。グラウンドを使っていた運動部の生徒たちは、帰り支度を始めていた。

その風景を横目に見ながら、正門を抜けた。

下校する生徒たちがまばらな道を、一緒に歩いていても、真純は何もしゃべりかけてこない。智秀も話題が無かったので、黙っていた。

ひょっとしたら柏原美里たちの存在に怯えているのかもしれなかった。

いや、たぶんそうだろう。彼女はこうして隣を歩いている今も内心は怯えている。だから余計なことに気を遣っていられないのだ。

そう確信したのは、真純が本来なら折れるべき曲がり角を、素通りしようとした時だった。

「赤崎さんの家って、こっちじゃないのか?」

「え、あ……そうだった、えへへ、ボーッとしてた」

取り繕うように真純は笑った。


そこまで恐い……んだよな。


彼女の家への道に入ると、他に同校の生徒は歩いていなかった。あたりを見回して、ふと真純に言う。

「柏原さんたちなら、いないよ」

「へ?」

驚いた顔で、彼女は振り向く。

「いきなり、なんのこと?」

「え――」

まったく要領を得ていない彼女に、説明する。

「だから、柏原さんたちのことが気になって、ずっと恐がってるみたいだから、安心していいよって……」

なんで僕が説明してるんだ、と内心で自分に突っ込む。

彼女はややあって、「あ」と声を洩らした。その表情があまりにも的外れなものだったので、だんだんと不安になってくる。

「もしかして……僕の言ってることって、違う?」

「えーっとね」

答えづらそうに真純は言葉を濁していたが、やがて小さく「うん」と頷いた。

ショックだった。


げっ!

じゃあ僕は一人で勝手な推測して、ヘンなことを彼女に口走ったのか!?


恥ずかしさのあまりに、耳が熱くなる。

「ご、ごめん。わたしがずっと黙りこくってたのがいけないんだよね、変な誤解させちゃって、ごめん」

「……いや、赤崎さんは悪くないよ」

かえって、謝らないでほしかった。そもそも勘違いしたのはこっちなのだから、余計に悪い気がしてしまう。

「でも、本当に、柏原さんたちのことは気にしてないんだね?」

「うん。宇垣くんが、隣にいてくれてるから、もし柏原さんがいたって恐くないよ」

そう言った彼女は、不意に、はにかんだ顔で俯いた。

「ただ……ね。緊張、しちゃう」

「緊張? どうして?」

「だって――宇垣くんが、隣にいるんだもん」

恥ずかしそうに真純が口にした。

どういう理屈なんだ、と彼女の言に疑問を抱く。

「僕が隣にいると安心して、しかも緊張するの?」

「うん」

マジメな顔して真純は頷いた。

その答えが、妙におかしくて、少し笑えた。

「そんなことがあるんだ」

「あ、あるよっ」

笑われたことが恥ずかしかったのか、真純は意地になったように言った。

「宇垣くんが知らないだけで、そういう気持ちになる時が、女の子にはあるの!」

「へぇ、そうなんだ」

素直に驚く。なんといっても、宇垣智秀にとって、女性はよくわからない生き物だ。彼女たちが何をどう考えているのか、どういう気持ちなのか、わかるはずも無い。

けれど、よく考えてみると、今の真純が言ったものと似たような気持ちを、経験したことがあるような気がする。

安堵と緊張の同居――。

それはまさに、青樹叶と会う時の気持ちだ。彼女と会って、話していると、ドキドキすると同時に、安らぎを感じるのだ。もしかしたら、真純の今の気持ちも、そんなようなものなのかもしれない。

しばらく歩いたところで、真純が訊いてきた。

「宇垣くんは、どこの塾通ってるの?」

「駅前にある『北辰塾』っていうところ。知ってるかな」

「見たことあるよ。けっこう大きい塾だよね」

真純はウーンと唸った。

「わたしもそろそろ塾通わないとダメかな……」

「あ、まだどこにも入ってないんだ」

「うん、そうなの。わたし、頭悪いから、いい加減に勉強し始めないとダメなんだよね」

困ったような表情を見せる真純。

「でも、まだ考えなくていいんじゃないか? 部活を引退するまでは、部活に集中した方がいいよ。勉強なんて夏からやれば大丈夫だって」

「そう……かな」

「それより、部活引退したあとに、部活もっとやっとくべきだったって後悔する方がキツイよ、きっと」

そう言うと、真純は驚いた顔をして、すぐ笑顔になった。

「そっか……うん、そうだよね!」

嬉しそうに真純は言う。

「宇垣くんの言うとおり、部活頑張って、勉強はそれから頑張るよ!」

「うん」

部活動を頑張ろうという彼女。その言動は、普通に暮らしている中学生のそれだ。けど、その明るさが明日もあるかは、わからない。そう思うと、彼女を見ていられなくなって、顔が自然と下を向いていた。

「いじめ……」

真純の呟きに、ハッと顔を上げた。

彼女は物憂げな瞳で、道の先を見ていた。

「いじめ、まだ続くのかな」

「――どうだろう。僕にも、わからないよ」

本心を偽って答える。本当は、おおかたの予測はできていた。

真純は前を見たまま、

「このままいじめが無くなってくれたら、嬉しいんだけどなぁ」

と、弱い声で言った。そう期待している反面、もしかしたらそれが叶わないかもしれないという予感が、彼女の胸中にあったのかもしれない。


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