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わたしが教室へ入ると、それまで話し声で騒がしかった教室内が、潮がひいていくように静かになっていった。教室の後ろの扉から入ったわたしに、大勢のクラスメートが驚いた顔で視線を向けているのがわかった。
チラッと教室中を一瞬見回してみた。
宇垣くんの姿は、無かった。まだ登校していないんだろう。
立ち止まっていると背筋が震えた。たくさんの視線の中、足早にわたしの席へ歩み寄る。
わたしの机は、見た目はいたってキレイだった。落書きも何も書かれていない。
鞄を机の横にかけ、座る。
机の中に手を入れてみると、そこにはプリントが押し込まれていた。わたしが休んでいる間に、あの人たちが放り込んだに違いない。
悔しかった。
けれど、悔しい以上に、不思議だった。
量が少ない……?
取り出してみると、投げ込まれていたプリントは、ほんの五枚だった。一週間近くも休んでいたのに、たった五枚しか机に入っていないなんて不思議だった。
囁き声が、教室の至るところから聞こえてきた。赤崎という単語だけが、ハッキリ聞き取れた。
わたしは席を立って、ゴミになってしまったプリントを廊下のゴミ箱に捨てに行った。
そして、また席に戻ってくる。
と、
女子が六人、集団でわたしの席に近づいてきた。わたしをいじめている人達だった。
「おはよォ、赤崎さん」
そのうちの一人が、猫なで声で話しかけてきた。この女子グループを仕切っている人で、名前は柏原美里。彼女は、楽しそうな口調で言う。
「風邪でずっと欠席してたのに、出てこれるようになったのね」
頭上で発せられる言葉を聞きながら、わたしはジッと座ったまま、動けなかった。目を合わせるなんてことはできない。
恐かった。教室に入るまでは気丈でいられたのに、やっぱりこの人たちが近くに来ると、恐かった。
「あたしたち、とっても嬉しいわ。この一週間、ずっとヒマだったのよ。赤崎さんで遊べなくて」
「っ、ア!」
突然頭に激痛が走って、わたしは思わず声をあげた。
髪の毛が横から引っ張られた。わたしを取り囲んでいた女子六人のうちの一人が、わたしの横髪を力強く握っていた。
頭の皮膚が剥けそうに痛む。
恐くて、痛い。
けど、負けたくなかった。
顔を上げる。柏原さんの顔が、まず一番に見えた。彼女は口もとに微笑を浮かべて、嘲笑うような冷たい瞳でわたしを見下していた。
そして次に、柏原さんの右隣にいる女子を、見る。
その女子は――笑っていなかった。
周りの人達を見ると、みんな一様に面白そうに笑っているのに。
彼女だけは笑っていなかった。だから、わたしは笑顔を浮かべて、彼女に言うことができた。
「おはよう、瑠璃」
恐さと痛みを押し隠して言った言葉に、彼女は驚いたように目を見開いた。
けど、それが見えたのもつかの間。
頭の皮膚が、裂けそうなほどの痛みを発した。
「なに勝手に口きいてんのよ!」
さっきよりも倍以上の力で、髪が引っ張られる。反射的に痛みを和らげようと、体が勝手に髪の引かれる方向へ傾く。
バランスを咄嗟に取ることができず、気づいた時には、わたしの視界は真横になっていた。
ゴン、と。体の半身が床にしたたかにぶつかり、一緒に倒れ込んだ椅子がけたたましい音を教室に立てた。倒れる間もずっと髪を握られていたせいで、髪の毛が何本か抜けたようだった。
床に落ち、息つく間も無く、背中に突き抜けるような衝撃がぶつかる。
「オハヨウなんて、何様のつもり? 赤崎さんなんて、人としゃべっちゃダメなんだか、らッ!」
二度目の、鋭い衝撃。
背中を蹴られていた。そのせいで、息をするのもままならなくなる。痛くて苦しくて、意志に反して、涙が溢れてくる。
泣きそうになってしまう。
けど、わたしは、それを奥歯を噛んでこらえる。
こんなことに、負けちゃいけない!
わたしは……もう、違うんだから!
呼吸が乱れて上手く空気を吸い込めない。
「も、う……」
それでも胸の内に残っている、少ない空気を、わたしは大声にして吐き出した。
「――もう、やめてよッ!」
直後、周りにいた女子全員が動きをピタリと止めた。
「もう……こんな、こと」
首を回して、上を見上げる。
この女子グループのリーダー格、柏原美里と目が合う。彼女の表情は、苦々しく歪んでいた。わたしがハッキリと「やめて」と言ったことが、そうとう気に入らなかったらしい。
「偉そうに……!」
吐き捨てるように、彼女は言って、右脚を上げた。
「意見するんじゃないわよ!」
持ち上がった柏原さんの右脚が、一直線に、わたしのお腹めがけて振り下ろされる。
その寸前に――
「赤崎さん!」
――宇垣くんの声が、聞こえた。
すぐ近くの、教室後ろのドア。
その場にいた誰もが、弾かれたようにそっちを向いた。わたしは床に倒れた姿勢のまま、みんなの視線の先を目で追った。
宇垣智秀くんが、そこにいた。たったそれだけを確認しただけで、さっきまでの苦痛も恐怖も吹き飛んだ。
わたしの方を厳しい顔をして見ていた彼は、駆け足で近づいてくる。彼が傍に来ると、囲んでいた女子たちは柏原さんの周りに逃げるように集まった。
「大丈夫?」
わたしのすぐ近くに片膝をついて、宇垣くんが優しい声で尋ねてくれる。
「う……うん、なんとか」
「そっか。よかった」
宇垣くんの右手が、わたしの目の前に差し出された。
一瞬、その手の意味がわからなくて彼の顔をじっと見てしまった。
「あ」
彼は、わたしが起き上がるのを助けようとしているんだ。そう気づいて、すぐにわたしは彼の手を掴んだ。
「……ありがと」
宇垣くんはわたしの手をしっかり握り返し、ゆっくり立ち上がる。それに引っ張られるようにして、わたしも立ち上がった。
触れ合っている手が、熱い。
助けて、くれた。
みんながわたしを見放していたのに。
宇垣くんは、わたしのことを――
彼女たちを見ていた時と違って、今、わたしを見ている宇垣くんの表情はすごく優しいものだった。なんだか恥ずかしくて、わたしは思わず伏目になってしまう。
「ちょっと、宇垣くん。なにしてんのよ」
柏原さんの刺々しい声がした。
一転して、宇垣くんはさっきまでの厳しい表情に戻って、柏原さんとその近くに集まっている女子たちのほうを見た。
リーダー格の柏原さんが、一番前に出て、宇垣くんと向かい合う。
「あたしたちは赤崎さんと遊んでたのよ、邪魔しないでちょうだい」
怒っているのを隠そうともせず、彼女は声も大きく、堂々と文句を言った。
そして、それに対応する宇垣くんの声は、それとは対照的に落ち着いていた。
「……柏原さん、もう、いい加減にこんないじめはやめるべきだ」
「いじめ? それは違うわ。あたしたちはただ、みんなで赤崎さんと遊んでただけよ」
白々しくそう言うと、柏原さんは、ねぇー、と周りの女子たちに確認するように声をかけた。彼女たちはみんな、うんうんと頷いた。瑠璃も……小さいけれど、一度だけ首を縦に振った。
誰も宇垣くんの言葉を、真剣に耳に入れなかった。きっと、彼女たちに悪気なんて無いんだ。悪いところを指摘されても、みんなでそれを否定すれば、それ以上は問われないと思っているんだ。
いじめてなんていない、とシラを切る彼女たち。
わたしが腹を立てているのと同じように、宇垣くんも怒ったのかもしれない。不機嫌そうな口調で、彼は笑いあっている彼女たちに、口を開いた。
「僕は赤崎さんがいじめられているのを見過ごすことはできない。もし、きみたちがまだ赤崎さんをいじめるようなら、先生にこのことを言って、止めてもらうしかなくなる」
「先生?」
フフッと柏原さんは笑った。
「残念でしたァ。戸塚にチクったって、無駄よ。あんなビビリな先生じゃ、何もできやしないわ」
さも自分の勝ちだと言わんばかりに、彼女は胸を張って言った。彼女にしてみれば、担任の戸塚先生なんて何もできない人にしか見えないんだろう。
たしかにそうだ。あの先生は、今もわたしのいじめを無いものとして扱っている。残念だけど、いくら宇垣くんが言っても、真剣に取り合ってはくれないだろう。
そう思っていた。けど、宇垣くんはちっとも弱気になった様子を見せず、さらに柏原さんに言った。
「何も先生はあの人だけじゃない。僕はこの学校中の先生に、このことを相談して、一人でも協力してくれる人を探すつもりだ。保健室の先生はもちろん、場合によっては、校長先生に訴えてもいい」
柏原さんの笑顔が、一瞬で固まった。
〝校長先生〟と聞いて、他の女子たちの顔からも余裕の色があっという間に消えた。
「こう、ちょう――ですって?」
凍った笑顔のまま、彼女は聞き返す。
「宇垣くん。あんた、そんなことできると思ってるの?」
「もちろん。僕は、本気だ」
段々と柏原さんの表情が険しくなっていく。
「大人に頼ろうとするなんて、宇垣くんってお勉強ができるだけで、案外ガキなのね」
「正しいことをするんだ。ガキでも何でもいい。でもね、これだけは言っておく。本当にきみたちが自分のしている行為を正しいと思っているなら、たとえ校長先生が相手になっても、何も恐がることはないだろう。もし恐がるのなら、それは、きみたちに罪の自覚がほんの僅かでも存在するということだ」
堂々と、自信に満ちた言葉だった。自分は間違っていないと誰に対しても公言できるなら、恐がる必要は無い。そう口にした彼自身、何も恐れてなんていない様子だった。
宇垣くんは自身の言葉を、そのまま体現していたのかもしれない。
対する柏原さんたちは、もう何も言い返せず、彼を睨んでいるだけだった。
その時点で、もうどちらの言い分に理があるのかは明白だった。
ふと見ると、教室中のみんなが、わたしたちの方をジッと見ていた。誰もひと言も交わさず、宇垣くんと柏原さんの二人に視線を注いでいた。
水を打ったような静かな教室に、突然、黒板の上のスピーカーがチャイムを発した。その直後、沈黙の重圧に耐えかねたように、柏原さんの近くの一人がいきなり声をあげた。
「せ――席、もどろぉっと!」
彼女はそそくさと自分の席に戻っていく。すると、他の女子たちも「わたしも」と足早にその場を去る。遠巻きに見ていたクラスメートたちも、慌てて動き出した。
宇垣くんとずっと視線をぶつからせていた柏原さんも、最後には体を反転させて、わたしと宇垣くんから離れていった。
椅子を引く音で騒々しくなる教室。
ふぅ、と宇垣くんが息を吐き出すのが聞こえた。
「あ……宇垣、くん」
「うん?」
振り向いた彼は、いつもの優しい顔になっていた。
「あの、ありがと、助けてくれて」
「ケガはしてない?」
「うん、ちょっと背中、痛いけど……でも大丈夫!」
「そっか。なら、良かった」
さっきまでの剣幕が嘘だと思えるほどの、優しい笑顔。
「それじゃあ、またあとでね」
彼はそう言うと、自分の席のほうへ歩いていった。
わたしはしばらくボーッと立って彼の後ろ姿を見ていたけど、担任の戸塚先生が教室に入ってきたので、すぐに椅子を立て直して自分の席に座った。




